心の旅

やわらぎ住宅(株)の社長によるブログ。

観念論と唯物論

2010年08月03日 | 哲学
6月16日(水)哲学学習会を会社で実施しました。参加人数は、7名でした。教材は、「自然の哲学」(上)田中 一著で第三話「観念論と唯物論」です。

雑感
 最近、ある方の講演を聞く機会がありました。
 そのなかで、日本の人口問題について、語っておられました。
 
 日本の人口は、今が約一億二千万人、二〇五〇年には、九千万人と少子高齢化が進むなか、高齢化は医療の発達などによって寿命が伸びていくのでありがたい面もみられます。
 では、なぜ少子化が日本で進むのでしょうか。ということに対してその方は、「結婚しない」ことをあげられ、その理由として家族の価値観が否定された、すなわち、日本人は家族単位の集合体ではなく、一人ひとりの個人の集合体であることを指摘されました。
 引用されたのが、憲法や民法で、憲法の「第三章国民の権利及び義務」の第十条から第四十条までで権利という文字が16回、自由という文字が9回、責任という文字が3回、義務という文字が3回ということで、個人の権利と自由が強調された結果だということです。
 
 民法改正論議でもみられますように、嫡子と非嫡子の関係、夫婦別姓、事実婚・法律婚など家族を大事にするよりも個人の自由を尊重した結果、人口が減少している原因となっていると言われていました。
 

 
 私も、人口についてではなかったのですが、以前に秩序の乱れの原因として、思想、良心、信教、集会、結社、言論、出版、居住、移転、職業選択などの自由が認められていますが、そこには「公共の福祉」を言う文字が4回出てきて、「公共の福祉(みんなの幸せ)に反しない限り、自由ですよ」というのがほとんどの国民に浸透といいますか、あまり意識されていないのではないかと指摘しました。

 確かに、この憲法の精神が個人の自由や権利を重視するのは、歴史的背景からは十分に理解できますが、現代はそれが行き過ぎて弊害のほうが出始めているということです。
 地球環境問題を考える上でも、その視点なしでは根本的な施策はでてきません。
 
 
 要約しますと、個人の自由と権利の意識から義務と責任、そして個人から公共(みんな)のことを重視すると家族の絆が強くなり、子ども中心の、すなわち自分が楽しむことより子どもを育てるのが当たり前の社会となり、人口も増え、共同体を大事にするということで公共心も養われ、秩序だった若い社会が実現し、われわれ庶民に活気が満ち溢れ、暮らしやすい社会になるということです。









本日の学び
 本話の要約
 世界観には二つあり、一つは観念論で、もう一つは唯物論である。これらはそれぞれどのような世界観であるかが、第三話の目的です。
 
 私たちの精神と外界をふくんだ世界全体にたいする見方を世界観という。
 世界観とは、自然、社会および人間の精神活動など全体に対する見解である。
 
 世界観に関して、最も重要な問題は、物質と精神との関係にかんする問題、存在と意識との関係に関する問題であることがわかる。
 そして、この問題に対する態度によって、いいかえれば外界すなわち物質から独立した精神の存在を認めるかどうかを巡って、哲学は二つの陣営に分裂してきた。
 
 正しい世界観とは、自然、社会、認識という世界全体に関するさまざまな問題に対して、納得のいく説明をあたえるものでなければならない。



 精神の誕生について
 さて私は母親の胎内に宿りはじめ、やがてこの世にうぶ声をあげた。
 そのとき、私は物を見ることも音を聞くこともできなかった。私の精神はまだ生まれていなかった。

 「そんなことはない。赤ちゃんは最初から精神を持っているのだ」と考える人もあるかもしれない。それなら話をもう一〇ケ月さかのぼってもよい。
 そのときまでさかのぼれば、私はまだこの世に、ほんのかけらも存在していなかったから、私の精神もまたこの世に存在していない。
 私が体内で成長し、やがてこの世に生まれて成長するにつれていつしか私の体には精神が宿りはじめたのである。
 





 この私の成長を私の両親はじっと見守っていてくれた。私のからだが日一日と大きくなり、やがて物を見分け、話すことばを聞き分けるようになって、しだいに私のなかに精神が形づくられていった。
 
 このように、精神の発生と発達は、一人ひとりの人間の成長をとおして見ることができるが、ここでもう少し視野をひろげて考えてみよう。
 
 この地球は、宇宙が誕生してから約四五億年くらい経過している。
 いまから三五億年前には、すでにラン藻の類が存在していた。長い時間が経過して、生物はしだいに進化し、高等動物があらわれ、ついに人類の出現となった。
 この進化の過程のなかでしだいに精神がこの地上に生まれてきたのである。当初、荒涼とした自然があって、やがて精神のもつ生物があらわれてきた。これが事実である。当初はあなたや私を構成することになる原子や分子である。
 
 この事実は、つぎのことを示している。すなわち精神が自然の本源ではなく、自然の方が本源的であって、精神は自然のなかから生まれてくるものである。
 この意味で精神は物質の産物であるといわなければならない。精神は物質とたいへん異なるものである。
 この異質な精神が自然の発展のある段階で生成したのである。






と本話にはあります。
 精神について日頃あまり考えることは少ないですが、精神が物質から生まれてきたという解釈です。
 確かにこのような説明を受けるとそう考えるのが妥当だと思いますが、一三七億年前に宇宙が誕生して以来、宇宙は変化しつづけていますが、これの原因はなんでしょうか?
 精神的な作用の存在は考えられないでしょうか?
 素粒子から宇宙が誕生したとするとやはり物質がさきなのでしょうか?
 しかし、素粒子の存在はある範囲でしか特定できない、すなわち、素粒子がまるで意識を有しているかのような存在と見ることもできるのではないでしょうか。
 そうすると、宇宙誕生と同時に物質と精神が同時に存在していたということも言えるのではないでしょうか。
 このときの精神はたいへん未発達ではありますが、物質の変化とともにそれにあわせて精神も著しく発展して太陽の動きや地球の動きを制御できるようになったのではないでしょうか。そして宇宙意思や精神を生物である私たちが引き継いだのではないでしょうか。
 そう考えると唯物論か観念論かという議論も無駄なものかもしれません。
 もともとが同質のものであるという考え方もでてきて不思議ではない気がします。最近では、人間の精神が物質に直接作用することや、念じれば、物質や社会がかわるということもよく目にしますが、このように考えると矛盾がなくなるように思います。
 
 ただこの世の中は、たいへん面白くて、ある考えを思い浮かべるとその瞬間に正反対の考えがどこかで発生しているのが真実のような気がします。
 物質にも正物質と反物質があるように。
 
 この考え方は、あくまで私のあまり根拠のない推論であり、空想でありますので、皆様方に解釈はゆだねます。