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ぱんくず通読帳

聖書通読メモ

ルカを読んで泣いた

2006-07-09 14:12:56 | ルカ
まだ母教会にいた頃、
私は通勤の途中に聖書を読んでいた。
たまたまその日読んでいたのは
ルカの最後の晩餐の場面だった。
イエスが十字架にかけられてから息を引き取るまで、
6時間もの長い時間が経過しているという。
この6時間、
イエスは十字架の上で何を思っておられたのだろう。


マタイ伝やマルコ伝の十字架上の悲痛な言葉、
『わが神、わが神。
どうしてわたしをお見捨てになったのですか。』は
あまりにも痛ましく、十字架刑の苦痛が生々しい。
初めてマタイ伝を読んだ時、
私はイエスが極限の苦痛に耐えかね、
絶望して息を引き取ったのかと思った。
でも後になって旧約聖書も読むようになると、
詩篇22篇に全く同じ言葉を見つけた。
『わが神、わが神。
 どうしてわたしをお見捨てになったのですか。』
に始まって
結びは救いの確信に満ちた神への賛美に終わっている。
イエスは十字架の上で苦痛のうちに詩篇を暗誦し、
祈っていたのだろうか。


ルカ伝の十字架の場面ではイエスの言葉が違う。
『父よ、わが霊を御手にゆだねます。』
他の福音書の十字架の場面に比べて
ドラマっぽく作り物臭い気がすると感じた。
書き手の性格なのかな。
私は自分なりに考えた。
「どうしてお見捨てになったのですか」という
イエスの言葉に信徒が躓く事を恐れて、
福音書の筆者が予定調和的に捏造したのではないか…。
私はごく最近まで勝手にそう思っていたが、
ウィリアム・バークレーによるとそうではないらしい。


『…これはユダヤ人の母親が子供に教えた
おやすみの祈りの最初の部分なのです。
ちょうど私たちが「今晩もよく眠れますように…」
と教えられたように、
イエスは子供の祈りを口にして、死んだのです。』
 (『戦うキリスト』新教出版社・ウィリアム・バークレー著)


若年層向けのこの解説を読んで思い出した。
『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』
                (ルカ3;22 新共同訳)
私の読み方は間違ってたな、と思った。


その日は寝たきりの人を30人ほど、
一日がかりで入浴介助した後、
汗と共に全身の毛穴から老廃物を
全て出し切ったような爽快感に浸りながら、
夜の集会に出ようとしていた。
集会までまだ時間があったので、
ファミレスで時間つぶしに聖書を読んだ。
ルカ伝の最後の晩餐の場面を読み進んだ。


『シモン、シモン、サタンはあなたがたを小麦のように
 ふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。
 しかし、わたしは
 あなたのために、信仰が無くならないように祈った。
 だから、
 あなたは立ち直ったら、
 兄弟たちを力づけてやりなさい。』
         (ルカ22;31~32 新共同訳)


わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。
イエスを裏切った後、
ペテロはイエスのこの言葉を何度も反芻したに違いない。
何だか涙腺が緩んできた。
大変だ。泣けてきた。
コーヒーのお代わりのねーちゃんがこっちに来る!
どうしよう。アホみたいだ。
顔も上げずにお代わりを断わった。
そのまま受難の場面まで読み進んだ。


『父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。』
              (ルカ23;46 新共同訳)


幼い子供のようでなければ
神の国に入ることはできないと言ったイエスご自身の、
バークレーの言う十字架の上の"子供のおやすみ"。
バークレーという人はキリストが大好きで聖書を読むのが
楽しくて仕方がないからきっとこんな風に読むのだろう。


教会に着くともう集会は始まっていて、
すでに聖書の輪読が始まっていた。
その日久しぶりに出た集会で皆が読んでいた聖書の箇所は
詩篇31;6。
何たる偶然。


『まことの神、主よ、御手にわたしの霊をゆだねます。
私を贖ってください。』(詩篇31;6 新共同訳)


この言葉も詩篇だったのか。
集会の場、皆の前なのに涙腺がまた緩んできた。
イエスこそまさに無心に天の父を慕う『おさな子』であり、
父なる神の『愛する子』。
私の右脳は活発だ。
十字架の上で恥辱と苦痛のうちに
おやすみのお祈りを口にして息を引き取った、
そんなイエスがどこまでも無心な子供だった気がして、
それで泣けてきたのだ。

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