山茶花の花(東京都江東区)
こんにちは。
今日も皆様、ありがとうございます。
私の経験を踏まえて、お話ししますね。
☆ ☆ ☆ ☆
人と会っていると、普通は気持ちがあたたかくなったり、心に潤いができますよね。
心は、空気みたいなところがあって、
あったかい人といればあったかくなるし、思いやりのある人といれば潤います。
ただし。
先ほど、「普通は」と書きました。
ということは、「普通でない人」といると、逆に、心が枯れることだってあるんです。
「あたたかく」とか「潤い」とか聞いて、「スキンケアみたいだな」と思った方は、いらっしゃるでしょうか。
わざと「肌のお手入れ」みたいな表現を使ったのですが、
これは、心にも似た性質があるからです。
会っても会っても、心が疲れてしまう人。
それは、依存的でなんでも人任せな人…ではありません。
人が一番嫌うのは、利己主義で、感謝もなく、全ての人を見下す人です。
言い換えれば、気持ちが冷たくて、あたたかさや潤いすら奪っていくような人です。
人間、無償の心があれば、どんな状態でも相手を尊重できます。
しかし、誰に対しても「無償で頑張ります」とは言えません。
例えて言うなれば、飲食業などの仕事で、肌を酷使しても、
「自分が選んだんだから」とは思えるかもしれません。
しかし、その酷使した手で、仕事の後でさらに手荒れをするような、それも必ずしもやらなくてもいいような作業をするかといえば、それは別ですよね。
つまり、いくら無償の精神があれど、心を枯らすような人と付き合うのには限界があるのです。
心が枯れたかもしれないという皆さん。
もう、無理はしないで下さい。
世の中、軽蔑されてでも付き合う価値のある人は、限られています。
軽蔑や利己主義は、人格を全否定するようなものです。
このようなとんでもないマイナスの影響がある人と関わりたいというなら、心を枯らしてでも一緒にいたいというのなら、
相手の本質を丸ごと認める以外にありません。
それができないようなら、結局は相手を救えません。
なぜなら、なんのケアも強さもなく、お肌をわざわざ荒れるような環境に置きながら手荒れを防ぐのが難しいように、
自分の側にたっぷり、正しい自覚と気持ちがなければ、最後には「無い者」同士で共倒れになってしまうからです。
心を枯らす人を憐れむのは構いません。
でも、自分が倒れては、救えるものも救えません。
そのために、自分は誰のために、どれくらいの自覚と覚悟、器量を費やして、なお有り余るような思いやりを持てるかどうか、
たまには、考える価値はあると思うのです。
人間関係に、計算は禁物です。
でも、こちらを人とも思わないのなら、計算するかどうか、考えてもいい。
なぜなら、貴重なエネルギーを、より必要な人に捧げることができるからです。
こんにちは。
今日も皆様、ありがとうございます。
私の経験を踏まえて、お話ししますね。
☆ ☆ ☆ ☆
人と会っていると、普通は気持ちがあたたかくなったり、心に潤いができますよね。
心は、空気みたいなところがあって、
あったかい人といればあったかくなるし、思いやりのある人といれば潤います。
ただし。
先ほど、「普通は」と書きました。
ということは、「普通でない人」といると、逆に、心が枯れることだってあるんです。
「あたたかく」とか「潤い」とか聞いて、「スキンケアみたいだな」と思った方は、いらっしゃるでしょうか。
わざと「肌のお手入れ」みたいな表現を使ったのですが、
これは、心にも似た性質があるからです。
会っても会っても、心が疲れてしまう人。
それは、依存的でなんでも人任せな人…ではありません。
人が一番嫌うのは、利己主義で、感謝もなく、全ての人を見下す人です。
言い換えれば、気持ちが冷たくて、あたたかさや潤いすら奪っていくような人です。
人間、無償の心があれば、どんな状態でも相手を尊重できます。
しかし、誰に対しても「無償で頑張ります」とは言えません。
例えて言うなれば、飲食業などの仕事で、肌を酷使しても、
「自分が選んだんだから」とは思えるかもしれません。
しかし、その酷使した手で、仕事の後でさらに手荒れをするような、それも必ずしもやらなくてもいいような作業をするかといえば、それは別ですよね。
つまり、いくら無償の精神があれど、心を枯らすような人と付き合うのには限界があるのです。
心が枯れたかもしれないという皆さん。
もう、無理はしないで下さい。
世の中、軽蔑されてでも付き合う価値のある人は、限られています。
軽蔑や利己主義は、人格を全否定するようなものです。
このようなとんでもないマイナスの影響がある人と関わりたいというなら、心を枯らしてでも一緒にいたいというのなら、
相手の本質を丸ごと認める以外にありません。
それができないようなら、結局は相手を救えません。
なぜなら、なんのケアも強さもなく、お肌をわざわざ荒れるような環境に置きながら手荒れを防ぐのが難しいように、
自分の側にたっぷり、正しい自覚と気持ちがなければ、最後には「無い者」同士で共倒れになってしまうからです。
心を枯らす人を憐れむのは構いません。
でも、自分が倒れては、救えるものも救えません。
そのために、自分は誰のために、どれくらいの自覚と覚悟、器量を費やして、なお有り余るような思いやりを持てるかどうか、
たまには、考える価値はあると思うのです。
人間関係に、計算は禁物です。
でも、こちらを人とも思わないのなら、計算するかどうか、考えてもいい。
なぜなら、貴重なエネルギーを、より必要な人に捧げることができるからです。