後期シルバーの戯言

一寸した日常生活・身辺雑記と旅日記

京都 東寺特別拝観 他ねねの道散策等(その1)

2016年10月24日 | 名勝巡り

10月10日~11日1泊2日アルピコの「京都 東寺特別拝観と舞妓さんとの夕べ」のオークツアーに行って来た。
参加者は、夫婦2人連2組(1組は私共)・女性4人連れ3組・男性8人連1組 計24人だった。
    
  日程
   初日  長野駅東口6時35分ーーーー途中大津SAで昼食ーーーー東寺ーーーー高台寺ーーーー17時お宿いしちょう宿泊

   2日  いしちょう8時30分ーーーー妙心寺ーーーー龍安寺―――――嵐山;昼食後散策――――平安神宮―――-21時長野駅東口

   車中添乗員が京都の町名地名など、京言葉の読みの話で退屈なバスの旅を和まさせてくれた。「太秦(うずまさ)」は東映撮影村で周知の地名だが,知らない言葉が多かった。
 
    ・ 烏丸通; からすまどおり     ・糺の森; ただすのもり    ・穴太; あなお   ・直違橋; すじかいばし    ・罧原; ふしはら    ・間人; たいざ 
        ・御幸町通; ここまちどおり    ・不明門通; あけずどおり     ・千斗町; ぽんとちょう

 大津SAで昼食予定通り13時半頃東寺に到着する。

以下の説明文は、Wikipedia百科事典と各寺院等のパンフレットから引用した。                                                                                             

◎ 東寺 
         山号;八幡山 宗旨;東寺真言宗 寺格;総本山 本尊;薬師如来(重文) 別称;左大寺 文化財;金堂、五重塔、御影堂、蓮花門、絹本著色真言七祖像、
   
    この寺には「東寺」および「教王護国寺」という2つの名称があり、百科事典等でも東寺を見出し語とするものと教王護国寺を見出し語とするものがある。
    さらに正式名として「金光明四天王教王護国寺秘密伝法院」と「弥勒八幡山総持普賢院」の2つの名称がある。宗教法人としての登録名は「教王護国寺」である。
    

   寺院案内人の案内で 五重塔・金堂・講堂徒と回った。

  *五重塔
        

 ←国宝 五重塔
   東寺の象徴としてしたしまれている五重塔は、天長三年(826 )弘法大師の創健着手にはじまり、雷火などにより焼失すること4日に
   及び、現在の塔は正保元年(1644)徳川家光の寄進によって竣工した総高55mの現存する日本の古塔中最高の塔だという。
   初層の内部は心柱を大日如来に見立て、その周囲の須弥壇上に阿閦如来、宝生如来、阿弥陀如来、不空成就如来の金剛界四仏と八大菩薩を
   安置している。四天柱には現在は剥落しているが、金剛界曼荼羅諸尊が描かれている。その他外周りは四方の扉の内面・扉の左右の柱・
   周囲の壁の上段下段にそれぞれ仏画と蓮池が描かれている。天井は折上げ小組格天井で長押等にも全面にわたって極色彩の文様が装飾され
   てぇいる。塔は四度の焼失を経ているが地震で倒壊したという記録はない。塔身が各総ごとに、軸部・組み物・軒ををくみ上げ、最上層
   まで繰り返す積み上げ構造になっていて、木材同士も切り組や単純な釘内程度で、緊結されていない柔構造だからである。したがって
   地震のエネルギーは接合部で吸収され、上層へ伝わるにつれて弱くなるとともに、下と上の層が互い違いに振動することになる。
   柱も各層では短いため倒れようとするよりは元に戻ろうとする復元力の方が大きいので、地震に強いと考えられる。
   多くの部材で積み上げられた塔身は乾燥で収縮するが、独立した心柱はあまり収縮しない。そのためズレが生じ、そのズレを直す為に、
   元禄5年(1692)50cmほど心柱を切り下げたため、須弥壇下の心柱の彩色が少しズレている。
        このズレは初層内にあった窓(地下への出入口と思われる)から確認できた。

 

                                               
           国宝 金 堂「東寺一山の本堂」                                重文  講     堂

      

 ←金堂・薬師三尊(上)・十二神将(左下)(堂内撮影禁止の為パンフレットよりコッピイ)
  文明十八年(1486)に焼失し、今の金堂は豊臣秀頼が発願し、片桐且元を奉行として再興させたもので、慶長八年(1603)に
  竣工した。

  本尊は薬師如来坐像と日光、月光の両脇侍菩薩像。光背上には七軀の化仏を配して七仏薬師をあらわし、台座の周囲には
  十二神将像を配している。これら三尊像は桃山時代の大仏師康正の作で薬師信仰の形をとどめている。 
   

    

  

 



  ←講堂・立体曼荼羅(堂内撮影禁止の為パンフレットよりコッピイ)
  講堂は天長二年(825)工房大師によって着工され、承和二年(835)頃に完成した。その後戦火で焼失、
  現在の講堂は延徳三年(1491)再建された建物である。

  堂内の白亜の壇上には大日如来を中心とした五智如来を始め、五菩薩・五大明王・四天王・梵天・帝釈天の二十一軀の
  仏像が安置されている。これは弘法大師の密教の教えを表現する立体曼荼羅(蜜厳浄土の世界)である。
  安置されている仏像には国宝16軀・重文5軀がある。
  
   

        

 
 五重塔の初層内部の装飾、巨大な四天柱や心柱、そして耐震構造には驚嘆し、金堂・講堂に安置されている数多くの国宝・重文の仏像には目を見張るばかりだった。
 又、講堂の21軀が整然と配置された彫像が羯磨曼荼羅(立体曼荼羅)を構成しているのには驚いた。

                                 
              
             拝観受付入口からの五重塔                    瓢 箪 池 (入口から五重塔に向かう左の庭園)

  不二桜「八重紅枝垂桜」 樹齢120年 目通り1.5m 樹令120年 目通り1.5m 樹高13m 枝張り7m
この桜は「八重紅枝垂れ桜」と呼ばれ、エドヒガンケイの園芸品種で色の濃い八重咲きの華麗な花を咲かせます。移植できるサクラでは国内最大級の大きさで、開花は4月中旬です。岩手県盛岡市の旧家で育てられたのですが、平成6年秋田県を経て、三重県鈴鹿市の農園が譲り受けて大切に育てていました。平成18年が弘法大師入唐求法の旅より帰朝せられて、1200年の記念の年であることから,東寺信徒総代で森紙業株式会社最高顧問の藤定輝好氏より寄贈され、この直径15mの円形花壇に移植されたものです。名前は弘法大師の「不二のおしえ」から「不二桜」と命名されました。日本一高い五重塔を背景に、百年二百年後も美しい花を咲かせ続けることを祈っています。                           
                                          真言宗総本山 東寺
   


◎高台寺
  山号;鵞峰山 宗派;臨済宗健仁派 本尊;釈迦如来 別称;蒔絵の寺

  高台寺(こうだいじ)は寺号は詳しくは高台寿聖禅寺と称する。豊臣秀吉の正室である北政所(高台院)が秀吉の冥福を祈るため建立した寺院であり、寺号は北政所の落飾
 (仏門に入る)後の院号である高台院にちなむ。釈迦如来を本尊とする禅宗寺院であるとともに、秀吉と北政所を祀る霊廟としての性格をもった寺院である。
  霊屋(おたまや)の堂内装飾には桃山様式の蒔絵が用いられ、これを「高台寺蒔絵」と呼ぶ。他に北政所所持と伝えられる蒔絵調度類を多数蔵することから「蒔絵の寺」の
  通称がある。                                                

  東山の山麓にあって正しくは高台寿聖神寺といい、豊臣秀吉没後、その菩提を弔うために秀吉夫人の北の政所(ねね、出家して高台院湖月尼と号す)が慶長11年    
  (1606)開創した寺である。寛永元年七月(1624)建仁寺の三江和尚を開山としてむかえ、高台寺と号した。寛永元年(1789)以降度々の火災にあって多くの堂宇を
  失い、現在残っているのは旧持仏堂の開山堂と、霊屋、傘亭、時雨亭、表門、観月台等で
現在くにの重要文化財に指定されている。

                 
              高台寺入口                           霊屋;秀吉と北政所をお祀りしている

         
                                      開   山   堂

               
            茶席  傘     邸 (奥が時雨亭)                傘邸の内部(パンフレットより)正式には安閑亭と呼ばれる。 
                                                
竹が放射線状に組まれカラカサを開けたように見えることから傘亭。

           
                茶室;時雨亭(重文)                             時雨亭内部 (パンフレットより)  

           
      高台寺を代表する茶席 遺 芳 庵            ねねの道(高台寺の西側の道路);高台寺道として知られていたが、電線地中化工事を終え広い道幅
                                      いっぱいに御影石を敷き詰めた石畳の道に整備したことで、京都らしい風情の景色と名が生まれた。
 

  ◎宿 いしちょう 
   「いしちょう」という宿に宿泊したが庶民の宿で気が楽だ。夕食に舞妓さんが見えて踊の披露と舞妓さんの身なりについて照会があった。
   地方の芸妓
さんは知らないわけでもないが、京都の舞妓さんとなると到底機会はないので。今回の目玉でもあった。


                         
                    「  いしちょう」玄関                     「いしちょう」の直ぐ近くあった木戸孝允旧宅;明治天皇行幸木戸邸の碑がある

      
                                         舞  妓  さ  ん  の  踊

          
            簪の説明                             振袖の説明                             帯の説明
     
    
感心して聞いていただけで内容はすべて忘れた。
    舞妓さんの踊り披露の後、各席を回って懇談させて頂いた。京都の花街について、舞妓さんにお聞きした事や、ネットで調べた結果は次のようだ。
    
京都には祇園甲部、宮川町、先斗町、上七軒と祇園東の五つの花街があって五花街と呼ばれている6月に開催される「おおきに財団」主催の五花街合同
    公演「都の賑い」をはじめ、 各花街で催される年に一度の舞の公演がある。毎年春には、4月に祇園甲部の「都をどり」、宮川町の「京をどり」と上七軒の
    「北野をどり」、 5月に先斗町の「鴨川をどり」があって、秋は祇園東が11月に「祇園をどり」が催される。

    京都の舞妓さんの踊を見たり、懇談することなど思いもよらず、長野の庶民の私にとっては又とない機会で楽しい夕食であった。

      
 
 

 
 
  

 


    
    

 

 

 

 
 



 

 

 

 

 


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