後期シルバーの戯言

一寸した日常生活・身辺雑記と旅日記

長盛会(老人クラブ)旅行

2014年06月23日 | 旅行

6月18~19日1泊2日で長盛会春の旅行で別所温泉へ行ってきた。そもそも長盛会とは正規には日詰長盛会であって、長野市大字稲葉
日詰地区の老人クラブである。毎年春・秋の2回1泊2日の旅行を行っている。なぜか内容は親睦慰安旅行だが、名称は研修旅行となっている。
多分関係機関からの指導・要請もあって名付けたのだろう。会員は120名程度だが毎回旅行参加者は30名前後である。今回は34名(男20名・
女・14名)であった。

別所温泉と、この地域上田市塩田平には名所旧跡が多いので観光客も多い。1か月前は大学同級会で訪れたが同級生の中に体調不良の方がいて、
其の方を送ったので散策出来なかった。今回は久しぶりに別所温泉地域の、北向観音―→安楽寺―→常楽寺―→別所神社 と散策した。

北向山北向観音堂 本尊;千手観世音菩薩

  厄除観音として知られる「北向観音堂」は、平安時代初期の天長2年(825年)比叡山
  延暦寺座主慈覚大師円仁により開創された霊場だそうだ。
   本堂が北に向いている全国でも珍しい寺で「北向観音」として親しまれている。善光寺が
   来世利益、常楽寺が現世利益をもたらすとされ、両寺に参詣しないと「方参り」になると
 言われている。
 札所としては、
  坂東三十三箇所番外札所・中部四十九薬師霊場2番札所・信濃三十三観音霊場番外札所 
  となっている。

   



 崇福山安楽寺(曹洞宗) 本尊;釈迦如来

    安楽寺は禅宗としては、鎌倉の建長寺などと並んで日本では最も古い臨済禅宗寺院の
    一つで あったが、天正十六年(1588)ころ、高山順京が曹洞宗に改めたという。
 正確な記録は残っていないが国宝、重要文化財等数多くの鎌倉時代の文化遺産を蔵して、
 信州最古の禅寺のおもかげを残しているという。

  重要文化財
    安楽寺前開山 樵谷惟仙和尚像
    安楽寺前ニ世 幼牛恵人仁和尚像
    
    

 



国宝 八角三重塔(安楽寺/日本最古の禅宗様建築)

      この塔は一見、四重塔に見えるが、昭和二七年長野県最初の国宝して指定された折り、初重の屋根は
      「ひさし」に相当する「裳階」であるという見解で、裳階付き八角三重塔として認定されたという。
   八角塔は奈良・京都のどに記録 都市として残されているが、それが失われた今日、我が国に残された
       唯一の八角塔であり、禅宗寺院に残る塔と しても極めて貴重な遺構であるという。

 

 

 

 

 

 



*金剛山 照明院常楽寺  本尊;妙観察智弥陀如来

    
常楽寺は北向観音の本坊であり、ご本尊は「妙観察智弥陀如来(みょうかんざっちみだ
  にょらい)」。常楽寺は北向観音堂が建立された天長二年(825年)、三楽寺の一つと
  して建立された。「三楽寺」は長楽寺・安楽寺・常楽寺であったが、現在長楽寺は焼失
   し北向観音の参道入口に碑を遺すのみとなっているという。
  住職 半田孝淳は天台座主である。 

                                             

 

 

   
   半田孝淳(はんだ・こうじゅん)天台座主(てんだいざす)

  
大正6年(1917年)別所温泉生まれ。半田孝淳座主猊下は地元常楽寺の住職と京都曼殊院門跡(まんしゅいんもんぜき)門主を努められ、
        平成18年2月1日に第二百五十六世天台座主に上任されました。天台きっての国際派とも知られ、ローマ教皇に謁見し、まさに平和への
        祈りを捧げる比叡山宗教サミットを実現に導かれました。このサミットに合わせ「平和の鐘」を打ち鳴らすことを世界の主要な寺院に
   要請 など、如何なく実力を発揮されてます。「世界平和を求める同士に言葉はいらない」を持論とし何度もバチカンを訪問され、
        ヨハネ・パウロII世ローマ教皇と親交を深められました。 2009年上田名誉市民となられております。

国重要文化財 石造多宝塔(常楽寺)

「石造多宝塔(せきぞうたほうとう)」は、北向観世音様が出現した所で、高さ2m85cmの
  安山岩で出来ており、国の重要文化財に指定されている。
 石造多宝塔のすぐれたものは全国的にも少なく、わが国で重要文化財に指定されているも
 のは、この常楽寺塔と滋賀県の「少菩提寺塔〔しょうぼだいじとう〕」の二つだけだと
 いう。

 

  


秩父札所34観音巡りー2回目

2014年06月16日 | 神社・仏閣巡り

今回葉2回目である。前回と同じ長野駅東口6時40分に出発、11番から21番まで11ヵ所回った。先達は先達会の小泉さん、86歳と云うが矍鑠としており18番札所で同乗した。巡拝した順序は、18番―11番―15番―12番―13番―14番―16番―17番―19番―20番―21番であった。天気予報の通り長野県は曇りだったが、群馬県には入ると雨となり巡拝中雨であった。

*18番 白道山 神門寺 本尊;聖観世音菩薩 宗派;曹洞宗 所在地;秩父市
    
要旨;この札所はもと修験寺で神戸山長生院"といい今宮坊に属して栄えたと云われている。
多くの建物があったが江戸中期寛政の頃焼失し、その後再建されたが今の堂宇は天保の頃造
られたものと云われている。堂は宝形銅瓦葺きで三間4面小さいながら整った建築であり、
本尊は、聖観世音菩薩立像で、両手に蓮の花を持つ珍しいもので、高さ102糎室町時代の
作と云わられている。昔、ここは神社で大きい榊があり、その枝が左右に分かれて空に伸び
て結びあい、楼門のようだったので神門と称したと云う。年を経て木も枯れ神社のすたれる
のを見て里人はこれを再建しようと神様に伺うと不思議にも巫女を通じて"寺にせよ"とお告
げがあり、里人はお堂を建て聖観世音菩薩を安置し国家の安泰を祈り永久霊場にしたと云う
縁起がある。
        昭和40年1月25日      秩父市教育委員会指定

        
                  本    堂                回 向 柱            中央前向き先達さん            

*11番 南石山 常楽寺 本尊;十一面観世音菩薩 宗派;曹洞宗 所在地;秩父市


     要旨:この札所は、江戸時代には観音堂、仁王門庫裡を備えた立派な寺だったが、明治
 11年秩父大火で全てを類焼した。本尊は11面観世音で、ほかに釈迦如来もまつって
 ある。その昔、この寺の住持、門海上人は、仁王門建立を志し、多年勧化に心をくだい
   たが、普請なかばにして重い病となり、本願の達しがたいことを憂い、本尊に快気を祈念
 すると、ある夜、黄面の老僧、金銅神を従いてあらわれ、「門海の病気吾能治すべし」と
 いい、金銅神に上人が肩を引き立てられるところにて夢さめ、たちまちに病い全快し、
 仁王門建立の本願を遂げたという縁起がある。またこの寺は明治初年までは天台宗の寺で
 あった。比叡山中興の祖元三慈恵大師をお祭りし、曹洞宗になっても一月3日には大勢の
 参詣でにぎわっている。
          昭和40年1月15日      秩父市教育委員会指定 


        
 観音堂(現在の観音堂は明治一三年に再建されたものだという。)         参  道

 *15番 母巣山 少林寺 本尊;十一面観世音菩薩 宗派;臨済宗建長寺派 所在地;秩父市
  札所十五番は、草創期より、江戸幕府末期までは、母巣山蔵福寺と呼ばれ、秩父妙見宮(秩父神社)の別当寺として栄えてきたようだ。
  明治の世になり、排仏毀釈(はいぶつきしゃく)の影響で廃寺となったが、その後、同地 柳島(現東町)にあった五葉山少林禅寺が、
  民衆信者の誓願によって民制役場の許しを得て、札所として母巣山少林寺とみとめられ、信仰を集めているそうだ。

        
                回向柱と本堂                    本    堂
  

  ← 天上に無数の納札

 昔、お寺にお参りした遍路は金属や木でできた札を、参拝した印に山門や本堂に打ち
 付けて行った。このことからお寺を“札所”と呼ぶようになったという。

  

 

   

                               

   ← 秩父事件で殉職した警察官の墓
 
     明治17年の秩父事件は、生糸相場の大暴落や繭の不出来によって現金収入が断たれた
   農民たちが武装蜂起し高利貸しなどを襲撃した事件である。

 

 


*12番 仏道山 野坂寺 本尊;聖観世音菩薩 宗派;臨済宗南禅寺派 所在地;秩父市
  この札所には、その昔、甲斐の商人種々の具を商い来て秩父の山路に至り賊に遭い、命も危ないとき一心に観世音を唱えるに不思議や
  賊難を免れたという。商人は、後に、観音の利益を敬い甲斐より秘蔵の聖観世音の立像を安置し、この野坂寺を建立したという縁起が
  ある。山門は重層入母屋造りで左右の花頭窓の内に十王像が安置され保元年(1741)の建立と云う。

     参道を行くと重層楼門造りの山門が立ある。山門の左右の花頭窓の中には、閻魔大王をはじめとする十王像が並んでいる。

      
         参  道                       山  門

      
                   山  門  内  観  音  像                

    
          本  堂                  拝向の3頭の巻龍

秩父札所境内に十三佛が祀ってあり、両親供養に訪れる人が多いという。また、十二支の守り本尊として深く信仰されているようだ。
空蔵菩薩・丑寅歳・不動明王・酉歳・文珠菩薩・卯歳・大日如来・未申歳・普賢菩薩・辰己歳・千手観音菩薩・子歳・阿弥陀如来・戌亥歳

      
        
                    十  三  尊  仏  像                                                    

      
                    境  内  の  庭  園 

*13番 旗下山 慈眼寺 本尊;聖観世音菩薩 宗派;曹洞宗 所在地;秩父市

 要旨;この札所の本尊は聖観世音菩薩で、お堂は、三間四面、表軒唐破風つきの流れ向拝
 をふして、入母屋づくりの屈指の建物です。明治11年3月の秩父大火に類焼し、再建さ
 れた。屋根の正面に千鳥破風、唐破風様の流れ向拝を付け、うす肉彫の枝輪、絵画
 のある格天上は荘厳です。県指定旧跡で、文政明治之徳行家井上如常の墓も境内にある。
 街の中心の一角にあるこの地は、昔より霊地としてその名も高く、日本武尊東国征伐の
 おり、この地に旗を立てさせた故、ハタノの下といわれ、年を経てハケノ下と呼ぶように
 なったという。また、薬師如来は「あめ薬師」といい、眼病平癒に功徳あらたかで、
 七月八日の縁日は、多くの参詣人で賑わい秩父の夏の風物詩となっている。
        昭和40年1月25日      秩父市教育委員会指定

 

               
                      山    門                       本   堂(観音堂)
  
  

    薬師堂 
      慈眼寺の本堂のすぐ右にある薬師堂は、目の守り本尊として有名で、「め」と書かれ
      た絵馬が奉納されている。毎年7月8日の“あめ薬師”と呼ばれる縁日は、境内に飴を売
      る露天商が並ぶという。

 

 


             
  ←  経蔵
   薬師寺の右側に経蔵がある、市の文化財となっている一切経が奉納されている。
   経典は輪蔵という、押すと心柱を中心にして回転する六角形の棚に入っている。
   この棚を回転させると全巻を読んだと同じ功徳を得ることができる、といわれて
   いる。            

 

 


 

       
          経蔵内の輪造                     経蔵内の仏像                 
 
*14番 長岳山 今宮坊 本尊;聖観世音菩薩 宗派;臨済宗禅寺派 所在地;秩父市
   
  
  要旨;この札所は、秩父札所信仰に深い関係をもった修験道場の大宗今宮坊が
     あり、その中心的建物は今宮神社でした。本堂は三間四面表流れの向拝、
     方形造りの建物です。本尊は、聖観世音木造漆箔、半跏座像で像高57.
     7糎江戸初期の作です。このほか、市指定有形文化財飛天像は,像高33
     糎跪座して雲にのる姿で曲線美にとんだ異色ある見事な仏像です。
     本尊は雲中出現の霊像と称され、弘法大師霊像を刻まんとして雲中より大
     悲の像現れしを喜び、ついに菩薩の像を得てこの地に安置したという縁起
     もある。
           昭和40年1月25日   秩父市教育委員会指定

近隣の今宮神社は龍神様を祀る古社で、100mほど離れた場所にある観音堂までが今宮坊の寺域であったらしい。
明治維新の神仏分離令により現在の形になったとのことである。今宮坊は、「長岳山正覚院金剛寺」と称し、修験道の本山で有名な京都聖護院の直末寺であったとのこと。

         
   観音堂;今宮坊は秩父札所でも古い格式のあるお寺で、        境内にある樹齢500年の欅
       元は今宮神社内に観音堂があった。

*16番 無量山 西光寺 本尊;千手観世音菩薩 宗派;真言宗豊山派 所在地;秩父市
     昔、円比丘という僧がいた。ある夜、月を眺めていると老婆が現れ、「観音様をまねくからどうか私の菩堤を弔ってほしい」と
     言って姿を消した。円比丘がさっそく霊を供養すると、約束どおり観音像を授かり御堂を造つて納めた。それが西光寺の千手観
     音様といわれているそうだ。秩父霊場には真言宗寺院が3ヶ寺あるがその一つだ。他の観音霊場に比べると極めて少ないらしい。

      
        山     門                   本     堂
   。
       
    

   住職は仏画を書いており、巡拝が訪れると両手で同時に一気に描き上げる技を見せて
   くれた。勿論それを売っており、早速買い求めた方もいた。多くの仏画が展示されて
 おり、なかなかユニークな住職である

 ←両手で同時に描いている。

 

            

       
           特別霊場; 四国八十八ヵ所の本尊の模像が祀られている廻廊
   天明三年(1783)の浅間山噴火により、秩父地方は降灰で農作物や家畜は大被害を被り、多数の犠牲者が出た。
   時の住僧 法淳はその供養と天下泰平を祈願し、四国八十八ヶ所の写し本尊を勧請し寛政七年(1795)廻廊堂を建立した。
   昭和51年(1976)には解体修理し、現在に至っているとのことである。

        
  招福・樽大黒;境内の左側に、茅葺き屋根をのせた      札堂;この札堂は、現在の本堂が建てられるまでは、
   大きな酒樽があり、1日3合、30年分の酒が入るという。    本尊が安置されていた観音堂だった。柱には納札(木札)を
   中にこぶりの大黒天が祀られている。            打った釘や釘跡が無数残っている。

*17番 実正山 定林寺 本尊;十一面観世音菩薩 宗派;曹洞宗 所在地;秩父市
  昔はここが1番寺で檀家の人が守っているのだそうだ。

 要旨;  
  この札所は四間四面の簡素で均斉のとれた堂です。内陣は古風な阿弥陀堂のように 
 念仏回廊が回っている。本尊は十一面観世音立像で、像高55糎の寄木造り、願主
 武州武国郡法印元暁の銘があり、文禄2年発丑3月23日開眼の墨書がある。
 梵鐘は、日本百番観音霊場の本尊とご詠歌を鋳物出した珍しいもので、工芸品都市て
 昭和39年3月県指定の文化財になっている。又、安政、明治の徳行家、井上如常の
 父青岳の描いた狩野風な絵の掲額もある。縁起には、壬生の良門の忠臣林太郎定元は
 主の無道を諌めかえって家財を没収され、当地に来て没した。その遺子空然はこの地
 に養われ成人の後、父の菩提之ため当寺を建立したとあります。
           昭和40年1月25日     秩父市教育委員会指定

      
       本    堂                     梵   鐘
 
 要旨; 埼玉県指定有形文化財  銅鐘
   この鐘はその周囲に秩父・板東・西国の霊場百ヶ所百観世音の御本尊像が浮彫に
   鋳出され百ヶっ寺の御詠歌が刻まれてある、精巧な作で貴重な工芸品として、
   有形文化財の指定を、受けております。(昭和39年3月27日)
        宝歴8年正月16日(1758年)
   施主 武州大里郡上新田住  柴田信右衛門藤原豊忠
   鋳師 武州比企郡上小用村  清水武左衛門清長 作
       

 

*19番 飛淵山 龍石寺 本尊;千手観世音菩薩 宗派;曹洞宗 所在地;秩父市
    この札所は、大きい一面の岩盤上に建てられている。観音堂は七間半四面表流れの向拝をふした宝形造り(ほうぎょうづくり)だが、
    屋根が傷み、雨もりがひどくなったので、諸仏を他の寺に預け地元観光協会の青年部が中心となり、浄財を募り昭和47年解体復元
    された。

 ←  三途婆堂の前にある龍石寺之立札
 要旨; この札所は大きい一面の岩盤上に建てられている。7間半、4面表流れの向拝
  をふした方形造りの大きな観音堂。近年寺の荒廃を憂い広く浄財を募り、昭和47年
  解体復元が成り、その折宝永2年の墨書が発見さた。薄暗い堂内には閻魔を始め、十
  王像など冥途の恐怖を強調するもの、三途の川の脱衣婆をまつる三途婆堂もあって
  仏教の暗い一面をみせる札所でもある。本尊は、千寿観世音座像で像高49糎寄木造り
  で室町時代の作です。昔、この地方に大旱魃があり,弘法大師は天皇の勅により雨を祈
  られたところ、この大盤石二つに割れ、神泉苑より竜が昇天し、雲を呼びたちまち雨降
  り人畜草木みなよみがえり大豊作を得たという縁起があります。
          昭和40年1月25日     秩父市教育委員会指定

          
        岩盤の上に建つ龍石寺                      観 音 堂

   ← 三途婆 (右前の立札は冒頭の説明文)
       三途婆(さんずば)堂には、死者の衣を脱がせる奪衣婆(だつえば)と
       閻魔大王(えんまだいおう)、賓頭廬(びんずる)尊者の三尊が祀られ
       ている。

        

 

 

*20番 法王山 岩之上堂 本尊;聖観世音菩薩 宗派;臨済宗南禅寺派 所在地;秩父市
    岩之上堂は、その名のとおり荒川河岸の崖上にある。観音堂は三間四面方形造りで流れ拝向を付けている。
 
 ← 秩父市教育委員会・秩父市文化財保護審議委員会が昭和32年
     2月8日指定した有形文化財指定の立札。内容は左の史跡指定立札と同じ。 

 ← 史跡指定立札 
 要旨;この札所は3間四面方形造りで他の堂における指折りの建築で、延宝初年、内田家
 先代、内田武左衛門尉政勝の再建によるものといわれております。現在の堂はエド中期の
 造営と思われますが、元禄年間に内陣の補修、宝永年間に彫刻の補修を経てきたもので、
 唐模様系統の建築で優秀な造りとされております。本尊h聖観世音立像でたかさ71糎、寄木漆箔、藤原時代の作と言われ、市指定有形文化
 剤になっています。昔、人皇72代白河院の勅によって建立された荘厳な堂であったといわれ、応仁の頃から次第にすたれ、本尊のみ岩の上
 にさらされた時もあったと云われ、幾多の伝説もあります。札所にまつわる孝子話、乳水場の霊験も縁起とされております。内陣には見事な
 春日厨子の形式による厨子があって、33身と日天、月天像、風雷神像などの像がはられ、札所の中でも優れたものと共に貴重なものです。
                          昭和40年1月25日         秩父市教育委員会指定

      

 岩之上堂(観音堂)
    札所20番は秩父札所中最古の建物で境内は荒川に臨む断崖の上にある。
          昔、川向こうに住む母の安否を尋ねて増水した荒川を渡ろうとした孝行息子を、
           この岩之上堂の聖観音が童子に化身して舟を漕ぎ渡してくれたという。        

 

 

 

         
          参 道 入 口                      参     道 

*21番 要光山 観音寺 本尊;聖観世音菩薩    宗派;真言宗豊山    所在;秩父市 
  
    要旨;
  この堂は、通称矢の堂と称し、本尊は聖観世音で他に幾体かの仏像がある。
 大正12年小学校火災により類焼後、今の堂が作られた、焼失前は三間四面の堂であった
 といわれ、境内には聖観世音立像、百満遍念仏塔、弁財天石塔、芭蕉句碑等があり盛時が
 偲ばれる。堂前の道端には地芝居役者の座頭中村十九十郎の墓もあって地芝居隆盛の昔を
 偲ぶ民俗資料としても貴重です。昔この地は、元八幡宮の社地で神託により観世音の霊場
  になったという。邪神悪魔を除き仏地にせんと八幡大菩薩の放出る神矢がここに落ち、
 悪魔退散したるため名づけて矢の堂をなすという縁起がある。
         昭和40年1月25日    秩父市教育委員会指定
 

  ←観音堂
  
   その昔、行基菩薩がこの地を訪れ、八幡の社地に「聖観音」の像を刻み、祀ろうとし
  た。これを伝え聞いた所の悪鬼共が、観音像の開眼の日に火の雨を降らせて妨害した。
  その時白馬にまたがった八幡神が現れ神矢を放ち悪鬼を打ち払ったという。