皆様おはようございます。今日は、震災の後の東北とのかかわりついてお話します。震災後、ガソリン不足でタンクローリーの仕事は忙しくなってしまい、何か力になりたいと思っていても被災地に行くことはできませんでした。そんな中いち早く被災地に向かっていたのは、自衛隊の方々、そして神戸の方々でした。これは仕事で首都高を走っていて強く感じました。神戸の方々には、とても早くから動いていただき感謝しています。自分も3か月たって、初めて、仙台に向かうことにしました。ただこの時は何も力になれず帰ってくることになってしまいました。大変申し訳なく思っています。仕事が終わってから向かったのですが、睡魔に襲われたり、交通状況がまだ悪かったり、思いのほか時間がかかってしまいました。ただ、何もしないで帰るのもとおもい、海沿いへ行ってみることにしました。そこで見たものは、今でも表現する言葉が見つからないような状況でした。それからボランティア活動も次第に市外からの募集は減っていき、実際にお手伝いすることができたのは12月の始め南三陸町での活動でした。この時はもうすぐ1年が経とうとしていましたが、ここは復興が遅れているという声が多く、実際自分でもそう感じる状況でした。少しでも役に立てればと、いろいろ所から来た方々と、複雑な気持で必死に作業をしてきました。このころから、地元に帰っても、当たり前の生活は当たり前ではないし、当たり前のように立っている建物も何か起きればこわれてしまう、普通の生活はとてもありがたいことだと考えるようになりました。南三陸町はそれから3回お手伝いをさせていただいて、わかめの収穫後の作業などもやらせていただけました。もう一つかかわってきたのが南相馬市の小高区です。ここは震災から1年間、一般の人は出入りできなかったのですが、避難指示解除準備区域というものに指定が変わってから、日中出入りができるようになり、ボランティアができるようになりました。今まで8回ほどお手伝いをさせていただきました。ここでは、人が住まなくなってしまっていることが、まずとても悲しくショックでした。雑草が憎たらしいほどに生い茂っていて、その処理を中心にお手伝いさせてもらってきました。この地区は、長いこと人が住めなく、お店もなかったのですが、最近ようやく食堂の営業や工場の操業のニュースが入ってきました。問題は多いですが、少しづつ順調に復興が進んでほしいと願います。今日は、震災後かかわってきた町についてお話ししました。しかし、現実に被災地を見ていても、実際に被害を受けた方のお気持ちのつらさというのは、わかりえぬことだと思ってます。それだけはいつも無力さを感じます。ですが、離れていてもいちはやい復興を常に願っています。そして、またお手伝いできることがありましたらよろしくお願いします。
皆様おはようございます。今日から寒の戻りがあって、日中暖かくても朝夕は冷え込むようです。どうか体調に気を付けてお過ごしください。昨日は、震災から4年を迎えるにあたって、被災地では追悼行事が行われたことも多かったようです。今日からは、3日間東日本大震災についてお話していきます。震災の日、私は仕事でタンクローリーを運転していました。昼間はとても良い天気だったのを覚えています。1回目の配送を終えて荷物を積み込もうとしている運転席の中で揺れが始まりました。揺れがなかなか収まらないので、運転席から外に出ました。この時はあれほどのことが起こるとは思ってもみませんでした。外に出てからますます揺れが大きくなりました。埋め立て地だったからか、かきまわすような揺れと、不気味な地響きが鳴っていました。生まれて初めて今日ここで死ぬかもしれないと思いました。海が近いから津波も来るかもしれないし、周りはガソリンのタンクがいっぱいあります。揺れは立っていられないほどで長く続きました。まわりの工場の煙突からは、異常な量の煙がまっすぐと真上に向かって出ていました。何分かつづいた揺れが収まった後、休憩室で待機することになりました。私は、何日か前、新聞で三陸で震度5の地震があったことと、津波で漁業に被害があったことを覚えていたので、多分宮城沖が震源ではないか、だとしたら、ここの揺れよりも大きいとしたらどうなってしまうのだろうと思いました。仲間が携帯のTVを見ていてやはり震源は三陸沖で大きな津波が起きていると知りました。離れていて何もできないけれども、みんな逃げて助かってほしいと祈っていました。外は急に薄暗くなり大粒のにわか雨がふって来ました。大変なことが起きたけれども、これからのことは想像できなかったというのがこの時の気持ちです。今日は震災当日のことについてお話ししました。