成り行きアラカルト日記

人生は成り行きでありますが、日日是好日と考えて、日々の出来事を凡人の視点でアドリブ的に記載したいと思っております。

体形変化を意識する時

2005-06-12 23:56:33 | 心のこと
今、シャワーを浴びてきました。風呂に入るのが辛い、面倒くさいんでしょうね。エネルギーがないというか。歳なのかなあ。中年も中頃を過ぎ、身体も弛みまする。哀しくもあり、諦めもあり。重力には負けます。昔は、それなりにイイ男だったと思ったこともあり。ごめん。しかしながら、歳をとると、容姿などは意味がなくなりますね。だからと言って、どんな格好でもいいということじゃなく、それなりにほどほどのオシャレも必要なのでしょう。余り有効でもなくても、それだけ努力しているよと言うサインを送る意味でもね。中年の体形は、当たり前ですが一般には若い人と比べると、醜いわけです。体形が変化して中年を意識する時は、やはり裸を自分自身にさらすときが多いでしょう。シャワー、風呂、などの時、鏡を見る時、歩いていてウインドウに映る自分に驚く時、鏡やガラスに映る自分は裸の自分なのですね。ごまかしの効かない自分にハッとするわけです。しかしながら、年齢であれ、障害を持ち身体に変化が起きる時は、身体に対する意識は心そのもののような気がします。体形変化を意識する時、それは自分の心模様を意識する時です。その意味では自己意識がはっきりしている証拠かな。さー日曜日も終わり。これから週刊ブックレビューをみて寝まする。ただ今グッドミン服用しました。おやすみなさいませ。

日曜洋画劇場

2005-06-12 22:57:11 | 映画
京都から帰ると21時前だった。21時から日曜映画劇場で「スピーシーズ・種の起源」をしている。以前見たのだが、又思わず見てしまう。B級映画であるが、B級はそれなりに面白さがあり、特にエイリアン、怪獣ものなど、見るものを楽しまそうとするサービス精神はそれなりにあり、多少の脚本のちゃちさは気にならないものだ。人間と交尾する未知なる生命体。これがやはり美人で裸をどんどん見せる、そして変身する。グロテスクな身体。しかしながら、人類を存亡の危機に陥れようとする生命体でも、命である。子供が産まれ、子供も変身していく。口から触手突起物がでて、胸の乳房様のところからも触手起物がでて首にからみついたりする。未知の生命体を始末して終わりとなるが、最後はネズミが死んだ生命体の触手突起物を食べて、ネズミ変身。口から舌ようの突起物が出て、他のネズミを絡め取る。まだまだ終わってないんだよと思わし気の終わりかたもB級の特徴でしょうか。しかし、哲学的に考えると、人間という種は残酷ですよね。手前勝手に他の生物を殺し食い荒らし、人間同士で殺し合いをするからねえ。怖いのは、未知の生命体ではなくて、眼前の生命体だな。とほほほ。

加藤典洋「僕が批評家になったわけ」

2005-06-12 21:51:52 | 雑談
今日の朝刊の新聞の書評に、加藤典洋の「僕が批評家になったわけ」という作品が紹介されていた。彼の書物は何冊か読んだことがあるのだが、読むたびに「批評て何?」という疑問が増すばかりであったが、彼の良いところは、知にたいして良心的であるというか、論理に対して良心的なところだと思う。好感はあるがねえ。もう少し読者を挑発してほしいなと思っておりました。そんな書評を見て、今日は昼から京都に出た時、本屋に入ると、彼の本が目の前に、仕方ないので買いました。得か損かワカリマセンが買いました。ぱらぱらみると、「批評の酵母はどこにある」というところの、松田優作の「怪演」という言葉があり、それに惹き付けられたのかな。とほほほほ。批評とは?を又しても読まされるか!残念。批評などなくても十分人生楽しめるんだけどね。病気ですね、わたくしめ。

カサンドラ・ウイルソン

2005-06-12 21:38:29 | ジャズ
昼頃、ジャズカフェAに顔を出すと、珍しく、6人の客がいて、マスターが忙しく、スパゲッティーをつくっていた。ここのスパは750円なのだが、美味いんですよ。ところで、そこでかかっていたのが、カサンドラ・ウイルソンの「ベリー・オブ・ザ・サン」であります。以前もジャズのみならずブルース好きなマスターのお奨めのアルバムで聴いたのだが、やはり良いですね。歌う曲のジャンルを超える歌手だと思います。マスターはビリー・ホリデーと比較するぐらい好きな歌手なんですが、僕にはまだまだ聴き込むことは出来ていないので、批評できず、マスターの言うことにうなずくのみ。しかし、ぞくぞくしますねえ。

細見美術館と京都国立近代美術館

2005-06-12 21:18:32 | 雑談
昼過ぎから、京都にある細見美術館と国立近代美術館を連ちゃんしました。細見では、ボストン美術館所蔵の美しき日本の絵はがき展をしております。明治から大正、昭和初期にかけての絵はがきがこんなに美術的に素晴らしいのか知りませんでした。又どのような印刷技術だったのかなと不思議に思いました。日本の忘れられた芸術ではないですかね。アール・ヌーボーからアール・デコの影響なども見られ面白かったです。近代美術館では、20世紀陶芸界の鬼才「加守田章二展」であった。「陶器をつくっているのではなく、陶器を利用しているのだ」という彼の言葉が鬼才の表れなのかなあ。わからん。しかし、スケールの大きなことは分かる。60年代のものは、何だか錆びた鉄板で馬鹿でかい皿とか、壷が出てくる。実用性はまったくない。陶器ではないのかなあ。わからんです。70年代になると作風も変化してきて、色鮮やかになるようだ。50才前に夭折したようであるが、スケールの大きな人は早死にするようで。才能がその人の人生を急がさせるのかなとも思う。帰りに、友人のFさんと二人で、京都駅の飲み屋で一杯呑んで、ただ今帰宅。

メリーの散歩にいきました

2005-06-12 12:40:14 | 心のこと
ワイフが頭が痛いとのことで、娘のメリー、9歳、独身、の散歩を僕が行くことになりました。起きたのが10時半だったので11時過ぎから、近くの公園を廻りました。公園では、黄色い西洋タンポポが綺麗でした。。メリー快便!元々心的外傷犬であり、飼い始めた頃は外にでれなかったのがウソのようだ。捨てられてか、産み落とされたのか分からないが、次男の女性の友人に山中で拾われ、気の良い次男が押し付けられて、二階に隠していたことを思い出します。初めは、預かったいると言っていたが、結局は飼うことになったんですね。次男が世話をすると言いながら、結局はこちらが世話をしていてねえ。そんな流れて多いです。ヨークシャーテリアのサブリナ、シーズーのベティーが続いて死亡して、ワイフはウツになり、もう犬は飼わないと言っていたが、ヒゲが焼かれ、おどおどしているメリーを見ると、もうだめですね。しかしながら、PTSDのメリーは小学生の子供の団体が来たり、大きな音などが聞こえると、固まってしまい、動けなくなりました。少しずつですが、やはり可愛がると生き生きとしてきました。後で行きつけの獣医さんの話では、ここまで性格が良くなるのは珍しいですねと言われました。やはり人間もそうですが、幼児期に刷り込まれた虐待の記憶てのは残り、犬では飼いにくいらしいです。いまや、メリーは近所の人気者であります。自宅の垣根から顔をだして、道行く人を眺めているのですが、いつもメリーのところに人が来て「メリーちゃん・・・」と頭を撫ぜて声をかけてもらっています。やはり人、動物にかかわらず、愛情が心の傷を癒すという原点は同じなんでしょうね。散歩中に遠くに他の犬を見つけると、そちらに走り行くのではなく、じっと座り動かず、眺めているのです。又時々、散歩中に座り込み、じっとして動かなくなり、その場でゆっくりしたいような感じの時があります。何か考えているのでしょうかね。頭を撫ぜて、「さー行こうか!メリー」と言うと、仕方ないなあというような顔をして腰をあげます。