皆様おはようございます。
今朝は、東日本大震災から5年目の日となりました。
亡くなられた方々のご冥福をお祈りいたします。
被害にあわれた方々に心よりお見舞い申し上げます。
テレビや、新聞のニュースなどでは被災地のことはわすれない、という表現をよく見ます。
(大衆向けにわかりやすいようこのような表現になるとおもいますが)
私は、5年が経って、改めて知るという気持ちを持っています。
先月、宮城県の南三陸町を訪れました。
町の中心部は、山を大きく切り崩し、市内をかさ上げし、国道はルートを変えてかつての面影はなくなりました。
中心部はどこにいるのか解らないほどで、地元の方でさえ、各地区で道に迷いそうになるそうです。
当初は、1年や2年でと言われていた仮設住宅も、その地ではようやく復興住宅ができ始め、引っ越しが始まるという所。
家を新たに建てる方も、土地の抽選など行われている所との話を聞きました。
そういった地元の方の話、震災後現地で見てきたこと、そしてテレビで報じられる事。
それぞれが、つながってきて理解することもあります。
被害を受けた施設の震災前の姿をたまたまテレビで見て、
その建物が綺麗で近代的な建物で、持っていたイメージとは違ったため、
改めて、言葉を失ったこともあります。
以前にボランティアについての記事でも書きましたが、当事者の当時の体験、気持ちというのはわかりえぬことであり、
現地の方からも同様のことを言われました。
安易に頑張ろうとか、勇気がでた、元気をもらった、等というと変なつもりはなくても違和感を感じさせてしまいます。
大切なかけがえのないものが一瞬で失われてしまい、その後の出来事、なかなか進まない復興。
見てきたこと、体験してきたことは想像はできても当事者にしかそれはわかりえぬことです。
実際、言葉で言っても伝わらないからいわね、と一番つらいことは言いません。
本当にごめんなさいと思います。何でこの差を作ってしまったのだろう。出来てしまったのだろう。
わからないけれど、何もできないけれど、自分のできることを自分はやっていくしかないという所です。
今日は、失われてしまった大切な、かけがえのない魂に遠くからお祈りをささげさせていただきます。
今日はYou tubeより震災の後、通勤で救いを求めて聞いていた、
Dinu Lipattiのピアノを拝借します。
(広告を表示されるものしか、見つかりませんですみません)
それでは。
Dinu Lipatti plays Bach - Jesu, Joy of Man's Desiring (Piano solo)