以下はラフの原稿である。
ずいぶん前に仕事で飛行機で四国に行った折の事である。
機内から眺めた瀬戸内海の美しさに感嘆した。
多島美と称される瀬戸内海は、1934年に国立公園第一号に指定されました…そのとおりの光景だった。
京都、滋賀、奈良を撮影していた10年ほど前に、無性に瀬戸内海を撮影したくなった私は、こだまに飛び乗って、一人で、三原に向かい、駅からタクシーで筆影山から写真を撮影した。
平和が定期的に崩壊する家庭に育った私は、連日、晴天が続く夏が大好きだった。
家庭の平和が定期的に崩壊していたのは、元々、船主の一族だった8人家族の
我が家の当主である、県庁マンだった父親が、他所に愛人を作り、私と同年代の娘までいたという火宅の人で、我が家に1円の給料も入れていなかったからである。
彼が火宅の人だった事、遂には、家を抵当に入れていた事を私が知ったのは高校3年生の始業の頃だった。
私の母校は、日本を代表する超進学校だった。
宮城県下の中学校の1,2番の秀才たちが集う高校だった。
柔道の神様である三船久三が先輩だったように、「文武両道」がモットーだったから、各人は、高校2年生までは思い思いに、クラブ活動に精を出していた。
だが、その日は母校の3年生全員が、クラブ活動を停止し、それぞれが志望する大学進学のための受験勉強を開始する日だった。
水戸っぽで、教育界に鳴り響いていた名校長が、3年生全員を講堂に招集し、受験勉強開始のゴングを鳴らすのである。
母校は東北大学の真下に在った事もあって、同級生440人の内、毎年100人前後が、東北大学に進学する。
仙台のライバル校と毎年、その進学数を競う事も、3年生に一層の発奮をもたらした。
何しろ、この日を境に全員の表情が、がらっと変わるのである。
皆、県下の中学の1,2番の秀才そのもの表情に変わる。
私も同様だったことは言うまでもない。
その表情で帰宅した私を待っていたのが、父親が火宅の人である事を暴露していた騒動だった。
私は、不思議と、私と同年代の娘が他所にいる事には何の感慨も持たなかった。
だが、そのために、家が抵当に入っている云々が耳に飛び込んできた瞬間に、私の受験勉強は終了した。
私は、言わば、腰が抜けたのである。
私は、周囲の人たちに「私は永遠の19歳である」と何度か告げてきた。
周囲の人たちも「あなたなら」と殆どの人が同意した。
それは今でも変わらないのである。
私が、そうであることの最大の因子は、この高校3年生として始業した日の出来事に間違いはない。
何しろ、「京大に残って京大を背負って立て」と恩師から命じられた人生が、勉学の道が、この日、終焉したのだから。
この稿続く。
2024/8/26 in Onomichi, Hiroshima