GW中に準備していた一連の記事の始まりは、「利他」について書かれた本の紹介でいこうと思う。利他というテーマは、「鬼滅の刃」、「ひぐらしのなく頃に 業」という二つの作品のレビューで最近繰り返し触れてきたが、それを学術的な視点で様々に論じてみようというのが本書のスタンスである。
本書冒頭でも触れられているが、コロナとそれによる影響は、否応なく私たちの社会を振り返るきっかけとなった。パンデミックはもちろん、政府の場当たり的政策、経済的影響、生活様式の変化、デマの広がりetc...それは病気そのものだけでなく、航空業界や観光業界、飲食店へのダメージが象徴するように、「明日は我が身」という感覚と、今まで自明と思っていたシステムが機能不全に陥る現実(これは3.11にもあったことではあるが)を突き付けられたわけで、そこからのリフレクションの中には当然短絡的な自己責任論では済まされない相互扶助の重要性も含まれていたのではないだろうか。
言い換えれば、昨今の新自由主義的風潮の中で、とにかく「どう生き残るか」ということばかりが焦点化されていたが、そこに大きなブレーキがかかるきっかけがコロナ禍だったと言えるだろう(ちなみに仕事という観点で見た場合は、AIが急速に発達すれば不要になる業務や職業が大量に出てくることにつながるわけで、「ブルシットジョブ」を大量に残存させない限りは、同様のことが将来的に当然起こりうる。つまり、こういった現象は一回的に終わるものではない)。
とするなら、流動化と分断の中でアダム=スミスが著した『道徳感情論』のような安全弁がもはや機能しなくなっている今日、今の風潮やシステムに掉さす思想や新たなシステム作りが必要不可欠と言えるのではないだろうか(その意味で、本書は斎藤幸平『人新生の「資本論」』とも通じる部分があると言える)。
さて、前置きが長くなったが、以上のような問題意識を元に本書を読めば、様々なヒント(答えではない)がそこかしこに散りばめられていることに気付くのではないだろうかと思う。以下、各著者の視点について自分が書いたメモ書きを掲載していくこととしたい。
<伊藤亜紗> 「「うつわ」的利他-ケアの現場から―」
・利他は他者のためだけのものではない(情けは人のためならず)
以前に「自分のことをよくよく考えるからこそ、他人についても考えざるをえない」という趣旨の記事を書いていたので、我が意を得たりという感じ。残念ながら、これを理解してない人間が余りにも多すぎる。「自分のために人助けなんて不純な!」ぐらいのナイーブな人間だらけで嫌気が差すわ。仕事はわかりやすいと思うが、人を助けることは周り回って自分にも影響してくる。まあ社会レベルではそこまで意識できないって話なのかもしれないが、そこはあまりに社会がどうなっているかを学校で教えてこなかったのが問題の一因ではないかと思う(まあ「上の学校に送り出し、最終的には社会の歯車にする」ための養成機関という近代の時の仕組みが、かなりの程度残存してしまってる感じだ)。
・共感の危うさはどこにあるか?
これが危険な理由は、「多くの人が己の想像力のしょぼさをわかっていない」から。共感とは字面の通り「同じ感覚・感情を持つこと」ぐらいの印象を与えるが、そもそもそれらは数値化・可視化できず、どこまでいっても言語ゲームの領域を出ない。ゆえに、今述べた印象を元に「共感が大事」と訴えることは、むしろ想像力の閉塞を促進する(共感できないものは理解しなくてよい。自己拡張の否定≒他者への無理解を正当化)。とするなら、共感などという言葉を使うよりも、「相手の立場に立って考える習慣をつけよう」の方がよほど実態に合っている(これは前に書いた清側から見た日清戦争、ロシア側から見た日露戦争の話にもつながる)。これはロールズの「無知のヴェール」を連想するとわかりやすいかもしれないが、要するに相手の生育環境や現在の状況を情報収集してトレースした上で、そこからだとどのような判断・行動が生じるか・生じやすいかを考えるようにする、ということだ。このように、共感といういかにも情緒的に見える言葉ではなく、むしろ「相手の立場に立って考える」という論理的な営為に置き換えることで、自分自身の思考がいかに自分の環境や立場によって作り上げられたものに過ぎないかを常に意識する習慣をつけることが、オープンマインドな態度にもつながるし、それはすなわち多様な人々のあり方や主張を理解することにもつながる思うのである。
・コントロール不能な他者という認識が不可欠
つまり、「以心伝心」という発想やそれを称揚するのはクソ。穏便に言っても、今の時代にはそぐわない。
・利他における、数値化の危うさ
数値が目的化し、内発性が損なわれる(三島由紀夫の言った「一番病」と同じ問題)。価値観が多様化している以上、誰にでもわかるように数値化して寄付などの行為にコミットしやすくするのはある程度必然的な流れだと思う(反感を持たれることを承知で言えば、私は街頭で募金を募っているのを見ながら、「この時間この人たちがアルバイトするのと募金を募るのって、どちらが金額的に寄与できるのだろうか?後者の方が多い金額を寄付できるのなら、そちらにコミットした方が価値があるのではないか?」と常に思っている人間である。というのも前者を重視するのではれば、それは助けるべき他者より、自分のやりがいをこそ優先しているという意味で利他の装いをしたエゴイスティックな行為ではないか、と思うからである)。しかしそれもバランスの問題で、それが行き過ぎれば「高い数値を出すことが正義」となり、「どうすれば高い数値を出せるか」ばかりを追求することになってしまうのである。
<中島岳志> 「利他はどこからやってくるのか」
・様々な贈与についての説明(交換と贈与の違いに注意)
贈与が権力関係を生み出す危険性。対策として、見返りを期待しない、オートマティカルな行為としての贈与の模索。ここでは仏教(絶対他力など)について取り上げられているが、見返りを求めないコミットという意味では『ヨブ記』にも通底するテーマだろう(この点からして、ヨブ記で強調される「神との契約」という視点は日本にそれほど馴染みがないかもしれないが、エートスとしては十分理解可能なものだと考える)。これだったらイスラームのサダカ(喜捨)とかに話を広げることもできそう。ただ、近代の「神聖不可侵な私有財産」という発想とどう切り結ぶか?という問題は常にある。また、これは宮台真司とかの話を聞いていていつも思う事だけど、「自然と沸き上がる内発性」を、「外から促進する」という矛盾と難しさがついて回るなあと感じた(まあ正直、仏教で言えばそれの理解は大乗ではなく上座部的なものにならざるをえない、というのが今のところの自分の結論だが)。
<若松英輔> 「美と奉仕と利他」
・利他とは、作為ではなく生まれるものである/「不二」の可能性と危険
「理解しえないという前提」から出発しようとしない人間がこれを聞けば、人間はわかりあえるのが当たり前だと錯覚し、理解できないのはその人間がおかしい(あるいは超越してる)からだと相手を悪魔化・神格化するに違いない(これは伊藤の記述で述べた共感の話と同じ)。しかしそれでは、ただの思考停止でしかない(なお、柳宗悦は沈黙を重視したところからすれば、そういった陥穽に極めて敏感だったと思われる)。利他を概念化・理念化することの誤り。ではどうやってそれを広げていく?広げようとした瞬間に誤解を生み、誤解が生まれるからシステム化するとあっという間に頽落が始まるというのは、教団などの歴史を見れば明らかである。ここに利他というものの困難さもあるように思える。
<國分功一郎> 「中動態から考える利他」
中動態の成立(以下、本文の要約的内容)
「能動的な主体的個人」という近代が前提とするものを疑う。これは誰に責任を帰属化させるか、という責任の設定とも関連する。ポストモダンはこれを批判こそしたものの、オルタナティブを提示しなかった(できなかった)。なぜ、ギリシャ語では同様に表現されていたものを、能動態か受動態のいずれかかで表さなければならないというような、すなわち二項対立図式が意識されるのか?そこには「意志」が深く関わっており、つまり「自分の意志か強制か」という問題である(アーレントがそこに注目したのは全体主義の起源とそこにどう掉さすかという問題意識からだが、ここでは詳しくは述べない)。しかし、國分が提示した研究発表の事例がそうであるように、そこへの参画は自ら(=國分自身)が意志したものだが、割り当ては他者から与えられた受動的・強制的とも言える。このように能動・受動は両義的なものである以上、そのような二項図式では説明しえないのではないか?
私には、昨今かまびすしく唱えられる短絡的な自己責任論は、この点を意識的・無意識的に無視したものと見受けられる(事態の予測を含め、「自らのコントロール力を信仰しきっている」と言う事もできる)。ギリシアにおける意思の不在とギリシア悲劇。人間の意図した行動がどのように翻弄されるか、またそれがどう表現されているか。神的因果性と人的因果性、被害者であると同時に加害者であること。そしてTCや当事者研究で、ある種の神的因果性から事象を見た者たちが自らの責任、すなわち人的因果性をより直截に受け止めらる事例を見るなら、中動態の発想は決して責任放棄を意味せず、むしろ自発的に責任を感じるようになる。英語の応答責任と帰責性という考え方からすると、今の責任は帰責性にばかり寄っている。つまり、責任を取らせるとしたら誰なんだ?ということばかり考えている歪な状態。これは今の日本の短絡的な自己責任論が典型例だが、様々な国でも似たような事例はいくらでも見て取ることができる。そして世界を単純化する陰謀論が流行るのも、類似の「ニーズ」に基づいていると考えれば理解しやすいのではないだろうか(論そのものの妥当性より、物事が単純化され帰責性が明確になるため納得・安心するし、怒りの矛先が定まって溜飲も下がりやすくなる、ということ)。
なお、筆者(ムッカー)が「オイディプス王」に極めて強い感銘を受けたことは繰り返し言及してきたが、その理由は人間の自由意思の発露(かつ誰も悪をなそうとはしていない!)と、それでも世界に翻弄される姿を描くという意味で、世界の見通し方を端的に示しているからである(この話は、「保守への結節点:理性への懐疑的態度」の記事などに繋がる)。
<磯崎憲一郎> 「作家、作品に先行する、小説の歴史」
ただ何かに影響を受けた・受けないという単純な話ではなく、歴史的な流れがあるのではないか、という話。自身と北杜夫、ガルシア・マルケスと北杜夫のアナロジー(直接は関係ない)、「抱擁家族」・「馬」。
あまり全体的にまとまりのある論考ではなかったという印象。まああえて精緻に書くのではなく、事例を示すことで思考を促す、という方針なのだろうとは思うが。あえて話を広げるなら、「コモンズ」などに言及してもよかったかもしれない。つまり、作品のアーカイブというものはそこで終わるものではなく、澱のように記憶に溜まって後継世代に継承されていく、という具合に。だから、具体的な目に見える利益を生み出さないコモンズも、人類という長い目で見れば、様々な部分に有形無形の貢献をするからこそ設定する価値がある、といった論だとおもしろかったのではないだろうか(こうなると話はレッシグとかにつながっていくが)。
なお、「抱擁家族」は「アメリカによって精神的に植民地化された日本」、「馬」は「戦後焼け跡から復興するためにエコノミックアニマル的生き方をしてきた・せざるをえなかった人間のプレッシャーと悲哀」が描かれているという意味でむしろ非常にわかりやすい作品だと思うのだけどどうだろうか?ただ、その表現の仕方が(特に後者は)カフカ的なために一見するとわかりにくいが、その「ぶよぶよした違和感や不安」がむしろ適切に前述のような状況や精神性を上手く表現していると言える(「抱擁家族」については以前「君が望む永遠」という作品絡みで言及したことがあるが、主要人物たちの行動が曖昧だからダメなのではなく、むしろ曖昧な現実を適切に写し取っているのである)。
これについては、冒頭でも触れたように、鬼滅の刃、ひぐらし業、シン・エヴァといった、利他や絆を描いた傑作がそれほど時を経ずして多数表れている、というシンクロニシティを想起したい。つまり、ゼロ年代に流行ったバトロワ系だけでもダメ、日常系だけでもダメ、ということが今やもう自明であるということだ。使い古された表現だが、「人は強くなくては生きていけない。優しくなければ生きていく資格がない」と言えばわかりやすいか(まあ正確には、利他が自分にとっても重要性を持つという意味で、「優しくなくても生きていけない」なんだけどね)。
<後書き>
利己と利他の両面性、利他が作為になる危険、他者の尊重、器になること、数値化の困難さについて再度言及されている。
<最後に感想>
利他というものが確定・固定の極めて困難なものという認識には全くのところ同意すると同時に、それこそが他者への説明や説得の難しさだと再認識した。「一般的になるものは、わかりやすいもの」である。特に、分断と不安で人が駆動される状況では。
もちろん、「伝わる人に伝わればいい」し、「伝わるところから伝えていけばいい」もその通りであろう。しかし、良しにつけ悪しきにつけ、我々の多くが生きているのは民主主義の社会である。そこでは、ある程度の数にならなければ、大きな流れを作ることができないのも事実。とはいえ、立ち止まっているわけにもいくまい。
数多くの小さな芽吹きが総体となって社会に影響を与えるような状況と、本書がそこに少しでも影響を与えられるように期待しつつ、この書評を終えたい。
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