後期シルバーの戯言

一寸した日常生活・身辺雑記と旅日記

大矢田紅葉谷と横蔵寺の紅葉

2017年11月27日 | イベント・祭り

11月17日ちょこTripの「大矢田紅葉谷と横蔵寺の紅葉」の日帰りツアーに行って来た。6時40分長野駅東口ユメリア駐車場を出発、11時半大矢田神社駐車場に着いた。

大矢田神社一帯の楓谷は、約3000本のヤマモミジの原生林があり、樹齢1000年以上の古木もあるという。1930年(昭和5年)、指定名称楓谷のヤマモミジ樹林として国の天然記念物に指定されている。また2004(平成16年)飛騨・美濃紅葉三十三選の一つに指定されている。普通紅葉は山頂から徐々に麓に降りてくるが、此処の紅葉は麓が先に色ずき、だんだんに紅葉が山頂二登っていくという。神社の裏に回って見ると、山は未だ緑であった。添乗員の説明によると神社裏山は日当たりが良く、麓の神社界隈は日当たりが悪く気温が山より低いので先に紅葉するのだという。

大矢田神社はウィキペデアによれば本殿は江戸時代初期の1672年寛文12年)、拝殿は1671年(寛文11年)再建であり、ともに重要文化財に指定されている。また、楼門1723年享保8年)再建であり、美濃市指定文化財である。

  
大矢田神社   *主祭神;県建速須佐之男命、天若日子命  *社格;豪奢    *本殿の様式;三間社流造り

        
           楼   門                               大矢田神社拝殿                           
 大矢田神社本殿                                                                           

☆大矢田の紅葉

        

        

☆横蔵寺紅葉
  大矢田からバスで約1時間横蔵寺に到着する。

 *横蔵寺(よこくらじ)
   岐阜県揖斐郡揖斐川町谷汲神原にある天台宗寺院。山号は両界山、本尊は薬師如来。西美濃三十三霊場第一番札所。
   
伝教大使(最澄)が自作の薬師如来を祀ったことでも知られており、延暦20年に創建された。如来像をはじめとし、22体の国の重要文化財が安置され、その他にも
   多くの仏像や絵画、書籍を蔵しており、「美濃の正倉院」とも呼ばれているという。紅葉の名所でもあり秋のシーズンには特に多くの参拝客が訪れる。

         
           横蔵寺本堂                                観音堂                             五重塔

   
 ← 瑠璃殿(宝物殿):国の重要文化財に指定されている仏像など22件のうち、秘仏とされ、60年に一回しか開帳されない
    本尊の『木像薬師如来』と、他に21件が安置されている。中に入ると、金剛力士像、その隣から十二神将がズラリと
    並び、大日如来など様々、部屋の中、三方に、重要文化財が並んでいた。横蔵寺最古の仏像の『木像大日如来像』は、
    寿永2(1183)年の銘があり、三重塔の本尊として作られたことが明らかになっているそうです。
 



 

 

 

 ← 瑠璃殿(宝物殿)入口横にある案内版  
 以下横蔵寺発行の絵葉書より
 
                         
 御本尊薬師如来(重文) 大日如来(重文)  深沙大将(重文)  曼荼羅立像    金剛力士立像
                      

 


 ← 舎利堂:「入定妙心法師の舎利仏(ミイラ」が安置されている。
    妙心法師は天明元年(1781)横蔵生まれ。長野善光寺で妙心の号を得る。富士行者として富士山にこもり修行、
    生食を断ち、蕎麦粉と清水を食す。富士山の北東にある御正体山に登り、断食三十一日にして入定を果たしたという。
    入定年は文化十二年(1815)と文化十四年(1817)の両説がある。
    妙心法師のミイラは、入定後御正体山の上人堂に安置されていたが、明治維新後の廃仏毀釈により、山から下ろされ
    見世物になっていたが、その後山梨県庁、
甲府病院が引き取っていまる。甲府病院の医学資料となっていた時、
    明治天皇もご覧になったことがあるという。横蔵時の住職や遺族らの要望により、明治23年(1890年)に出身地
    近くの「横蔵寺」に移されたということです。                    
    生きたまま仏になるために地中に自ら入ることを〝入定〟と言うそうです。
   

*横蔵寺境内の紅葉と苔      

       

              

               
  

 

 

 

 

 

 

 


長盛会旅行湯田中温泉

2017年11月03日 | イベント・祭り

日詰長盛会(日詰区の老人クラブ)の秋季旅行で10月30~31日1泊2日湯田中温泉へ行って来た。当初参加予定者は31名だったが、欠席者があって参加者26名だった。長盛会の会員は129名だが、何時も30~35名の参加で今回は少し少なかった。長盛会の旅行は春・秋2回で費用も限られるので、旅行先の選定には会長始め幹事の方々は頭を悩ませているところである。

  今回の日程  
     30日:日詰13:00------志賀高原熊の湯散策------湯田中温泉ホテル
     31日:ホテル9:00------(宗)大悲殿「世界平和大観音」------梅翁寺・湯気けぶり地蔵尊-------ホテルで昼食------中山晋平記念館-------日詰帰着    

13時ホテルの送迎バスが迎えに来て、湯田中温泉を通過、志賀高原に向かうが車窓から志賀高原方向の山々を見るに、うっすら雪化粧している。途中雪が降り始め、志賀高原丸池では本降りとなった。紅葉を期待して計画したようだが1~2週間遅かった。熊の湯迄行く予定を変更、丸池から引き返し湯田中の今晩の宿に16時前に到着した。

18時から宴会・夕食、カラオケで盛り上がるが、歌い手が少なく早めの散会となった。

翌30日(宗)大悲殿世界平和大観音・梅翁寺・湯気けぶり地蔵尊を参詣、ホテルへ引き返し昼食を摂り12時半出発、中野市の中山晋平記念館を見学する。
記念館見学後帰途に着く。

 *世界平和大観音

                         
         世界平和大観音                        大  悲  殿                                     大悲殿本尊

            
        大 悲 殿 本 尊            本尊前にある平和の灯(広島平和記念公園の平和の灯から)     世界平和大観音の原型像(本尊の隣に安置)

        
    平和大観音像のから見た境内(中央鐘楼・右大悲殿)               梅  翁  寺                         湯けぶり地蔵尊(通称ぴんしゃん地蔵)
 

  慈救山 梅翁寺(曹洞宗)
  梅翁寺は、寛保中(1741~1743)僧実源により県立された古刹です。湯田中温泉は、俳人「小林一茶」ゆかりの地として
  しられていますが、一茶が、湯治に訪れた際に詠まれた句2「雪散るや 湧き捨ててある 湯のけぶり」にもあるように、
  古くから、こんこんと湧き出る温泉卿として有名です。また、延宝六年(1678)松代藩士、真田幸道公の母君が境内の
  湯口から湧き出る温泉を樽につめ、松代まで八里の道を運ばせたという記録が残されている名湯です。

 びんしゃん 「湯けぶり地蔵尊」
  梅翁寺境内には今も当時からの源湯があり福々と湯が湧いていますが、前庭の一隅に身の丈三尺三寸(1m)ほどの足湯に
  つかるお地蔵様がいらっしゃいます。お地蔵様の肩や腰などを湯に浸した白布でさすることで、温泉の持つ効用が伝わって
  ピンピン・シャンシャンになれるという言い伝えのある、かわいらしいお顔の霊験あらたかな延命地蔵菩薩です。

*中山晋平記念館
       
                              中 山 晋 平 記 念 館                                        中山晋平之像

  中山晋平之像
  中山晋平は、明治20年3月22日長野県下高井郡日野村(現在中野市)新野に生まれ、幼少にして父に死別し、苦労の中で
  勉強に励み、16歳で小学校の代用教員となったが、18才で上京、島村抱月の書生として師事しながら東京音楽学校(現在
  東京芸術大学)を卒業した。大正3年弱冠27歳で作曲したカチューシャの唄をはじめ船頭小唄、シャボン玉等、歌謡、
  新民謡、童謡の多くの分野の名曲を世にに出し日本の大衆音楽の基礎を築き、昭和27年日12月30日65才で永眠した。
  この像は生誕百年を記念し県立したものであり、この記念館を訪れる人々に温かい心と潤いを与えるとともに、偉大な
  作曲家中山晋平を郷土之誇りとして顕彰するものである。
    1987年 6月
                            中野ライオンズクラブ
                               中野市長  土屋武則 撰書