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続 江南市縁の七人の戦国武将-2-

2012-04-30 06:52:44 | 郷土の歴史
江南市縁の七人の戦国武将を紹介します。

《 浅野 長政 》





江南郷土史研究会の説明には次のように書かれていました。

天文13年(1544年)出生・丹羽郡宮後村宮後城〔蜂須質屋敷〕(現江南市宮後町)
幼名・長吉、弥兵衛、弾正小弼、従五位下、追賜従三位
『文禄二年甲斐国 22万5千石』賜つ
慶長16年(1611年)67歳 逝去


筆頭五奉行・浅野長政は、宮後城・安井家で生まれました。(他説あり)
安井家は、蜂須賀小六の母の実家です。

この後、織田信長の家臣で、叔父の浅野長勝の娘と結婚し、婿養子となります。

この浅野長勝は、秀吉の妻・ねねの養父。
すなわち、ねねと長政は義理の姉・弟(妹・兄説も)なのです。
当然のように、秀吉にかわいがられます。

1573年、27歳の時には浅井・朝倉攻めに従軍しています。そこでは近江国内に120石を与えられました。

その10年後には、賤ヶ岳の戦に従軍し、近江・坂本城主として2万石を与えられました。
この「坂本」は、坂本龍馬の祖先の出身地といわれています。

秀吉に命ぜられて太閤検地を実施したのもこのころです。

4年後には、若狭国一国(8万石)城主となります。

1590年、秀吉が全国統一した小田原城攻め、奥州仕置でも陸奥国岩代へ出陣します。
さらに、朝鮮出兵(文禄の役・慶長の役)でも軍監として従軍します。

1598年には、五奉行の筆頭になります。
五奉行とは、豊臣秀吉が晩年設置した職制で、前田玄以・浅野長政・増田長盛・石田三成・長束正家の5人。いわゆる文治派で、関ヶ原の戦いの遠因になります。

豊臣秀吉死没後は、かねてより友好関係にあった徳川家康に接近。
1599年、関ヶ原の戦の直前には、前田利長らとともに家康から暗殺の嫌疑をかけられて甲斐国に謹慎を命じられました。
これは、増田長盛が政敵である長政の失脚を狙ってのものですが、実力者である長政を石田三成ら奉行衆から引き離すための家康の謀略だったという説もあります。
家康なら、十分あり得ることでしょう。

隠居し、家督を子の浅野幸長に譲ります。
関ヶ原の戦では東軍に属し、戦後は子の浅野幸長が紀伊国和歌山37万石を拝領し、和歌山城主になります。
長政は、隠居料として常陸真壁に5万石を支給されましたが、1611年、64歳で江戸で亡くなりました。

死没後、常陸真壁の5万石は三男の浅野長重が継承しました。赤穂浪士の主君浅野内匠頭はその子孫です。



一宮の浅野公園は、尾張浅野氏発祥の地です。
浅野長勝やその子長政の屋敷があったと伝えられており、庭園式公園として整備されました。
広さは約9200平方メートル、公園の周りは堀で囲まれ、木々がたくさん植えられています。


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