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朝日が最初に左翼的なカラーを明確に出すのは終戦直後…田中慎次郎氏も復職…『朝日ジャーナル』を創刊…ゾルゲ事件に連座した

2023年02月15日 10時53分41秒 | 全般

マッカーサー司令部の社会教育畑に潜りこんでいた この連中は、日本の民主化に新聞を使おうと目論んだ
2018年07月14日 
さっき、ネットで以下の記事を発見した。
私が、今、日本と世界に紹介している高山正之の最新刊を事実として裏付けている箇所が幾つもあるし、朝日新聞の社員と言うのは単なる受験優等生であって日本の最優秀選手なんかでは全くないと私が言及し続けている事が、そっくり、そのまま、証言されている箇所もある。
1934年生まれで要職にあったから戦後の社内に精通している元朝日新聞社員二人の対談集からである。

≪徹底討論≫OBが語る なぜ朝日の偏向報道はやまないのか
『月刊正論』 2008年11月号
稲垣 武(元「週刊朝日」副編集長)/本郷美則(元朝日新聞研修所長)/聞き手 石川瑞穂(元産経新聞論説委員)

朝日は戦後左翼社会の鏡だった
稲垣 
いつも言っているのだが、朝日新聞は戦後民主主義の守護神であることを自任しているわけです。
その戦後民主主義がもたらした歪みはどこからどう来たのか。
それはそっくり朝日の論調に反映されているといっていいと思うのです。
マスコミとは社会の鏡だという言い方がされます。
しかし、戦後民主主義が左翼に牛耳られ、歪められてきたことを考えると、朝日新聞とは日本のいわゆる左翼社会の鏡でもある
左翼と朝日は互いに影響し合って動いているともいえる。
では、互いに共鳴しあう左翼とは何だろうか。
容共ではあっても、必ずしも共産党ではないのです。
共産党のようにがっちりと構築された理論を持っているわけではない。
むしろ、ムードに基づくもので、その方が格好いいと考えるモードと言っても良い。つまり一種の心情左翼的なところがあるね。
本郷 
朝日が最初に左翼的なカラーを明確に出すのは終戦直後です。
昭和20年10月、朝日社内では10月革命と言っているのですが、要するにそれまで地下に隠れていた聴涛克己氏(のち日本共産党中央委員)や、後年、「私はマルキストだった」と自著で告白した森恭三氏(のち論説主幹)らが素顔で表に出てきて、理論武装を支えた。
稲垣 
渡邉誠毅氏(のち社長)もそうだよね。
本郷 
彼は、たしか横浜事件で辞めた。
稲垣 
いや会社を辞めたのに、戦後復帰したんですよ。
本郷 
田中慎次郎氏も復職してくる。
のちに出版局長として『朝日ジャーナル』を創刊した人物です。
稲垣 
彼はゾルゲ事件に連座したんですよね。
本郷 
そう。彼はゾルゲ事件のときに政経部長だった。
不思議にもゾルゲ事件で起訴されてはいないが、大阪経済部の出身ですよね。
田中氏は広岡知男氏や森恭三氏と一緒に大阪経済部の出身でした。
大阪編集局というのは、権力中枢の東京から遠く、戦前からいささか反体制的な雰囲気があったようです。
昭和11年に、当時の東証で朝日記者が絡んだ不祥事が起こり、東京の経済部改革が迫られたときに、大阪から田中氏が広岡氏やらを率いて東京へ転じているのです。
そのころの東京本社には、尾崎秀実もいました。
彼は、その後、社を辞めて満鉄で働いているときに、ゾルゲ事件を起こすわけですが、尾崎に「御前会議」の最高機密「南進」を耳打ちしたのが、部下から情報を仕入れた田中でした。
そういう人たちが戦争中は社内に潜んでおり、終戦を機に一斉に表に出てきた。
GHQの公職追放令は21年だったが、その前年、朝日は独自に当時の編集幹部や村山家、上野家の当主たちを追い出して、21年春に重役を公選するわけです。
これは組合が選挙して選ぶということです。
社長には、まだ編集局次長だった長谷部忠氏が就任するわけですが、一種の組合管理に近い形になった。
これが、朝日に赤い旗が立った最初だと思う。
だけど、重要なことは、こうした流れの底流は、戦前からあったということですよ。そして占領政策を推し進めたGHQにも革新派がいて、これと呼応して朝日の左傾路線が始まったというわけです。
稲垣 
革新派とは当時の民政局や社会教育畑に多かったみたいですね。
本郷 
そう。中にはニューディール政策を進めた連中もいたわけですよ。
稲垣 
ニューディール派でもニューディール左派だから。
本郷 
アメリカで夢が叶わなかった連中といっていい。
稲垣 
もともと彼らは容共的社会主義者なんだよ。
共産党とそう変わらない。
共産主義というとアメリカ国民には生理的な嫌悪感があるでしょう。
だから「リベラル」などとごまかして、それでいろんな政府機関に潜りこんだわけで、なかでも相当に過激な連中が日本へなだれ込んできた。
マッカーサー司令部の社会教育畑に潜りこんでいたわけです。
本郷 
それでこの連中は、日本の民主化に新聞を使おうと目論んだ。
戦争中に抑圧された連中を表に出し、新聞を先兵にして、日本のいわゆる民主化を進めていくわけです。
読売は読売で激しい争議があった。
あれは鈴木東民氏に率いられたけど、鈴木自身も戦争中は朝日の在欧通信員です。
ところが世界情勢は劇的に変わっていく。
昭和21年3月には、早くもチャーチルが「鉄のカーテン演説」をし、中共が蒋介石をどんどん負かしていく。
さらに朝鮮戦争が兆す。
そうすると、米国はガラッと占領政策を変えるわけです。
それまで戦前戦中の指導者を公職追放で斥けていたのに、一転してレッドパージに乗り出す。
その際、教育界の次に狙ったのが新聞業界だった。
追放者が最も多かったのはNHKの119人、次いで朝日の104人だった。
手法としては、職場内の密告を推し進めた。
長谷部社長は苦汁を飲まされ、GHQに「やらないと朝日新聞を潰す」とまで強要されるわけです。
彼が最も懸命に守ったのは笠信太郎氏(論説主幹)だったと言われています。
いったん表舞台に現れて、労組を母体に花形となった広岡氏、田中氏、森氏といった連中も、ここで本来の職場に戻されてしまう。
そして、公職追放令が解除され上野精一氏も村山長挙氏も社に復帰してくる。
もっとも、二人とも社主家の二代目で「よきにはからえ」の体質は否めなかった。
稲垣 
正力氏(松太郎・読売社長・第一次岸改造内閣で科学技術庁長官)のような指導力がなかったんだよなあ。
本郷 
もともと長挙さんは、子爵をもらっていた殿様の三男坊だからね。
精一さんも「敵前逃亡のDNAがある」といわれるくらい(笑)おとなしい。
それで結局、戦中から生き残った、比較的若く経営能力のある連中が、昭和23、24年から先、戦後の新聞ブームを築いていくわけです。
業務系は永井大三氏(のち常務)という大物、編集系統は信夫韓一郎氏(のち専務)が両輪になり、昭和30年代の初めまで戦後の黄金時代を築いていくわけです。
石川 
村山さんの時代ですね。
この稿続く。



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