ガーンバ! 団塊おいちゃん =リタメン主夫のありふれた日々=

団塊世代の最終ランナー。小学校入学時は児童数が多すぎて2部授業、高校時代はヤング・ベ平連、大学時代は学園紛争の真っ只中!

記憶

2009年05月05日 | おいちゃんの戯言


大阪に帰ったのにはもう一つ理由があります。むしろ、こちらが本来の目的です。父親の25回忌です。
父は70歳で亡くなりました。アコーディオンが好きで、晩年はクロマティックの良いのを手に入れて悦に入っていました。そう言えば、ワタクシメの下の子供は父親と入れ替わりでこの世に生を授かることになったのです。11年後にはワタクシメも70歳です。父親が亡くなった年齢以上に長生きするのが子供の役目のような気がします。

神戸はどのようにして地震後を生きてきたのでしょうかネ。
神戸に関する一番古い記憶は、生田神社の縁日でブリキの飛行機を買ってもらったことです。幼稚園か小学校低学年のお正月です。家族5人でで中華料理を食べに行ったことも覚えています。中華街であったかどうかは定かではありません。ワタクシメにとって神戸が身近になったのは大学に入ってからでしょうね。クラスやサークルの仲間に神戸出身者がいましたし、華僑の子供もいました。なによりも、元町にあった「ロストシティ」へ通うようになってからです。ブルーグラス・ミュージックのメッカとして有名でした。米軍の船が着くと、海兵隊が顔を出すようなお店でした。
そうです、神戸は外国を身近に感じさせてくれる街なのです。線路を挟んで山手と海側で全然違う顔を見せてくれましたが、ワタクシメはロストシテイがあった海側のゴチャゴチャした雰囲気が好きでした。もう40年も前の記憶です。
今回、家族3人で海側を漂いました。三宮で降りて、シーサイドをぶらりぶらりと神戸駅までたどり着きました。なんだか昔とチョイ違っておりました。地震が無くても変貌していたかもしれませんが、さてどうでしょうか。少し他所行きの顔を見せていました。
神戸に親友がいなかったことは幸いかも・・・

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