すんけい ぶろぐ

雑感や書評など

高橋和巳「堕落」

2005-11-08 19:50:17 | 書評
ある意味「予言の書」になってしまいました


なんとなく読む本がないなぁ~と思いながら、未読の本の並びを見て選んだのが高橋和巳「堕落」。
ちょっと前に「邪宗門」を読んだばかり。多分、代わり映えしないんだろうなぁ…………と思っていましたが、案の定。

例によって、追求していた理想に裏切られ、かつ裏切った男が、女関係で身を滅ぼしていく、というストーリー。


主人公は青木隆造。かつては満州国建国に力を尽くし、その夢が滅んだ今は、その五族共和の理想を未だに引きずっているかのように、混血児を集めた孤児院を営んでいる。
その仕事ぶりは、他人から宗教家の如く崇められており、無償の奉仕として世間から認められたのだが、その栄光の瞬間、漁色という彼の堕落が始まっていく。

それは、何故なのか?

著者は、作中で、こんなことを言っています。
 いま一塊の墓石に凝固している、もと関東軍下士官は、その小さな善意のゆえに、野外演習のあるたびに、部下の小隊をひきつれて道をそれ、満洲人の農耕の手助けをした。上官もそれは知っていたが譴責はしなかった。そうしたことを許容する雰囲気が、戦争が苛酷になる以前の一時期にはたしかにあったのである。だが一下士官の愚かな非政治的善意は、匪賊の襲撃による小隊の全滅というかたちで結着した。何か間違っていたのか。軍人として義務づけられていた枠をはみださねばよかったのか。それとも農耕の手助けをするという行為自体が、土着の民にはやがてはその土地を没収される前触れと映ったのか。いや、おそらく、彼がなにかある理想を胸にいだいたこと、それが彼を滅ぼしたのに。人が滅びるのは、自堕落によってではない。むしろそう、その人間を勇気づける理想によってなのだ。
高橋和巳「堕落」36~37頁 講談社文芸文庫
つまり、主人公が女に溺れていく過程は、作者からすると「堕落」ではないようです。

むしろ、人々から賞賛を受けた孤児院の運営など、彼にとっては、既に「堕落」であったのでしょう。

かつての大いなる理想の前では、現在の現実の成功など、ちっぽけなもの。
ならば、かつての理想を汚さないためにも、この卑小な成功をも汚してしまえ! ということなのでしょうか?

 歴史を動かして来たのは、常にこうした悪人たちだが、青年たちよ――青木はロに酒をふくんだまま、眼前にはいぬ中里徳雄に語りかけた。――中里よ、青年たちよ、たとえ欺されて死んでも、この世には何か素晴しい宝があり、自分はただそれに触れる機会がないままに死ぬのだと思えるうちに死ぬ方が幸せだとは思わないか。毒ガスにおかされた肺のように、心までもぼろぼろになり、如何に夢想しようにも一片の美も思い浮ばず、革命の中にも、どの流派が権力を牛耳るか、誰が出世し誰が左遷されるかとのみ思い惑うような人間になってからでは、もはや死んでもその霊に平安はない。歴史が無辜の死によってなるものなら、それは如何に傷ましかろうと、まだしも美と清浄の夢想だけでも、この地上には残る。青年たちよ。せめてその精神がけがれ切らぬうちに、死ね。
高橋和巳「堕落」123~124頁 講談社文芸文庫
死に切れなかった、初老の男性にとっては、理想を失った瞬間から、「堕落」ということなんでしょう。


他に面白かったのは、以下の文章。
 およそ過渡期における政治は、その大綱において一応の成就をみても、その過程に多くの試行錯誤と罪過を重ねねばならぬ。やがて事成って安定したのちに、過渡期の罪過を一身にになって消えてゆく幻影の独裁者、つまりは傀儡が必要なのだ。もし仮りに計画のすべてが予想外にスムーズに進捗し、飢餓や重税、そして生命の危険感から解放された民衆の称讃が不当にその幻影の独裁者に集りそうになれば、阿片をあたえ女をあたえて、人格的に破綻させ、その座を奪うことぐらいは赤児の手をねじるよりも易しい。そして、現在、可能性は前者の方が大きい以上、大衆には崇拝の、参謀たちにはやがて失策の肩がわりをしてもらうべき象徴が必要である、と。
 古く日本の土俗にもそうした知恵のあったことを青木は著名な民俗学者の著述を通じて知っていた。生贄の対象としての一つ目小僧の伝説――呪術が人々の心を支配し統合していた時代、次の祭祀の生贅と決った若者は、目玉をくり抜いてしるしとし、一年間、すべての労役や共同体の義務の上に超越することを許し、たとえその若者が婦女に襲いかかっても人々は許し、食事時に家に入ってこられれば食物を捧げ、そして祭祀の日、彼は村人を悪霊からまもるための生贅としてその生命を神に捧げるという古き風習である。
 国家には統一は必要だが、永遠的な統一者は必要ではない。いやむしろそれは害になる。その矛盾を解決する道は、〈崇拝される生贅〉を選びだすことより他に方法はないのだ――と。
高橋和巳「堕落」42~43頁 講談社文芸文庫
青木が、これまで培ってきた評価を一変に失うような破廉恥な行為に走ったのは、この組織を維持するために、彼自身が〈崇拝される生贅〉になったということも、できるのかな?
そう考えると、彼がちっぽけな成功に過ぎないと思っている孤児院ではあったが、その組織のために、彼自身が身を犠牲にしたとも言えるわけだが……………さて。それは深読みか?


ともかく、いつもの高橋和巳となっています。
が、彼の長編にしては、短い方です。
なんで、高橋和巳入門には、ちょうどいいかもしれません。


で、「邪宗門」の感想は、こんな感じ。
高橋和巳「邪宗門 (上)」藤谷美和子は、今回のご成婚をかなり喜んでいるだろうなぁ
高橋和巳「邪宗門 (下)」死んじゃえ、死んじゃえ、みんな、死んじゃえ


この物語終盤では、主人公の青木は孤児院の金を持ち出して放浪の旅にでます。
これを読んでいたことろは、さしたる感慨はなかったのですが、まさか、その数日後に、このブログを書いている僕自身が、放浪の旅に出ることになるとは…………。


堕落

講談社

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