きょうは先ず、28年前の雑誌広告を
ご覧いただこう。これは1990年、バブル絶頂期のもの。
デジタル時代到来の半ば……音楽コンテンツがCD化されても、映像や映像コンテンツの保存はアナログの磁気テープ媒体に頼っていた過渡期があったと思う。 コンテンツの方に関してはレーザーディスクという(デジタル媒体での)販路も生まれていたが、如何せんプレーヤーや「盤」それ自体が高額かつスペースを食い、世間一般への普及レベルにまでは至らなかった。
昭和人ならご存じ、80年代前半「ベータ対VHS」のビデオテープ規格戦争に敗れたソニーさんは、80年代後半に入って(より小型な)8ミリビデオを世に出し巻き返しを図る。8ミリビデオは結果的に、家庭用の携帯ビデオカメラ向けに成功を収めるのだが、そうなる前は「小さくしたベータ」として映像コンテンツも続々(その方向でVHS市場をも切り崩そうと)リリース。この広告の前年、米コロンビア・ピクチャーズ買収へ打って出たコトも、こういったメディア媒体によるソフト資産の拡充、という目論見あっての戦略だろう……と言われていた。

ときにこれ
、ド直球の比較広告なワケだが、日本じゃ平成の終わる今でさえ「比較広告」自体がレアなまま^^;なんて、バブル時代の誰が想像したろうか。すでに1986年には公取委が「比較広告ガイドライン」を提示しており、「(比較広告は)原則、禁止しない。ただし公正な計測値等、比較基準が論理的に明らかである場合に限る」とクリアに明文化されていたにも関わらず、である。
それだけ「公正に数値化できる比較」が難しいのか、あるいは「数値で示したところで(あとあと狡猾に反証されて係争にハメられそうだから)比較だなんて憚(はばか)られる
」的な、日本人特有の《出る釘ぎらい》が根強かったせい❔なのか。
翌91年にはMC・ハマーがコカコーラを揶揄するTV-CMが放映されたが、これは単にイメージとして(特定した)競合商品を「品格攻撃」するもの…❕、との批判の嵐を被っている。そういう意味では、後にも先にも、このソニーさんの広告が「日本で一番、真っ当に認められた比較広告の手本」である、と言えるのかも❔しれない。
さてさて。それはそうと、わたしは別に「比較広告」の蘊蓄(ウンチク)を語ろうとしたのではない。
上のように比較された8ミリビデオとVHSであるが、あとから思えば、どちらの「寿命」も結局それから15年とは持たなかった。その虚しさを大いに❕ 嘆きたいのである。
映画等のコンテンツを劇場上映やTV再放送に依存せず、わざわざ録画媒体で購入しておくのは「自分の一生モノ」に置いときたい、の切なる想いからだ。それが一向に、「何十年経っても手元で観られる」媒体には⚡なってくれない。技術が短寿命ゆえの、消費期限に囚われる。
怒涛のごとくデジタル録画時代に代わり、(映像コンテンツは)やれDVDだのBlu-rayだの、HDDにネットからダウンロード買いするだの…という時代になり、かつて収集した媒体の再生機器が製造されなくなる。これはレコードからCD(あるいはカセットからMD)、あげくはMP3へと変遷する音楽コンテンツや録音媒体とて同じ。
こんなんじゃ、映像も音楽もストリーミング芸術。すなわち観流し、聴き流しが基本で「消費・廃棄されてゆく非持続的な事物」である…との確信だけが社会に定着してく。記録するための技術が、その急激な進歩によって「記録することの無意味さ」を加速させてる。実にバカバカしい「本末転倒」だと感じざるを得ない。
まあ、それを言ったら「この日記」とて必ず(gooブログの)サービス終了の日が来るのに、おまえは何を毎度毎度、躍起になって更新に勤しんでんだよ❕❔ っつ話なのだが。
だが待て。一方で、基底となる技術の進展が緩やかな、「すぐには変わらない生活テクノロジー」も厳として存在する。
たとえば、調理機器。
実はここ3カ月、わたしは炊飯器を使ってなかった。使ってた炊飯ジャーが、まさに「きょうび忌々しい
電子系統」の故障。日々の白米を炊けなくなってしまったからだ。
正確には、もう半年も前から(その炊飯器の後釜にと)圧力鍋を買い置きしてあったのだが、自分はすぐ圧力鍋を箱から出すことはせず、ひとまずフツーに(単なる)鍋で炊くことにしてみた。ただナンとなく「自動炊きじゃなく、マニュアル炊き」したい衝動に駆られて…。

これが(イザやってみると)すこぶる簡単で愉しい🎵 ガラス蓋だと炊きあがる米粒の様子を刻々⏰観察できるから、炊飯時間の10分余が「あっと言う間に」過ぎる。当然ながら、直に自分の眼で(視認しつつ加減して)炊いてるのだから(炊飯器のよーに)設定ボタンを間違え「飯炊きに失敗する」なんてコトも起きない。
ところで
上の写真をご覧いただくと、電磁調理器に「National」のメーカーロゴが記載されてる。そう、この「電子コンロ」は20年も前……巷にまだPCも普及せず、日本語ワープロとかが20万円台で電気屋に並ぶ、そんな90年代に購入した物だ。
ときは流れ、小生がリストラ堕ち。ガス代滞納で部屋のガスを止められて以降は、まさにフル回転。
毎日の調理を頼もしく背負い続けてくれてる「竈(かまど)」だが、一度たりとて
故障なし。今も、どころか今回は白米まで💜炊いちゃってくれる……この「どっしりとした安心感」にはナンと救われてることよ…❕❕❕
わたしが考える「人間の暮らしに望まれるテクノロジー」は、かくのごときスピード(=移ろい)の物だ。急激に基底が代替わりするような技術は、宇宙深海探査、気候解析、医療や環境保全、飢餓撲滅など……ごくごく限られた分野だけでいい。
だが世の現実は、持続性が増すと低消費でカネにならん。儲けるには消費促進、代替(=廃棄)を早める仕掛けを矢継ぎ早に、と考える奴だけが「勝ち組で、しかも富を増しすぎる」。一事が万事、そんな連中の思惑通り進んでみろ。きっと百年もすりゃ、「ヒト自体が旧弊で非効率。お払い箱にしよう」というSFみたいなディストピア社会が地球を覆う。自分は死んでるから知ったこっちゃなくとも、今生まれてくる子供らの、そのまた子供には厳しすぎる苦難
となるだろう。
そんな憂いを抱きつつも、きょうからは白米を圧力鍋で「自動炊き」し始めた自分なのである(
苦笑) =了=

デジタル時代到来の半ば……音楽コンテンツがCD化されても、映像や映像コンテンツの保存はアナログの磁気テープ媒体に頼っていた過渡期があったと思う。 コンテンツの方に関してはレーザーディスクという(デジタル媒体での)販路も生まれていたが、如何せんプレーヤーや「盤」それ自体が高額かつスペースを食い、世間一般への普及レベルにまでは至らなかった。
昭和人ならご存じ、80年代前半「ベータ対VHS」のビデオテープ規格戦争に敗れたソニーさんは、80年代後半に入って(より小型な)8ミリビデオを世に出し巻き返しを図る。8ミリビデオは結果的に、家庭用の携帯ビデオカメラ向けに成功を収めるのだが、そうなる前は「小さくしたベータ」として映像コンテンツも続々(その方向でVHS市場をも切り崩そうと)リリース。この広告の前年、米コロンビア・ピクチャーズ買収へ打って出たコトも、こういったメディア媒体によるソフト資産の拡充、という目論見あっての戦略だろう……と言われていた。

ときにこれ

それだけ「公正に数値化できる比較」が難しいのか、あるいは「数値で示したところで(あとあと狡猾に反証されて係争にハメられそうだから)比較だなんて憚(はばか)られる

翌91年にはMC・ハマーがコカコーラを揶揄するTV-CMが放映されたが、これは単にイメージとして(特定した)競合商品を「品格攻撃」するもの…❕、との批判の嵐を被っている。そういう意味では、後にも先にも、このソニーさんの広告が「日本で一番、真っ当に認められた比較広告の手本」である、と言えるのかも❔しれない。
さてさて。それはそうと、わたしは別に「比較広告」の蘊蓄(ウンチク)を語ろうとしたのではない。
上のように比較された8ミリビデオとVHSであるが、あとから思えば、どちらの「寿命」も結局それから15年とは持たなかった。その虚しさを大いに❕ 嘆きたいのである。
映画等のコンテンツを劇場上映やTV再放送に依存せず、わざわざ録画媒体で購入しておくのは「自分の一生モノ」に置いときたい、の切なる想いからだ。それが一向に、「何十年経っても手元で観られる」媒体には⚡なってくれない。技術が短寿命ゆえの、消費期限に囚われる。
怒涛のごとくデジタル録画時代に代わり、(映像コンテンツは)やれDVDだのBlu-rayだの、HDDにネットからダウンロード買いするだの…という時代になり、かつて収集した媒体の再生機器が製造されなくなる。これはレコードからCD(あるいはカセットからMD)、あげくはMP3へと変遷する音楽コンテンツや録音媒体とて同じ。
こんなんじゃ、映像も音楽もストリーミング芸術。すなわち観流し、聴き流しが基本で「消費・廃棄されてゆく非持続的な事物」である…との確信だけが社会に定着してく。記録するための技術が、その急激な進歩によって「記録することの無意味さ」を加速させてる。実にバカバカしい「本末転倒」だと感じざるを得ない。
まあ、それを言ったら「この日記」とて必ず(gooブログの)サービス終了の日が来るのに、おまえは何を毎度毎度、躍起になって更新に勤しんでんだよ❕❔ っつ話なのだが。
だが待て。一方で、基底となる技術の進展が緩やかな、「すぐには変わらない生活テクノロジー」も厳として存在する。
たとえば、調理機器。
実はここ3カ月、わたしは炊飯器を使ってなかった。使ってた炊飯ジャーが、まさに「きょうび忌々しい

正確には、もう半年も前から(その炊飯器の後釜にと)圧力鍋を買い置きしてあったのだが、自分はすぐ圧力鍋を箱から出すことはせず、ひとまずフツーに(単なる)鍋で炊くことにしてみた。ただナンとなく「自動炊きじゃなく、マニュアル炊き」したい衝動に駆られて…。

これが(イザやってみると)すこぶる簡単で愉しい🎵 ガラス蓋だと炊きあがる米粒の様子を刻々⏰観察できるから、炊飯時間の10分余が「あっと言う間に」過ぎる。当然ながら、直に自分の眼で(視認しつつ加減して)炊いてるのだから(炊飯器のよーに)設定ボタンを間違え「飯炊きに失敗する」なんてコトも起きない。
ところで

ときは流れ、小生がリストラ堕ち。ガス代滞納で部屋のガスを止められて以降は、まさにフル回転。
毎日の調理を頼もしく背負い続けてくれてる「竈(かまど)」だが、一度たりとて

わたしが考える「人間の暮らしに望まれるテクノロジー」は、かくのごときスピード(=移ろい)の物だ。急激に基底が代替わりするような技術は、宇宙深海探査、気候解析、医療や環境保全、飢餓撲滅など……ごくごく限られた分野だけでいい。
だが世の現実は、持続性が増すと低消費でカネにならん。儲けるには消費促進、代替(=廃棄)を早める仕掛けを矢継ぎ早に、と考える奴だけが「勝ち組で、しかも富を増しすぎる」。一事が万事、そんな連中の思惑通り進んでみろ。きっと百年もすりゃ、「ヒト自体が旧弊で非効率。お払い箱にしよう」というSFみたいなディストピア社会が地球を覆う。自分は死んでるから知ったこっちゃなくとも、今生まれてくる子供らの、そのまた子供には厳しすぎる苦難

そんな憂いを抱きつつも、きょうからは白米を圧力鍋で「自動炊き」し始めた自分なのである(
