後期シルバーの戯言

一寸した日常生活・身辺雑記と旅日記

京都 東寺特別拝観 他ねねの道散策等(その2)

2016年10月24日 | 名勝巡り

2日目は妙心寺・竜安寺・嵐山・平安神宮を回る。8時30分お宿いしちょうを出発、妙心寺に向かう。

以下の説明文はWikipedia百科事典と寺院等のパンフレットから引用した。

◎妙心寺
        山号;正法山 宗派;臨済宗 寺格;大本山 本尊;釈迦如来 開祖;花園法皇、関山慧玄(開山) 文化財;梵鐘、大燈国師墨蹟(国宝)
   仏殿、法堂、三門他(重要文化財)、方丈庭園(国の史跡・名勝)
 
 日本にある臨済宗寺院約6,000か寺のうち、約3,500か寺を妙心寺派で占める。近世に再建された三門、仏殿、法堂(はっとう)などの中心伽藍の周囲には多くの塔頭建ち
 並び、一大寺院群を形成している。平安京範囲内で北西の12町を占め自然も多いため、京都市民からは西の御所と呼ばれ親しまれている。
  本山諸堂伽藍の完備は、禅宗としては全国一といわれ、史跡名勝に指定された庭園、国宝、重用文化財の建物,歴朝宸翰(天皇直筆)文書、絵画が多く文化財の殿堂でもある。


               
                       南 総 門                                       参   道 

            
                三   門                                     仏   殿
 
            
                                                                          大     方     丈
           入母屋造単層檜皮葺、承応3年(1654)の建造、方丈はもと住持の居所を意味したが、今は檀信徒の祖先を祀って、その供養を行なう所、また説教、
        講演その他の会合の場所ともなり、多数賓客を応対するところともなる。
 
                
                               
                                法    堂                                          天井絵(パンフレットより) 

   入母屋造重層本瓦葺、住持の演法や儀式の行われるところ。 天井には狩野探幽法眼守信の雲龍の絵がある。眺めながら一周すると雲龍の睨む方向が下から順次空へ
   変わって見える。法堂の一角には国宝の妙心寺鐘が安置されていた。

 *妙心寺鐘(国宝)
   
 ←法堂に安置されている鐘 写真パンフレットより
  黄鐘調鐘といい徒然草に「およそ鐘の声は黄鐘調なるべし-----浄金剛院の鐘の声また黄鐘調なり」とあるその鐘で、
  もと浄金剛院(廃寺)にあったもの、記念銘のあるものとしては日本最古で文武天皇2年(698)の作である。
  
  ←この鐘のあった鐘楼で代替の鐘が吊ってある。  
 
 

 
 
 
 
 


*浴室(重要文化財)
 
 
  天生15年(1587)塔頭太嶺院(廃寺)の密宗和尚が、明智光秀の菩提を弔うために創建したものである。そののち
  明暦2年(1656)に改築された。一重切妻造本瓦葺、浴室中央に浴槽と洗場があり、その南側に休憩室が設けられてある。
  東背面には竈室がある。浴室は蒸気風呂形式で簾子板敷の隙間から蒸気をだし四壁は正面に出入口と調節窓をもち、
  他の三方は板壁で閉ざされている。入口正面には位牌棚があり、その中央にば跋陀婆羅尊者画像(狩野宗信筆)が
  掲げられている。
 
 
 
 
 
 
 
◎龍案寺   
      山号;大雲山 宗派;臨済宗妙心寺派 本尊;釈迦如来 開基;細川勝元、義天玄承(開山) 文化財;方丈・太平記12冊(重要文化財) 方丈庭園(史跡名勝)
    庭園(名勝)
  
  徳大寺家の別荘だったものを、宝徳2年(1450)官領細川勝元が譲り受けて寺地とし、妙心寺の義天玄承を開山として創建されたものである。応仁の乱で焼失して、明応
  8年(1499)、勝元の子、政元が再興したが、寛政9年(1797)火災で方丈・仏殿・開山堂などを失った。現在の方丈は、その時西源院の方丈を移築したものである。
  方丈の前庭は枯山水の石庭として著名で、大雲山と号し禅苑の名刹である。
            
                                                          参    道 奥突き当りが庫裡でここから入り左へ方丈と続く。
 
             
     方丈の北側のて庭園で東西25m 南北10のmの空間に白砂を敷き詰め、15個の石を配したもので、室町末期(155年頃)、特芳禅傑などの優れた
     禅僧によって作庭されたという。
 
        
                       方丈の北東にある庭園と「つくばい」                                       パンフレットよりの「つくばい」
     「つくばい」のまんなかのロを共用すれば「吾唯足知」となり、禅の格言を図案化されたものという。水戸光圀の寄進といわれている。
           

  *竜 安 寺  庭 園
        
      庭園の一角で杉の剪定が面白い。          鏡容池 徳大寺家によって築かれたもので、かって「オシドリ」が群れを遊んだことから「オシドリ池」と
                                     呼ばれた。
◎嵐山
  昼食後90分程嵐山界隈を程自由散策することになり、メイン道路から大河内山荘庭園方面に行く竹林の道を散策することにした。連れ合いが多少足が悪いので丁度通り
  かかったタクシーで大河内山荘庭園まで行く。竹林の道は1車線程の道で観光客が多くタクシーもノロノロ運転、運転手さんの話ではこの程度の混雑は普通、休日は車両
  通行止だそうだ。 
  大河内山荘庭園の散策は時間の関係で取り止め、竹林の道を散策する。 途中天龍寺の北門から境内庭園(百花苑)内に入り散策する。
      注;大河内山荘庭園は俳優大河内傳次郎が別荘として造営した回遊式庭園で、映画出演料の大半を注ぎ込み64歳で亡くなるまで30年の歳月をかけてこつこつと 
     作り上げたものだという。

 *
竹林
                  
                     大河内山荘庭園入口                                              竹     林
 
 *天龍寺百花苑・曹源池 
   百花苑は北門開設と同時に昭和58年整備された庭園で各種多くの花があるが、今の時期は芙蓉の花が咲いていた程度だった。
   曹源池は夢窓国師による庭園で国の史跡・国の史跡特別名勝第1号に指定されている。
                                         
            
        百花苑(立札には八角蓮・黄蓮華升麻とあるが時期的に今は無い)          黒 船 躑 躅 
                    

               
                 酔   芙   蓉                                    紅     芙     蓉

                 
                           
                                                             曹   源   池
     天龍寺は時間も無く今まで参詣しているので、今回は庭園の散策だけにした。
                                                        
◎平安神宮
 主祭神;桓武天皇孝明天皇、社格;官幣大社勅祭社別表神社である。  
 時間の関係で30分の参詣だが、庭園が有名なので駆け足で庭園を回った。1時間は必要で桜の時期が最も景観が良いようだ。
 
           
         平安神宮外拝殿(大極殿)                           応 天 門 
     
      *神苑(神社だから庭園ではなく神苑か)
      
 ← 平安神宮神苑 
   ←平安新宮神苑の碑 左案内図赤印にところにあり、神苑の入口である。
   
   案内図の 左下;南神、 左;西神苑、 上;中神苑、 右;東神苑 である。        
 
 
 
 
 
 
           
             南 神 苑                                   西 神 苑

          
              中 神 苑                                  東 神 苑
          
            泰  平  閣                                  東 神 苑 

  平安神宮を参詣後午後3時帰途についた。 
 

京都 東寺特別拝観 他ねねの道散策等(その1)

2016年10月24日 | 名勝巡り

10月10日~11日1泊2日アルピコの「京都 東寺特別拝観と舞妓さんとの夕べ」のオークツアーに行って来た。
参加者は、夫婦2人連2組(1組は私共)・女性4人連れ3組・男性8人連1組 計24人だった。
    
  日程
   初日  長野駅東口6時35分ーーーー途中大津SAで昼食ーーーー東寺ーーーー高台寺ーーーー17時お宿いしちょう宿泊

   2日  いしちょう8時30分ーーーー妙心寺ーーーー龍安寺―――――嵐山;昼食後散策――――平安神宮―――-21時長野駅東口

   車中添乗員が京都の町名地名など、京言葉の読みの話で退屈なバスの旅を和まさせてくれた。「太秦(うずまさ)」は東映撮影村で周知の地名だが,知らない言葉が多かった。
 
    ・ 烏丸通; からすまどおり     ・糺の森; ただすのもり    ・穴太; あなお   ・直違橋; すじかいばし    ・罧原; ふしはら    ・間人; たいざ 
        ・御幸町通; ここまちどおり    ・不明門通; あけずどおり     ・千斗町; ぽんとちょう

 大津SAで昼食予定通り13時半頃東寺に到着する。

以下の説明文は、Wikipedia百科事典と各寺院等のパンフレットから引用した。                                                                                             

◎ 東寺 
         山号;八幡山 宗旨;東寺真言宗 寺格;総本山 本尊;薬師如来(重文) 別称;左大寺 文化財;金堂、五重塔、御影堂、蓮花門、絹本著色真言七祖像、
   
    この寺には「東寺」および「教王護国寺」という2つの名称があり、百科事典等でも東寺を見出し語とするものと教王護国寺を見出し語とするものがある。
    さらに正式名として「金光明四天王教王護国寺秘密伝法院」と「弥勒八幡山総持普賢院」の2つの名称がある。宗教法人としての登録名は「教王護国寺」である。
    

   寺院案内人の案内で 五重塔・金堂・講堂徒と回った。

  *五重塔
        

 ←国宝 五重塔
   東寺の象徴としてしたしまれている五重塔は、天長三年(826 )弘法大師の創健着手にはじまり、雷火などにより焼失すること4日に
   及び、現在の塔は正保元年(1644)徳川家光の寄進によって竣工した総高55mの現存する日本の古塔中最高の塔だという。
   初層の内部は心柱を大日如来に見立て、その周囲の須弥壇上に阿閦如来、宝生如来、阿弥陀如来、不空成就如来の金剛界四仏と八大菩薩を
   安置している。四天柱には現在は剥落しているが、金剛界曼荼羅諸尊が描かれている。その他外周りは四方の扉の内面・扉の左右の柱・
   周囲の壁の上段下段にそれぞれ仏画と蓮池が描かれている。天井は折上げ小組格天井で長押等にも全面にわたって極色彩の文様が装飾され
   てぇいる。塔は四度の焼失を経ているが地震で倒壊したという記録はない。塔身が各総ごとに、軸部・組み物・軒ををくみ上げ、最上層
   まで繰り返す積み上げ構造になっていて、木材同士も切り組や単純な釘内程度で、緊結されていない柔構造だからである。したがって
   地震のエネルギーは接合部で吸収され、上層へ伝わるにつれて弱くなるとともに、下と上の層が互い違いに振動することになる。
   柱も各層では短いため倒れようとするよりは元に戻ろうとする復元力の方が大きいので、地震に強いと考えられる。
   多くの部材で積み上げられた塔身は乾燥で収縮するが、独立した心柱はあまり収縮しない。そのためズレが生じ、そのズレを直す為に、
   元禄5年(1692)50cmほど心柱を切り下げたため、須弥壇下の心柱の彩色が少しズレている。
        このズレは初層内にあった窓(地下への出入口と思われる)から確認できた。

 

                                               
           国宝 金 堂「東寺一山の本堂」                                重文  講     堂

      

 ←金堂・薬師三尊(上)・十二神将(左下)(堂内撮影禁止の為パンフレットよりコッピイ)
  文明十八年(1486)に焼失し、今の金堂は豊臣秀頼が発願し、片桐且元を奉行として再興させたもので、慶長八年(1603)に
  竣工した。

  本尊は薬師如来坐像と日光、月光の両脇侍菩薩像。光背上には七軀の化仏を配して七仏薬師をあらわし、台座の周囲には
  十二神将像を配している。これら三尊像は桃山時代の大仏師康正の作で薬師信仰の形をとどめている。 
   

    

  

 



  ←講堂・立体曼荼羅(堂内撮影禁止の為パンフレットよりコッピイ)
  講堂は天長二年(825)工房大師によって着工され、承和二年(835)頃に完成した。その後戦火で焼失、
  現在の講堂は延徳三年(1491)再建された建物である。

  堂内の白亜の壇上には大日如来を中心とした五智如来を始め、五菩薩・五大明王・四天王・梵天・帝釈天の二十一軀の
  仏像が安置されている。これは弘法大師の密教の教えを表現する立体曼荼羅(蜜厳浄土の世界)である。
  安置されている仏像には国宝16軀・重文5軀がある。
  
   

        

 
 五重塔の初層内部の装飾、巨大な四天柱や心柱、そして耐震構造には驚嘆し、金堂・講堂に安置されている数多くの国宝・重文の仏像には目を見張るばかりだった。
 又、講堂の21軀が整然と配置された彫像が羯磨曼荼羅(立体曼荼羅)を構成しているのには驚いた。

                                 
              
             拝観受付入口からの五重塔                    瓢 箪 池 (入口から五重塔に向かう左の庭園)

  不二桜「八重紅枝垂桜」 樹齢120年 目通り1.5m 樹令120年 目通り1.5m 樹高13m 枝張り7m
この桜は「八重紅枝垂れ桜」と呼ばれ、エドヒガンケイの園芸品種で色の濃い八重咲きの華麗な花を咲かせます。移植できるサクラでは国内最大級の大きさで、開花は4月中旬です。岩手県盛岡市の旧家で育てられたのですが、平成6年秋田県を経て、三重県鈴鹿市の農園が譲り受けて大切に育てていました。平成18年が弘法大師入唐求法の旅より帰朝せられて、1200年の記念の年であることから,東寺信徒総代で森紙業株式会社最高顧問の藤定輝好氏より寄贈され、この直径15mの円形花壇に移植されたものです。名前は弘法大師の「不二のおしえ」から「不二桜」と命名されました。日本一高い五重塔を背景に、百年二百年後も美しい花を咲かせ続けることを祈っています。                           
                                          真言宗総本山 東寺
   


◎高台寺
  山号;鵞峰山 宗派;臨済宗健仁派 本尊;釈迦如来 別称;蒔絵の寺

  高台寺(こうだいじ)は寺号は詳しくは高台寿聖禅寺と称する。豊臣秀吉の正室である北政所(高台院)が秀吉の冥福を祈るため建立した寺院であり、寺号は北政所の落飾
 (仏門に入る)後の院号である高台院にちなむ。釈迦如来を本尊とする禅宗寺院であるとともに、秀吉と北政所を祀る霊廟としての性格をもった寺院である。
  霊屋(おたまや)の堂内装飾には桃山様式の蒔絵が用いられ、これを「高台寺蒔絵」と呼ぶ。他に北政所所持と伝えられる蒔絵調度類を多数蔵することから「蒔絵の寺」の
  通称がある。                                                

  東山の山麓にあって正しくは高台寿聖神寺といい、豊臣秀吉没後、その菩提を弔うために秀吉夫人の北の政所(ねね、出家して高台院湖月尼と号す)が慶長11年    
  (1606)開創した寺である。寛永元年七月(1624)建仁寺の三江和尚を開山としてむかえ、高台寺と号した。寛永元年(1789)以降度々の火災にあって多くの堂宇を
  失い、現在残っているのは旧持仏堂の開山堂と、霊屋、傘亭、時雨亭、表門、観月台等で
現在くにの重要文化財に指定されている。

                 
              高台寺入口                           霊屋;秀吉と北政所をお祀りしている

         
                                      開   山   堂

               
            茶席  傘     邸 (奥が時雨亭)                傘邸の内部(パンフレットより)正式には安閑亭と呼ばれる。 
                                                
竹が放射線状に組まれカラカサを開けたように見えることから傘亭。

           
                茶室;時雨亭(重文)                             時雨亭内部 (パンフレットより)  

           
      高台寺を代表する茶席 遺 芳 庵            ねねの道(高台寺の西側の道路);高台寺道として知られていたが、電線地中化工事を終え広い道幅
                                      いっぱいに御影石を敷き詰めた石畳の道に整備したことで、京都らしい風情の景色と名が生まれた。
 

  ◎宿 いしちょう 
   「いしちょう」という宿に宿泊したが庶民の宿で気が楽だ。夕食に舞妓さんが見えて踊の披露と舞妓さんの身なりについて照会があった。
   地方の芸妓
さんは知らないわけでもないが、京都の舞妓さんとなると到底機会はないので。今回の目玉でもあった。


                         
                    「  いしちょう」玄関                     「いしちょう」の直ぐ近くあった木戸孝允旧宅;明治天皇行幸木戸邸の碑がある

      
                                         舞  妓  さ  ん  の  踊

          
            簪の説明                             振袖の説明                             帯の説明
     
    
感心して聞いていただけで内容はすべて忘れた。
    舞妓さんの踊り披露の後、各席を回って懇談させて頂いた。京都の花街について、舞妓さんにお聞きした事や、ネットで調べた結果は次のようだ。
    
京都には祇園甲部、宮川町、先斗町、上七軒と祇園東の五つの花街があって五花街と呼ばれている6月に開催される「おおきに財団」主催の五花街合同
    公演「都の賑い」をはじめ、 各花街で催される年に一度の舞の公演がある。毎年春には、4月に祇園甲部の「都をどり」、宮川町の「京をどり」と上七軒の
    「北野をどり」、 5月に先斗町の「鴨川をどり」があって、秋は祇園東が11月に「祇園をどり」が催される。

    京都の舞妓さんの踊を見たり、懇談することなど思いもよらず、長野の庶民の私にとっては又とない機会で楽しい夕食であった。