goo blog サービス終了のお知らせ 

ぱんくず通読帳

聖書通読メモ

しみじみ、乾燥果実

2010-10-25 21:29:45 | 未分類
干し葡萄と干し無花果。
いずれもイラン産。


食べながら
旧約の歴史書を読んでみる。

濁流の中の苗木

2010-10-05 02:29:11 | ヨハネ黙示録
ヨハネの福音書、三つの書簡、黙示録と読み進む。


 愛する者たち、互いに愛し合いましょう。
 愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、
 神を知っているからです。
                       (Ⅰヨハネ4;7)


愛を説くヨハネの言葉“愛”は
浮かれのぼせたピンク色の安っぽいハートとは無縁だ。
福音書も、手紙も、黙示録も、読んでいて息苦しくなるほど
生々しい血みどろの苦痛に満ちている。
まるで筆者が血を流しながら書いたような文章だ。
この人が全身に付けられた無数の傷口から
どくどく血を噴き出させながら
福音書や手紙や黙示録を書いたのではないかと思わされるほどだ。


ヨハネはイエスの弟子達の中で
唯一人殉教せず長寿を全うしたと言われるが、本当だろうか。
だとしたら
拷問で肉体を痛めつけられて殺されるだけが
殉教ではないのかも知れない。
心が血を流す事も、人間にはあるからだ。


ヨハネは日々目撃していたに違いない。
外で大迫害に晒され、内は異端に蝕まれる教会の姿を。


互いに愛し合えと勧め、
間近で見て聞いて手で触れたイエス・キリストの愛を説き、
信仰者達を励まし力づけながら、
昨夜共に祈った主にある兄弟姉妹が今日は何人、今日は何人と
目の前から次々に消えていく日々。
誰も彼も逮捕され、引き摺り回され、十字架につけられ、火炙りにされ、
首を刎ねられ、車咲きにされ、獣の餌食にされていく。
仲間達が続々と処刑される中で生き延びた、
気の遠くなるほど長いヨハネの苦難の年月を思い浮かべる。


先に殺された者の方が幸せだったかも知れない。
仲間の断末魔の叫びを聞き、拷問と処刑を毎日目に見て、
教会の内側に巣食った異端と戦って、
生き残った信仰者を励まし続けたヨハネの苦難。
まさに風前の灯のような、小さな苗だった教会を
嵐と濁流から守り育てようとしたヨハネの
90歳まで生きたといわれる歳月。
この世の生涯を完走し切った最後の瞬間まで、
ヨハネはその心の中でどれほどの血を流し続けた事だろう。


 あなたは、受けようとしている苦難を決して恐れてはいけない。
 見よ、悪魔が試みるために、
 あなたがたの何人かを牢に投げ込もうとしている。
 あなたがたは、十日の間苦しめられるであろう。
 死に至るまで忠実であれ。
 そうすれば、あなたに命の冠を授けよう。
                    (ヨハネ黙示録2;10)


10日間。
苦難は10日の間だけ。
11日目が来る、必ず来る。
ヨハネにとって苦難の10日間は
90歳まで続いたのだろうか。



  「絶望してはいけない。
   どんな状況のただ中でも絶望してはなりません。
   ヨハネの黙示録は次のようにいいます。
   ・・・これは慰めの言葉です。
   10日の間、苦難にあう、
   しかし11日目はないのです。
   苦難は必ず区切られる。
   無限に続くと思い込んではなりません。
   まさに信仰者とは
   11日目をめざして歩む者です。」
        (辻宣道著『教会生活の四季』/日本基督教団出版局)


20世紀に辻牧師が講壇から説いた11日目の希望は、
2000年の昔、ヨハネが目指し信じて
信仰者達を励ました希望に違いない。
夥しい傷を心に負い、血を流しながら。

折られなかった骨(詩篇34)

2010-09-29 23:52:03 | 詩篇
福音書記者ヨハネは“折られなかった骨”に注目している。
旧約に記されている預言の成就。
旧約聖書に書かれてある事が、イエスによって実現されたと。




主に従う人には災いが重なるが
主はそのすべてから救い出し
骨の一本も損なわれることのないように彼を守ってくださる。
                (詩篇34;20~21)


  …兵士たちが来て、
  イエスと一緒に十字架につけられた最初の男と、
  もう一人の男との足を折った。
  イエスのところに来てみると、既に死んでおられたので、
  その足は折らなかった。 
                          (ヨハネ19;33)


  これらのことが起こったのは、
  「その骨は一つも砕かれない
  という聖書の言葉が実現するためであった。
                      (ヨハネ19;36)


しかし、兵士の一人が槍でイエスのわき腹を刺した。
すると、すぐ血と水とが流れ出た。
                     (ヨハネ19;34)


…また、聖書の別の所に、
彼らは、自分たちの突き刺した者を見る」とも書いてある。
                           (ヨハネ19;37)


   彼らは、彼ら自らが刺した者であるわたしを見つめ、
   独り子を失ったように嘆き、初子の死を悲しむように悲しむ。
                          (ゼカリヤ12;10)



ヨハネは強調する。
イエスの死が早過ぎた埋葬による仮死状態からの蘇生ではなく、
本当に死んで変質した肉体が甦った事を強調する。
分離した血液がその証拠であり、ヨハネ自身が目撃したと。


それを目撃した者が証ししており、その証しは真実である。
                         (ヨハネ19;34~35)


十字架刑が一番残虐な処刑の仕方であると言われるのは
すぐには死に切れないからだと聞いた。
じわじわと何時間もかけて、
囚人の体力によっては半日からまる一日もの長い時間、
炎天下に晒して脱水で絶命させる。
金曜日は、夜になると安息日が始まってしまうので
囚人の屍は十字架の上に残しておけなかった。
もしそのまま放置したら
死に切れない死刑囚が家族や仲間の手を借りて逃走するという
珍事もあり得たらしい。
見張りの兵士達にとっては責任問題であり、
万一囚人に逃げられたら自分が身代わりとして処刑される。
そんな不測の事態を避けるために、
十字架から引き降ろした囚人にまだ息があれば
逃走出来ないようにわざわざ足の骨を折ってから
安息日入りする念の入れようだったという事だ。


ひどい話だ。
しかしイエスは既に死んでいたので足の骨を折る必要が無かった。
人間の足の骨を素手や原始的な道具で単純に折るというのは
それだけで相当な労力と時間が要るであろう。
兵士達は少しでも手間隙を省きたかった筈であり、
イエスの足の骨は折られなかった。


既に死んでいたイエスに逃走の心配は無かったが、
兵士はさらに念を押して槍で脇腹を刺した。
血と水が流れ出たというのは、炎天下で脱水によって絶命したために
既に血液が凝集し固まった血球などのタンパク質と水分とに
完全に分離していた事が視覚的に書き記されている。


血液の分離はイエスの肉体の完全な死を意味している。
この時点でイエスが生存していた可能性は100%無い。
仮死状態ですらない。
血液が分離した状態で生存していられる人間は、
いや人間に限らず、
血液が変質してまでも生きていられる生き物はいない。
しかも死んでから血液が血餅と血漿とに完全に分離するまで、
それなりに時間も要る。
イエスの肉体は確実に、完全に死亡していたという事だ。
イエスの復活は仮死状態の人体の蘇生ではなかった。
分離し変質した血液が物語っている。
イエスの復活は、
確実に、完全に死んだ肉体からの復活を意味している。


私達が日々唱える使徒信条の中の「体のよみがえり」は
この事を指している。
イエス・キリストを救い主と信じる信仰告白は
完全に死んだ肉体からの復活を信じると告白し宣言している。




ヨハネは常にイエスによる預言の成就を意識して福音書を書いている。
ヨハネを開く時、参照文献として旧約聖書がどうしても必要になる。
“折られなかった骨”と“槍で突き刺した者”は
詩篇に詠われている記事とゼカリヤの預言とに確かに一致するが、
詩篇やゼカリヤ以外の他の記事にも、
イエスの事を言っているとしか思えない箇所がたくさんある。




気がつくと
救い主の記事を探して旧約の頁を捲りながら
いつの間にかイエスの姿を追い求めている。


かつて「雷の子」とイエスに呼ばれた漁師兄弟の弟ヨハネは、
師も兄も弟子仲間達も皆世を去った晩年、
一人迫害の時代を生き延び、福音書記者となって
旧約聖書を紐解いたに違いない。


激しい弾圧と仲間達が続々殉教していく日々、
ヨハネは信仰者達を励ましながら、
自分が若かった日々師と共に歩いた道程を回想しただろうか。
師の教えを反芻して涙しただろうか。
詩篇や預言書の中に見え隠れする主イエスの姿を探し求めただろうか。

隅の親石(詩篇118)

2010-09-29 23:45:49 | 詩篇
家を建てる者の退けた石が隅の親石となった。
これは主の御業
わたしたちの目には驚くべきこと。
                (詩篇118;22~23)


  イエスは言われた。
  「聖書にこう書いてあるのを、まだ読んだことがないのか。
   『家を建てる者の捨てた石、
    これが隅の親石となった。
    これは、主がなさったことで、
    わたしたちの目には不思議に見える。』
   だから、言っておくが、
   神の国はあなたがたから取り上げられ、
   それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる。
                     (マタイ21;42~43)


宗教的指導者達に対する痛烈な批判として、イエスが引用した箇所。
大祭司や律法学者達はこの詩篇をよく知っていた。
だからイエスの意図する辛辣な批判が自分達に向けられたものであると
即座に理解して、彼らはイエスを心底憎んだ事だろう。
指摘された自分達の欠けが何であるかは理解出来ないが
詩篇を引用して自分達が批判されている事だけは敏感に察知して
神経を尖らせ、イエスに対する報復と口封じを画策する。


福音書の時代のように論敵を公開処刑にこそしないが
似たような事は教会の中でこそ現実によくある。


牧師でも何でもない人が
この宗教的指導者の立ち位置に居座っているのを
昔、学生だった時や母教会にいた当時、よく見かけた。
教会の中で、
牧師以外で「○○先生」と呼ばれて「はい」と返事する人がそうだ。
会議の場で自分の意見が通らない時など
意見の合わない相手を挑発し論破するために
この箇所のイエスの真似をしたがる。


「違うでしょそうじゃないでしょ、
 あなた聖書読んだ事ありますか?
 ○○書の○章○節読んで御覧なさい、
 何と書いてありますか?」


教会の内外で単に社会的な職業柄「先生」と呼ばれるだけで、根拠無く
「私は先生だ、先生である私は皆を教育してやっているのだ」
という自認を態度と顔に出し、
周囲の嫌悪感と失笑を誘発するあの人やこの人と
福音書に登場する宗教的指導者達とは、人間像が何故か共通している。
言葉の上ではイエスに倣っているにも拘らず、
イエスの敵と同化し人間像が重なる逆説的悲喜劇。
人間は「先生」と敬称で呼ばれて腐り、
「はい」と返事して悪臭を放ち、
年月と共に熟し過ぎた果物のように崩れ、
落ちて潰れ、蝿を呼び寄せる。


恐ろしい事だ。
安穏と特権階級に居座って胡坐をかき肥え太り、
保身のためにイエスを憎悪し排斥した祭司達であっても、
本来はサムエルのような、
真っ直ぐ神と向き合う純真な子供だった筈だ。


自分は彼らとは違う、
自分は彼らのようにはならないと
断言出来る人間が何処にいるだろうか。





祝福あれ、主の御名によって来る人に。
わたしたちは主の家からあなたたちを祝福する。
主こそ神、わたしたちに光をお与えになる方。
祭壇の角のところまで
祭りのいけにえをひいて行け。
               (詩篇118;26~27)


  そこで、一隊の兵士と千人隊長、およびユダヤ人の下役たちは、
  イエスを捕らえて縛り、まず、アンナスの所へ連れて行った。
  彼が、その年の大祭司カイアファのしゅうとだったからである。
                        (ヨハネ18;12~13)


  アンナスは、
  イエスを縛ったまま、大祭司カイアファのもとに送った。
                        (ヨハネ18;24)


群集はイエスを縛り上げてあちこちへと引き回す。
いけにえを取り囲んで興奮する群衆。


自分はその群集の中の一人である。
自分はイエスを十字架まで引き摺り回した群衆の中の
無名の隠れ蓑を被った一人である。

受難(詩篇69)

2010-09-29 21:51:12 | 詩篇
宗教的指導者の偽善、欺瞞に対する
イエスの怒り。
宗教改革者の横顔。


あなたの神殿に対する熱情が  
わたしを食い尽くしているので
あなたを嘲る者の嘲りが
  わたしの上にふりかかっています。
                 (詩篇69;10)


  イエスは縄で鞭を作り、
  羊や牛をすべて境内から追い出し、
  両替人の金をまき散らし、その台を倒し、
  鳩を売る者たちに言われた。
  「このような物はここから運び出せ。
   わたしの父の家を商売の家としてはならない。」
  弟子たちは、
  「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす
  と書いてあるのを思い出した。
                  (ヨハネ2;15~17)




イエスの孤独。
受難と死を前にして
イエスは独りぼっちだった。
孤立無援の心細さと不安を
イエスは味わわれた。
夜、暗闇で一人、言葉も無く立ち尽くし
神と向き合う人の孤独を
イエスは誰よりも理解している。


嘲りに心を打ち砕かれ
わたしは無力になりました。
望んでいた同情は得られず
慰めてくれる人も見いだせません。
                (詩篇69;21)


  「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい。」
    ・・・
  「わたしは死ぬばかりに悲しい。
   ここを離れず、目を覚ましていなさい。」
    ・・・
  「シモン、眠っているのか。
   わずか一時も目を覚ましていられなかったのか。」
                        (マルコ14;32~37)


  「わたしが向こうへ行って祈っている間、
   ここに座っていなさい。」
    ・・・
  「わたしは死ぬばかりに悲しい。
   ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。」
    ・・・
  「あなたがたはこのように、
   わずか一時もわたしと共に目を覚ましていられなかったのか。」
                           (マタイ26;36~40)


  「なぜ眠っているのか。・・・」
                (ルカ22;46)




イエスの渇き。
イエスが人として生きた時代より
遡って何百年前に詠まれた詩篇の中に
十字架の上で渇きに苦しむイエスがいる。


人はわたしに苦いものを食べさせようとし
渇くわたしに酢を飲ませようとします。
                 (詩篇69;22)


  ある者が走り寄り、
  海綿に酸いぶどう酒を含ませて葦の棒に付け、 
  「待て、エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう」
  と言いながら、イエスに飲ませようとした。
                      (マルコ15;36)


  そして、ゴルゴタという所、
  すなわち「されこうべの場所」に着くと、
  苦いものを混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、
  イエスはなめただけで、飲もうとされなかった。
                      (マタイ27;33~34)

  
  ・・・「この人はエリヤを呼んでいる」と言う者もいた。
  そのうちの一人が、すぐに走り寄り、
  海綿を取って酸いぶどう酒を含ませ、葦の棒に付けて、
  イエスに飲ませようとした。
                      (マタイ27;47~48)


  兵士たちもイエスに近寄り、
  酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、言った。
  「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」
                      (ルカ23;36~37)


  そこには、酸いぶどう酒を満たした器が置いてあった。
  人々は、このぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプに付け、
  イエスの口元に差し出した。
                           (ヨハネ19;29)

パンを食べる者(詩篇41)

2010-09-29 21:21:47 | 詩篇
わたしの信頼していた仲間
わたしのパンを食べる者が  
威張ってわたしを足げにします。                  (詩篇41;10)


  わたしは、どのような人々を選び出したか分かっている。
  しかし、
  『わたしのパンを食べている者が、
   わたしに逆らった
  という聖書の言葉は実現しなければならない。
  事の起こる前に、今、言っておく。
  事が起こったとき、『わたしはある』ということを、
  あなたがたが信じるようになるためである。
                   (ヨハネ13;18~19)



弱さ。
人間の弱さとはこういう事なのだろうと思う。
群衆も、弟子達も、皆弱かった。


 パンを裂くまでイエスに従う人は多いが、
 受難の杯を共に飲もうとする人は少ない。
 多くの人はその奇跡に感嘆する、
 しかし十字架の辱めまでつき従う人は少ない。
 多くの人は不幸が来ない限りイエスを愛し、
 慰めを受けている限り彼を祝する。
 しかしイエスが姿を隠し、
 暫くの間でも彼らから離れ去ると、不平を言い、
 ひどく落胆する。
 しかしイエスから受ける慰めのためではなく、
 イエスをイエスとして愛している人は、
 患難や苦しみの時にも
 慰めの時と同様に、
 彼を賛美する。
           (De imitatione Christi)





弟子達はイエスを見捨てて逃げ去った。
しかし、自分が受ける慰めのためではなく
イエスをイエスとして
心底愛した人達も大勢存在していたのは間違いない。
ゴルゴタまでついて行った人々や
主の復活を知らずに香料を持って空の墓を訪ねた人々。
彼らはイエスが死んで埋葬されてしまってもなお離れ難く
かといって無力で出来る事もなく、墓を塞ぐ大岩を退ける力も無いのに
この世の別れを惜しんでイエスの墓を訪ねた。


2000年という時間を経ても、愛する者を失った彼らの気持ちは
今の時代に生きる私達と痛いほど同じだ。
イエスが死んで骸となっても
彼らのイエスを愛する気持ちは動かず
彼らがイエスをイエスとしてどれほど愛していたかを
福音書から感じ取る事が出来る。

詩篇の中のキリスト探し

2010-09-29 01:56:39 | 詩篇
詩篇の中に所々
イエス・キリストが見え隠れする箇所を
今日もまた追跡している。

子供の祈り(詩篇31)

2010-09-29 01:15:52 | 詩篇
幼い子供のようでなければ
神の国に入ることはできないとイエスは言った。
十字架の上の子供の"おやすみ"。




まことの神、主よ、
御手にわたしの霊をゆだねます。
わたしを贖ってください。
                      (詩篇31;6)


 イエスは大声で叫ばれた。
 「父よ。
  わたしの霊を御手にゆだねます。
 こう言って息を引き取られた。
               (ルカ23;46)


  …これはユダヤ人の母親が子供に教えた
  おやすみの祈りの最初の部分なのです。
  ちょうど私たちが
  「今晩もよく眠れますように…」
  と教えられたように、
  イエスは子供の祈りを口にして、死んだのです。
          (『戦うキリスト』新教出版社・ウィリアム・バークレー著)




十字架の恥辱と苦痛の真っ只中で
子供のおやすみのお祈りを口にしてイエスは息を引き取った。
イエスご自身が天の父を慕う無心な子供だった。


子供。


父なる神の「愛する子」。

十字架の主の言葉(詩篇22)

2010-09-28 22:25:16 | 詩篇
イエスはこの世に来られて
人間の味わうあらゆる苦しみを嘗め尽くした。
イエスは私達の苦しみを全て味わい、ご存知だ。


イエスは味わわれた。
我々人間と同じ絶望を。
神に見捨てられた者の絶望を。
罪から這い上がれない者の絶望を、我々人間と同じように
味わって苦しんだ。
苦しんで、苦しみを分かち合って下さった。
絶望の苦しみを共にして、我々人間と連帯するために。
イエスは我々人間一人一人の絶望を味わわれた。
絶望。
我々人間一人一人の、私の。


私の神よ、私の神よ
なぜわたしをお見捨てになるのか。
なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず
呻きも言葉も聞いてくださらないのか。
                 (詩篇22;2)


  三時にイエスは大声で叫ばれた。
  「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」
  これは、
  「わが神、わが神、
   なぜわたしをお見捨てになったのですか
  という意味である。
                     (マルコ15;34)


  三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。
  「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」
  これは、
  「わが神、わが神、
   なぜわたしをお見捨てになったのですか
  という意味である。
                     (マタイ27;46)




イエスは味わわれた。
軽蔑され虐げられ、侮辱される者の苦しみを。
揶揄される者の屈辱、虐げられる者の苦悩を
イエスは味わって
我々人間と分かち合って下さった。


わたしは虫けら、とても人とはいえない。
人間の屑、民の恥。
わたしを見る人は皆、わたしを嘲笑い
唇を突き出し、頭を振る。
主に頼んで救ってもらうがよい。 
 主が愛しておられるなら
   助けてくださるだろう。
               (詩篇22;8~9)


  「他人は救ったのに、自分は救えない。
   イスラエルの王だ。
   今すぐ十字架から降りるがいい。
   そうすれば、信じてやろう。
   神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。
   『わたしは神の子だ』と言っていたのだから。
                         (マタイ27;42~43)




イエスは味わわれた。
餓え渇く者の苦しみを。
十字架の上で炎天下に晒され、渇いて
イエスは分かち合って下さった。
太陽に焼かれ、大衆の目に晒される苦しみを。


口は渇いて素焼きのかけらとなり
舌は上顎にはり付く。
           (詩篇22;16)


  この後、イエスは、
  すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、
  「渇く」と言われた。
  こうして聖書の言葉が実現した。
                  (ヨハネ19;28)




イエスは味わわれた。
剥ぎ取られ、奪われる者の悲しみを。
寄ってたかって持ち物を毟り取られ、
好き勝手にくじ引きで山分けされる無念を
分かち合って下さった。


骨が数えられる程になったわたしのからだを
  彼らはさらしものにして眺め
わたしの着物を分け
  衣をとろうとしてくじを引く。
                (詩篇22;19)


  それから、兵士たちはイエスを十字架につけて、
   その服を分け合った。
   誰が何を取るかをくじ引きで決めてから。
                     (マルコ15;24)


  彼らはイエスを十字架につけると、
  くじを引いてその服を分け合い、
  そこに座って見張りをしていた。
                 (マタイ27;35~36)


  人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った。
                  (ルカ23;34)


  兵士たちは、イエスを十字架につけてから、
  その服を取り、四つに分け、各自に一つずつ渡るようにした。
  下着も取ってみたが、それには縫い目がなく、
  上から下まで一枚織りであった。そこで、
  「これは裂かないで、
   だれのものになるか、くじ引きで決めよう。
  と話し合った。それは、
  「彼らはわたしの服を分け合い、
   わたしの衣服のことでくじを引いた。」
  という聖書の言葉が実現するためであった。
  兵士たちはこのとおりにしたのである。
                     (ヨハネ19;23~24)




イエスは人間の苦しみを全て味われれてご存知だ。
人間の罪も弱さも。
我々人間一人一人の苦しみに共感して下さる。
私にも。


 …わたしたちには、
 もろもろの天を通過された偉大な大祭司、
 神の子イエスが与えられているのですから
 わたしたちの公に言い表している信仰を
 しっかり保とうではありませんか。
 この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、
 罪を犯されなかったが、あらゆる点において、
 わたしたちと同様に試練に遭われたのです。
                    (ヘブル4;15)




わたしの魂は必ず命を得
子孫は神に仕え
主のことを来るべき世に語り伝え
成し遂げてくださった恵みの御業を
  民の末に告げ知らせるでしょう。
                (詩篇22;30~32)


  イエスは、このぶどう酒を受けると、
  「成し遂げられた」と言い、
  頭を垂れて息を引き取られた。
                (ヨハネ19;30)




イエスの十字架の上の苦しみは、罪のための苦しみ。
罪を贖うための。
罪。
我々人間の。
私自身の。

ベタニアのマリアとマグダラのマリア

2010-09-28 02:04:12 | 未分類
ベタニアの
復活したラザロ、マルタの姉妹マリアと
マグダラのマリアは
同一人物か?
それとも別人か?

枝の日(詩篇20、24)

2010-09-26 02:22:21 | 詩篇
枝の主日。


イエスがエルサレムに入る。
ろばに乗って。


群集は手に持つ枝を振って叫ぶ。
自分の衣服を道に敷く。




今、わたしは知った
主は油注がれた方に勝利を授け
聖なる天から彼に答えて
右の手による救いの力を示されることを。


戦車を誇る者もあり、馬を誇る者もあるが
我らは、我らの神、主の御名を唱える。
                 (詩篇20;7~8)




城門よ、頭を上げよ
とこしえの門よ、身を起こせ。
栄光に輝く王が来られる。
栄光に輝く王とは誰か。
強く雄々しい主、雄々しく戦われる主。
城門よ、頭を上げよ
とこしえの門よ、身を起こせ。
栄光に輝く王が来られる。
栄光に輝く王とは誰か。
万軍の主、主こそ栄光に輝く王。
               (詩篇24;7~10)




  それは、預言者を通して言われていたことが
  実現するためであった。


  「シオンの娘に告げよ。
   『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる。
    柔和な方で、ろばに乗り、
    荷を負うろばの子、子ろばにのって。』」
                  (※ゼカリヤ9;9~10)


  弟子たちは行って、イエスが命じられたとおりにし、
  ろばと子ろばを引いて来て、その上に服をかけると、
  イエスはそれにお乗りになった。
  大勢の群集が自分の服を道に敷き、
  またほかの人々は木の枝を切って道に敷いた。
  そして群集は、イエスの前を行く者も後に従う者も叫んだ。


  「ダビデの子にホサナ。
   主の名によって来られる方に、祝福があるように。
   いと高きところにホサナ。」
                     (マタイ21;4~9)

命の道(詩篇16)

2010-09-26 01:55:10 | 詩篇
復活の主イエス・キリスト。
命の道。
空の墓。



あなたはわたしの魂を陰府に渡すことなく
あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず
命の道を教えてくださいます。
わたしは御顔を仰いで満ちたり、喜び祝い
右の手から永遠の喜びをいただきます。
                  (詩篇16;10)




  私はであり、真理であり、である。
                   (ヨハネ14;6)




  「婦人よ、なぜ泣いているのか」
  

  「わたしの主が取り去られました。
   どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」


  「婦人よ、なぜ泣いているのか。
   だれを捜しているのか。」


  「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、
   どこに置いたのか教えてください。
   わたしが、あの方を引き取ります。」


  「マリア」


  「先生」
                (ヨハネ20;13~16)

神の独り子(詩篇2)

2010-09-26 01:55:10 | 詩篇
イエス・キリスト。


神の子。
王の王、主の主。
救い主。




なにゆえ、国々は騒ぎ立ち
人々はむなしく声を上げるのか。
なにゆえ、地上の王は構え、支配者は結束して
主に逆らい、主の油注がれた方に逆らうのか
                    (詩篇2;1~2)


「聖なる山シオンで
 わたしは自ら、王を即位させた。」
                 (詩篇2;6)


お前は私の子
 今日、わたしはお前を生んだ。
 求めよ。わたしは国々をお前の嗣業とし
 地の果てまで、お前の領土とする。」
                  (詩篇2;7~8)


に口づけせよ
主の憤りを招き、道を失うことのないように。
                     (詩篇2;12)




  イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。
  そのとき、天がイエスに向かって開いた。
  イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に
  降って来るのを御覧になった。
  そのとき、
  「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」
  という声が、天から聞こえた。
                (マタイ3;16~17)



  神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。
  独り子を信じる者が一人も滅びないで、
  永遠の命を得るためである。
               (ヨハネ3;16)

“書いてある”(追記あり)

2010-08-28 22:52:14 | マタイ
先日、診察待ちが長くて耐えられず、
頭が痛いくせに手持ちの新約聖書を読んで
思い浮かんだ事を書こうとしたが
今月発売の月刊モーニング・ツー『聖☆おにいさん』を読むうちに
忘れてしまってがっかりしていた。
しかし、唐突に思い出したので書く。


(マタイ4;1~11)


荒野で40日断食して空腹のイエスに悪魔が誘惑の囁きをする。


ψ(`∀´)ψ「腹へってんだろ。
       お前が神の子なら石をパンに変えてみな。」


┐( - 。-)r=3 「パンに変えたからって石なんか食ってどーする。
       人間、パンだけじゃ世の中生きていけねーんだよ。」


ψ(`∀´)ψ「お前が神の子ならここから飛び降りてみな。
       神が天使達に命令して助けるって書いてあるから、
       飛び降りても死なないんじゃね?」


o( -"-)o-3 「ちゃんと読まんかいアホ。
       書いてあるからって飛び降りてどうする。
       飛び降りるちゅー事は神を試すっちゅーこっちゃ。
       ええ度胸や、よっしゃお前が飛び降りろ。」


ψ(`∀´)ψ「土下座してわしを拝みな。
       そしたら金も地位も権力もやるよ。」


ε-o( Д) ゜ ゜ 「いらんわ!
        お前に土下座してどーする。」



という会話だ。


第一の誘惑は、
「空腹なら、石をパンに変えてみろ。」
悪魔は生理的欲求によって神に向かう心を挫こうとする。
イエスは人間を生かしているのは食い物ではない事を指摘する。


第三の誘惑は、
「権力と富の総てをやるから私を拝め。」
悪魔は支配欲と所有欲によって神に向かう心を脱線させようとする。
イエスは神以外の何者にもひれ伏さないと宣言し、突っぱねる。




私は第二の誘惑に注目する。
三つの誘惑の中で、第二の誘惑は信仰者にとって罠だ。
巧妙な罠。


「飛び降りても天使が助けると聖書に書いてあるから
 ここから飛び降りてみろ」


実際に高い場所から飛び降りれば
当然人間は地面に叩きつけられて木っ端微塵、
砕けたスイカ同然になる事はわかりきっている。
信仰の無い人にとってこんな馬鹿げた誘惑は誘惑にならない。
しかし信仰者にとってはそうではない。


“聖書に・・・・・・と書いてある”という罠。


信仰者にとって、この第二の誘惑は、
「聖書の一字一句を字義通り鵜呑みにする」
という悪魔の巧妙な罠だ。
高慢と盲信の二重構造の罠で、
表向きは敬虔な模範的信仰者の仮面が被せてある。


「聖書に・・・と書いてある」という言葉を
信者同士で意見が対立し議論になった時に聞く事がある。
「俺の方がお前よりも聖書わかってんだぞ」と相手を見下す、
恥ずかしい知識自慢の意味を含んでいたり、
議論の席の自己防衛の盾として、或いは相手を言い負かす武器として
聖書の文言を自分に都合良く切り貼りして持ち出し利用する、
自称知識人の歪んだ自尊心を悪魔は巧妙にくすぐる。
読んで優等生か何かのように得意げになるなら
聖書など読まない方がましだ。


しかし、
「聖書に・・・と書いてある」という言葉を
幼稚な知識自慢ではなくもっと盲目的に、
鵜呑みとしか言いようの無い自己完結の仕方で
“書いてある”“書いてある”と連発する類の人達もいたりする。
熱心に聖書を読む真面目な信者なのに
感想を話し合い分かち合う事が全く出来ない。
共感するものが何も無い。
何故なら彼らは
どの人も共通して聖書に書かれた事に疑問を持たない。
聖書の文言に疑問を持つ事自体を罪深い事、禁忌として避けたがるので
お互いに同じ聖書を読んでいるのに対話が成立しない。
自分の行動や意見の根拠に聖句を引用して理由付けする。
何か言ったり何かする度にいちいち聖句を引用するので
日常会話がどえらく長い話になる。


「私は・・・を・・・・します。
 聖書の***の**章**節に・・・・と書いてあります。」


「聖書は考えたりしないで、幼子のようにただ素直に読むべきです。
 天国は幼子のような者達のものであると書いてあります。」


「聖書を自分で読んで解釈したりすると
 学者のように高慢になるから、難しい事は考えずに信じます。」


確かに、神学は人を救わない、人を救うのは神だけだ。
しかし、本当に一つも何も疑問を持たずに聖書を読めるものだろうか?
聖書に書かれた教えと現実の日常生活の出来事との間で生じる矛盾に
葛藤や苦痛を感じて神に向き合おうと祈ったり、意味を考えたり、
本当にしないのか?


「・・・『神があなたのために天使たちに命じると、
 あなたの足が石に打ち当たることのないように、
 天使たちは手であなたを支える』と書いてある。」(マタイ4;6)


聖書にそう書いてあるから考えずに信じる、信じて飛び降りるのか?
書いてあるからって、いいのか飛び降りても?


悪魔の第二の誘惑はこういう罠ではないかと思う。
聖書を読んで自分の心の奥底に起こる思いを正視せず、
聖句の意味を吟味せずただ鵜呑みにする事は
生きた生身の人間の信仰だろうか。


聖書を読んで生まれた疑問は大切にするべきだ。
封じるべきではないと思う。
その疑問から祈りが生まれる。
神に祈る事、神と向き合って神に聞く、
祈りは疑問から始まるものではないのだろうか。
到底信じられない事柄も、納得いかない事も、
どうしてそうなるのか神に聞いて答えが示されるのを日常で待つ。
私の場合、祈りはいつもそうやって生まれる。
心の奥底の疑問を認めないで聖書を読んでも
それは死んだもの同然、
呼吸をせずに飯を食おうとするようなものではないか。


よく気をつけないと、
真面目に熱心に聖書を読めば読むほど第二の罠に引っ掛かる。


聖書に書かれた事柄を字義通りに丸呑みする読み方は
真面目で熱心なようでいて実は怠惰な読み方ではないか。


字面だけを追って、
前後の文脈を把握して適切に理解する努力をしない。
書かれてある事柄を自分自身に置き換えたり
教えと現実との落差に気付いて苦悩する事を回避する。
書かれた事柄を通して神から自分に与えられた課題に向き合わず
無い物として目を逸らす。


自分の頭と心を惜しんで感性の鈍磨した、
疑問を認めず神に「何でですか」と問う事もせず、
自分自身で咀嚼する事すら放棄した、
ただ丸呑みし嚥下するだけの、死人のような怠惰な読み方。


怠惰だから聖書に疑問を持たない。
怠惰だから信者同士でしか通用しないクリスチャン用語を
会話の中で連発する。
怠惰だから、
人間を二分化して理解しようとする。
救われた自分達と救われていない未信者との二分化。


「私達は救われたクリスチャン、
 クリスチャンは救われて天国に行くと聖書に書いてあります。
 クリスチャン以外は救われていないノンクリ。
 ノンクリの人達のために祈ります。
 早く私達と同じように救われて天国に行けますように。」


この怠惰で短絡的な思考回路こそが悪魔の第二の誘惑。


ああ。
やはり悪魔はあくまで悪魔だな。
書いていて吐きそうになってきた。
アレルギーだ。
この辺でやめとこ。

マリア

2010-08-23 15:25:56 | ヨハネ
ヨハネ11;1~44


イエスはマリアに何を伝えたかったのだろう。


イエスはマルタとの間には
言いたい事を直球でばしばしやり取りしてなお揺ぎ無い
確固たる深い信頼関係を既に築ている。
厳しい指摘をしてもマルタの確信はびくともせず、
兄弟が死んだ後にやって来たイエスに信仰を告白している。


マリアはそうではない。
出迎えにも出ず、自分の思いを表現する言葉も持たず、
ただ感情を高ぶらせている。
イエスの方でもマリアに対しては
何か腫れ物に注意深く触れるような配慮をして
イエスの方からマリアを呼ぶ。


成熟した信仰者として教会を支え、人を招き、
もてなしの配慮をするマルタとは、マリアは対照的な対人性を持っている。
自分がイエスの話を聞けさえすれば御の字で、
周りの者に目をやる余裕も無く自分が信じるだけで精一杯。
熱意だけは人一倍あるが他者の事まで目に入らない。
マリアは兄弟ラザロの死に何を考え、言葉にならない感情の中で
神にどんな思いを抱いていたのだろうか。


自分の聖書通読日記に書いた事を読み返して、
この時のマリアの思いを僅かに推測したりする。


信じていくら祈っても、病人は結局助からなかった。


“「病気を治して下さい」という血反吐を吐く願いは聞かれない。
 所詮自己中心的な満足、自分だけの狭い幸せに過ぎない、
 本当の神の望みとずれているという事か。”(2010.02.11)


イエスは、
この幼稚で未熟な若い信者マリアに何を悟らせたかったのだろう?
イエスがマリアに伝えようとされたのは、何だろう?
死んだ者を生き返らせてまで。