心の旅

やわらぎ住宅(株)の社長によるブログ。

石ころの運動

2009年07月04日 | 哲学

 6月10日(水)哲学学習会を会社で実施しました。参加人数は、8名でした。教材は、「自然の哲学」(下)田中 一著で「第十四話 石ころの運動」です。

 哲学は、ものの見方、考え方を深めたり、高めたりするのには、すばらしいと思います。
昨今、ものを考えなくても、生活できるぐらい豊かになってきましたが、人間は地球上の他の存在よりも、考えることが得意です。やはり、その特質を失っていくと人間から離れていくような気がします。

 今回の学びは、まず、物質はダイナミックに運動しています。その運動全体をよく捉えているものが弁証法です。そして更に弁証法では、物質の運動のみなもとはその物質の内的関係にあるといいます。それでは、ありふれた運動をしての石ころの運動はどのような内的関係にもとづいているのであろうか?そして更に内的関係を内部矛盾として捉えられる場合を考えてみています。

石ころの運動の本質は?

物質の普遍的な存在様式=運動

 石ころを投げたときには、放物線を描き、地上に落下します。それは、慣性(速さとその運動方向を持続しようとする性格)引力によりこのような軌跡をたどります。

(慣性は、もともと内的条件です)

 もし石ころが水のように流動性に富んだものだとすると、外から力を加えたとき、放物線を描いて石ころは運動するでしょうか? まず、石ころの形をかえてしまうでしょう。

そこで、考えて見ましょう。外から加えられた石ころにたいする作用が石ころの速さを変えるのか、または石ころの形を変えるのかをきめるのは、まったく石ころ自身の性質によるものです。


 石ころに対する地球の引力の作用は、石ころにたいする外からの条件、外的条件としてはたらきます。

 つぎに、石ころ自身の性質、石ころの属性にもとづいて、石ころ自身の運動の条件、すなわちその形を崩すのではなく、全体として落下しようとする傾向あるいはその速さを変えようとする傾向を獲得します。

 すなわち運動に関する石ころ自身の条件、内的条件を獲得します。
 (外的条件が内的条件にかわります)

 さて、以上の結果、石ころの運動には、速さを変えようとする傾向とそれまでの運動を持続しようとする傾向の二つの面があることがわかりました。

 この二つの面は、正反対にある両立し得ない二面ですね。
 この二つの内的な面は同時に存在しながら互いに対立し張り合って現実の石ころの運動を与えているということができます。

 ところで、石ころはつぎの瞬間どの方向へ飛んでいくのでしょうか?

 この新しい方向は、慣性と地球の引力によってひきおこされた石ころのもつ運動の内的条件、すなわち二つの面の間の相互関係の結果定まってきます。

 この意味で、新しい運動方向は対立した二つの面がその対立の解決としてとった結果であるといえます。

 石ころの運動は、対立しあう二つの面の闘争、解決、闘争、解決という過程の絶えざるくり返しです。


矛盾について

石ころの運動のみなもとはなにか

対立し闘争しながら統一している二つの面のことを矛盾と呼びまよう。
そして、物資の運動の内部の矛盾という意味で、内部矛盾といいます。
また、ここで矛盾と読んでいるのは、具体的な運動のなかに存在する対立する二つの面のことであって、その意味で実在的なものです。

さきほどの、対立・闘争、統一という条件をもつ内的関係のことをここでは矛盾と呼びます。


他の石ころの運動もその内部矛盾に基づいて進行しているか検証してみましょう。

静止している石ころもまた運動しています。

石ころとて決して永遠に不変なものではありません。
強い力たとえばハンマーでたたけば石ころは砕けてしまいます。また激しく熱すれば石ころは溶解状態になってしまします。

 さらに、ハンマーでたたかれなくても空気の分子はたえず石ころをたたいています。また、溶けるところまではいきませんが、石ころはたえず外から熱をうけたり、また熱を放出しています。これらの空気の分子の衝突や熱の出入りによって、石ころが石ころとしての質を失わないかぎり、石ころとしての状態を保っています。

 石ころが多量の熱をうけたり、ハンマーでたたかれてくだかれたり、溶けたりするのは、石ころの内部に石ころとしての状態を変えようとする面をもっているためです。また、空気の分子や、わずかな熱をうけただけでは、石ころはくだけたり、溶けたりはぜず、そのままの状態を保ち続けているのは、これも石ころの内部に石ころのままの状態をつづけようとする面があるからです。

 石ころは、この二つの面の相互の関係によって、石ころは石ころとしての状態を保ち、あるいは溶けたり、こわれたりする。


滞在時間ゼロでも存在するということにつきまして

 動くということにはそれ自体につきまとう問題があります。石ころはその通過する道筋の各点、各点に存在しながら運動しているのでしょうか?

 実際、各点、各点に存在したとしても、その存在しつづける時間はゼロです。滞在時間がゼロとは存在しないことです。
 石ころの運動には二面があることがわかります。すなわちひとつの場所に「存在している」という面と、その場所に「存在していない」面という二つの面があります。
 この対立した二面の相互関係が、動きという石ころの状態をもたらします。
 このように、位置の変化という運動自身、石ころの持つ矛盾の結果なのです。

 今まで述べてきましたように、さまざまの内部矛盾が同時に働いて、投げだされた石ころの運動が進行します。

 したがいまして、客観的実在の運動はさまざまの矛盾によってささえられています。多くの矛盾が同時に存在し、これらが複雑多様な運動をもたらします。



 われわれ一人ひとりの人間も、客観的実在であり、さまざまな矛盾によって存在していると思われます。特に人間には、意識と精神がありますのでもっと複雑になります。バランス感覚を磨くことが重要だと思います。個と全体、潜在意識と顕在意識、変革と停滞、悲しみと喜び、苦しみと快楽、やさしさと厳しさ、攻勢と守勢、達成と後悔、経験と勘など無数にあるといっていいと思います。
 ここで重要なことは、すべて矛盾で運動しているということです。すなわち、私自身も対立・闘争と統一の内的関係の結果、運動しているということです。
ですから、外的条件、例えば、「悲しいことがあった」、「つらいことがあった」、「しんどいことがあった」、「うまくいかなかった」などがあったとしても、どのように対処するのかは、これらの外的条件が内的条件になりそれと相対立する内的なものとの間で内的関係が新たに発生して、それが一瞬の休みもなく連続して自分の人生になっていくことかなと思いました。これで人生の生き方が、少し見えてきたような気がします。