Marisapo.net | 横浜F-マリノスサポーターブログ

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樋口監督、退任

2014-11-16 13:56:02 | 横浜Fマリノス

2010年の木村和司監督のコーチ時代から、5年間マリノスに関わってきました。
山形(8、9位)、大宮(12位)、FC(16位)での監督としての成績、和司さんとの確執。
監督就任に際して、全くいいイメージはなかった。

そして、シーズンが始まっても攻撃の形が見えない感覚に苛立った。
彼の試合後のコメントと、実際の試合での攻撃についての違和感に、
不信感を拭えなかった。

しかし、昨季からペナ角を取るというキーワードを合言葉に、
攻撃は確かに活性化した。少し時間が掛かったが、攻撃の戦術的な面白さが見えてきた。
この辺りで不信感よりも応援したい気持ちの方が強くなった。
結果的に、リーグ優勝まであと一歩、天皇杯戴冠を達成した。

だが、今季はマルキーニョスが抜け、代替のFWを補強したが、穴は埋めきれなかった。
クラブとしては、何としても代表クラスやエースクラスのFWを取るべきだったし、
監督としては、手持ちのFWの才能を開花させるか、FWの個に頼らない攻撃の戦術を準備するべきだった。
こう考えると、今季の成績については、監督の責任だけではないのは明白だろう。
つまり強化部にも半分はある。それ以上かもしれない。

樋口さんのサッカーを見た時。

攻撃の形が見えない。
交代が遅い、効果的ではなく、準備不足を露呈。
セットプレーのバリエーションを感じない。
パワープレーやカウンターを実行すべき時はあるが、
それの準備を全く感じない。

不満を上げればきりがない。

しかし、過去を振り返っても、監督について、100%満足する事など、現実的ではない。 
狂信的でなければ、良いところも悪いところもあるのが普通だ。 

樋口さんは、人間的に優しく、気持ちの理解もある人であるし、真面目であると思う。
実績的にも 降格には無縁であったし、優勝争いもあり、天皇杯をJ始まって以来の獲得と、
有能であると思う。

残念なのは過去に指揮したチームにおいて、攻撃の構築の手法が出来ていて、 
それをマリノスに落とし込むという流れでなかった事である。
むしろ、この攻撃の構築の手法はマリノスで作られた様に見える。

樋口マリノスはもうあと2試合。しかし、樋口さんのサッカー人生はまだ終わらないだろう。
他のチームでマリノスで培った攻撃を表現されたら、見たいと思う。

マリノスが好きだから、安い報酬でも、マリノスの監督をやってくれたのだと思う。
マリノスが好きだから、守備に安定感があったのだと思う。

あと2試合お願い致します。 


未だ奥大介の死を受け止められない

2014-10-19 14:59:34 | 横浜Fマリノス

奥大介の訃報を知ったのは、昼間の休憩中のツイッターだった。タイムライン上は、故人を偲ぶ言葉が並んだ。
俺は思考停止した。無理して言葉を吐いてみても、違和感が身体を固くさせる。マツが亡くなった時と、同じ状態だった。
そこで、友人のガスサポさんが、彼の印象をツイートしていた。
的確で、また自分の印象とも近いと感じたので、紹介します。因みに本人了承済みです。

磐田の黄金世代の中でも奥は異質だった。周りが凄い速さでガンガンポジションチェンジしたり、パスをビシビシ通す中、一人だけ変なところを漂っていた。最初は理解できず「何やってるんだろう」と思っていたのだけど、磐田の中で異分子として機能してることがやがて分かった。
ただ、その不思議な立ち位置が磐田での立場でもそのものだったというか、中心選手なのに名波や藤田の影に隠れた扱いだった。彼が本当に輝いたのは鞠時代の岡田政権だろう。文字通りチームの中心として守りに攻めにゴールにセットプレーに主将に、それこそ何でも貢献していた。
逆に、その何でも出来てしまう能力こそがフル代表では損な立場になった。スペシャリストを集めていたジーコジャパンでなければ…。もう少し早く、もしくは遅く生まれていたら代表で欠かせない存在だったと思う。鞠を去る経緯も横浜FCでの終わり方も何か凄い寂しい形だったのは覚えている。


付け加えるのなら、マリノスからあろう事か横浜FCに行った事、また、そこで慣れないGMをやった事、DV容疑で逮捕、離婚した事など、
どれも彼の波瀾万丈さを物語っている。

俊輔が海外へ飛び立とうとしている時、ルーズなソックスの彼は来た。
当時、磐田と言えば代表よりも強い、そして鹿島との二強時代である。
また、1試合9得点、34試合で107得点、得失点+64という記録を残す様な、強くて面白いサッカーをやるチームであった。
その中で奥は、もがいている様に見えた。
そしてどうしてもトップ下をやりたくてマリノスへ来た。
俊輔の後釜として移籍して来たが、正直最初は色眼鏡で見ていた。
考えている事がよくわからない様に見え、プレーも90分でどれだけやれるのか疑問だった。
しかし、その後の事はご存知の通りの大車輪の活躍で、大黒柱となり、彼なしに連覇はありえなかった。
岡ちゃんの時、ドラゴン久保が来た。
ポテンシャルは未知数、まさにドラゴン、何をやるかわからないが、言葉数少なく、何を考えているかわからない彼。
人見知りが激しく、不安を抱えて広島から単身来た彼は、ダイさんと呼んで奥を慕っていた。
一緒に横浜FCに移籍した事からも、よくわかる。

色々と彼の事や、今回の訃報について調べてみても、違和感がまだ体に残る。
死を現実として受け止めるのには、まだ時間がかかりそうだ。


否定と差別とブーイング(その3) ブーイングとは

2014-09-22 16:49:31 | 雑感

先日、マリノスの一部のサポーターが差別的行動をした事で処分をされました。また、現在一部のサポーターが応援やブーイングを自粛しています。
これらの事について、少し考えてみました。 


今回はブーイングについてです。
その前に、少し整理したいと思います。

否定は容易に出来る事であり共感を得られやすく、仲間意識も生まれやすい。
しかし、肯定された事に共感を得て、仲間意識が生まれる事は中々難しい。
但し、肯定にて共感した仲間意識は否定よりも明らかに結束は固くなる。
何故なら、ネガティブな感情より、ポジティブな感情を誰もが持っていたいと思うからだと思う。

差別は心の弱さ幼さが生む。
経験不足、知識不足、力不足による恐れ。
一度は差別をしてしまった相手を正しく知り、 自己研鑽をして客観視をすれば差別は減ると思う。

これが今まで私が述べてきた概要である。
ここで、今回は少し題材として具体的に変わり「ブーイング」についてである。

先ずは、あまりJリーグに馴染みの無い人と観戦に行った時によく聞かれる事だ。
「何故、あの選手ばかりブーイングされるの?」
その場で即座に説明してみても、理解は得にくい。
何故なら遺恨があるからなのだが、遺恨はその時にいなければ、感情としては伝えにくい。
例えば、元所属で裏切りを感じる移籍をしただとか、 毎度怪我をさせる様な危険なプレーをする、だとか、
相手の力を恐れて、そういったものが多いと思う。

移籍云々については、それぞれの価値観、嫌悪があるので、中々に難しい。
好きではないけど頑張っているから応援したのに、だとか。
シーズン中に中核でいたのに、急に移籍してしまった、だとか。
例えを上げたらきりがないし、これの捉え方も千差万別だ。

毎度危険なプレーをする選手については、フェアプレーではないのだから、仕方ないだろう。
また、これに正しいレフリィングが行われていない場合も、ブーイングはある。

また相手の力量を恐れての、挨拶代わりのブーイングもある。
マリノスで言えば、俊輔とそれ程関わりがない対戦相手であっても、中心選手であるから、
俊輔にプレッシャーを与えてやろうという事である。
また、PKやCKでのブーイングもこれに類すると思う。

ここまで色々述べてきたが、どれが許されないブーイングだろうか。 
先ずは、危険なプレーについて、ルールから外れる行為についてはあってしかるべきだろう。
次に、相手の中心選手へのブーイングは、選手への勲章と取れる部分もあり、簡単に否定するのは、
どうかと思う。

遺恨の場合、少し難しい。
いつまで引き摺ってるんだよ!と言われる様な、因縁、遺恨からのブーイングはある。
決して、一年経ったら止めるという類のものではないし、これがスパイスだとも思える。
というのも、遺恨を残して移籍した選手が、一年目は物凄いブーイングを受けたとする。
しかし、二年目から全くブーイングがなくなった。
そうすると、許したのか、忘れたのか、 力量がそれ程ではないと判断されたのか、
という事は、選手からしたら、中々酷だ。 
尤も、この手のブーイングは、やり過ぎは御法度であるし、スタジアムを出たら忘れて欲しいとも思う。

否定、差別、ブーイングは何れも負の感情から生まれる。
そして何にせよ差別によるブーイングは許されない。

ここから話しをもう一つ違う方向からしたい。
サッカーとはワールドワイドなスポーツである。
頻繁に海外との交流(試合や移籍)がある。
その中で、否定、差別は置いておいて、ブーイングなどは頻繁に行われている。

国内においてブーイングを悉く止める、若しくは半減させる、といった方向性を取れば、
スタジアムが見た目綺麗な雰囲気に包まれるかもしれない。
しかし、一歩海外へ出れば戦えない事にはならないだろうか。
只でさえ、ナショナルチームもクラブチームも、海外で思うような結果が出ていない。
ブーイングが選手を鍛えるとまでは言わないが、それに負けてしまう様であると、
世界の荒波に晒されたら、何もできないと思う。 

つまり、良いものは拍手!悪いものはブーイング !という一定の基準、文化、思考を育てる。
そういう事が大事である。
だから、個人的な憂さ晴らし、必要以上であり度を越えたもの、この様なブーイングには、
何も意味がない。愛もない。

勝った試合だがブーイング、負けた試合だが拍手という事もある。
それは真剣に試合を見て、応援したからこその評価だ。
こういった表現はもっともっとあっていい。 

結局、ブーイングは否定や差別にも使えるツールだから危険、というのではなく、
使い方によるのだと思う。
鋏を危険だと思うか、便利なツールだと思うかは、人それぞれである。
だから、使い方を長い期間かけて啓蒙していけば、有用であると思う。


否定と差別とブーイング(その2) 差別とは

2014-09-14 20:53:41 | 雑感

先日、マリノスの一部のサポーターが差別的行動をした事で処分をされました。また、現在一部のサポーターが応援やブーイングを自粛しています。
これらの事について、少し考えてみました。 


今回は差別についてです。
差別とは、偏見や先入観が要因として大きいと思います。
○○人は、人を取って食う。など、不確かな情報や、恐れから生じる妄想や連想などから、
誤った情報の拡散などは有史以来枚挙にいとまがないでしょう。
自分と違う種類の人間には誰でも恐れは抱きます。これは人間ならば仕方ありません。

日本でも欧米程酷くないとしても差別はあるとは思います。
しかし、様々な国の人、様々な状況の人を知れば知る程、偏見や先入観は減ります。
偏見や先入観は人間の恐れとして仕方がない部分はあると思います。
ですから、客観的に俯瞰的に見る視点があれば、減ってくると思います。

けれど、一口に差別と言っても、違う種類のものもあります。
先入観や偏見だけではなく、ある程度知っていながらも差別を行う場合です。
些細な箇所が違う事で、先入観や偏見に負けてしまい、差別する様になってしまいます。
また、自分の所行を誤魔化す為の、自己の精神的防衛本能的な差別です。
同族嫌悪的な部分もあったりするでしょう。

差別とは、偏見や先入観に誤魔化されず、様々な経験や情報を得て、
潔く自らの否を認めれば、撲滅できるかはわかりませんが、減るでしょう。

問題は、そういう余裕がない、という事だと思います。
明日の命もわからない人が地球上には多い。
その方にゆっくり考えて下さい。という事は死を意味する事がある。 

それでも差別を減らすという事は、人類として大事な目標だろう。

但し、平和とか差別とか愛だとか言う事を殊更に言うのは欧米発信だと思う。
それは何故かと考えれば、平和じゃない、差別がある、愛がない、だからとも言える。
目前に問題があるから、皆が唱える。
それに比べたら、いまいち日本に平和だとか差別だとか愛を広める様なアピールが足りないのは、
日本はおしなべて平和であり、差別が少なく、愛があるのだと思う。
無論、だから怠っていいという事ではない。日本は恵まれているのだから。

蛇足。
先日の川崎F戦での一部の未成年のサポーター(?)がバナナで挑発したという。
この相手が黒人だったという。
これに個人的にはかなり違和感を抱いた。
欧州において、人種差別的に使われるツール(相手を猿扱い)だが、日本ではそれ程一般化しているだろうか。
マリノスは試合中に即座に対応をした為、大きな問題にはならなかったと思う(チームに罰金500万円、当人は無期限入場禁止)。
第一、白人が有色人種に対して、モンキーだの何だのと言うのが人種差別であり、
日本人というか黄色人種が、黒人に対して白人の真似をした所で、滑稽なだけだと思う。
調べでは、本人の意志は一応そういう意図もあったとの事だが、川崎Fはバナナをイベントに度々使っているだけに、
個人的には疑問が残る。
しかし、TwitterやYoutubeで拡散された場合、これはJリーグだけの問題だけではなく、
FIFAが口を挟むわけで、こうなるとJリーグもどうしようもない。
その事を考えると、マリノスの法人として英断だったのかもしれない。 


否定と差別とブーイング(その1) 否定とは

2014-09-14 20:34:22 | 雑感

先日、マリノスの一部のサポーターが差別的行動をした事で処分をされました。
また、現在一部のサポーターが応援やブーイングを自粛しています。
これらの事について、少し考えてみました。 


 

あなたは否定した事がありますか?
つまり存在を否定した事が。

モノだと日常的だと思います。
極論ですが、使えないモノ、食べられないモノ、です。
それは仕方ない。実際に不便だし、食べられない(或いは、不味い)モノは。
しかし、使えないモノや食べられないモノを作った人はいる事が多い。
その裏側、裏方までを考えたら、簡単には否定しにくい。
知人が作ったものを否定しにくいのはその為だ。

さて、好きなもので同調するのと、嫌いなもので同調するのでは、
どちらが話しが盛り上がり、結束力が強いだろうか。
明らかに嫌いなものである。

好きなものでは、ある程度の方向性に差異があり、これを許容する事は簡単ではない。
他人より自分の方が好きであるという証(愛)をどうしても証明したがる。
しかし、嫌いなものの場合、嫌いな点を列挙した時、許容範囲は比較的広い。同調しやすい。
他人より自分の方が嫌いだという競争は少ない。

また、駄目な部分、短所は目に付きやすい。吟味する必要性は高くない。
感覚的に、生理的に嫌い、に理屈などない。

つまり、駄目出し、否定、それは誰でも出来るという事。
肯定や好きになる事はそれ程簡単ではない。

どうして嫌いなのか。嫌いなモノはどうして、そういう存在なのか。 
それとどう付き合えばいいのか。

単なる否定は進歩、進化、成長を阻む。
しかし、否定からの分析、分析的な否定があれば、それは単なる否定ではない。