『全体主義の起源』読書会に向けた覚書

2021-02-20 17:30:30 | 本関係
『財政赤字の神話:MMTと国民のための経済の誕生』に続き、次回はハンナ=アーレントの『全体主義の起源』を読む予定となっている。ここでは、本書を読むにあたっての問題意識を先に書いていきたいと思う。
 
 
なお、この覚書の下敷きになっているものは様々あるが、ひとまずは「理性への懐疑的態度」「嘲笑の淵源:極限状況、日常性、『共感』」を参照されたい。また、以下の話からは「では、そういった一般的に起こりうる『症状』を予防・治癒するにはどのようなプログラムが有効なのか」という議論が必要になってくるが、それはまた別の稿に譲りたい(ただし、予め言っておくなら、「正しい言説を伝えればdisillusionの状態になる」というのは人間理性を過信した言説であって、おそらくこの後の世界では、社会全体として見た場合ではという注釈はつくが、人間を生ー権力的にコントロールする以外に全体主義や陰謀論から遠ざける術はおそらく存在しない、というのが私の認識である)。
 
 
 
【覚書】
 
スティーブン=キングのプーチンに対するインタビュー。まんまとプーチンに丸め込まれ、実質彼のスポークスマンに成り下がった。彼は洗脳された救いがたい愚か者か?そうではないだろう。少なくとも彼のような反応は我々にも起こりうるという意味で、「反面教師的」と評すべきだ。ヒトラーの演説を聞いて、反対派があっという間に魅了された話は枚挙に暇がなく、もはやネタにされていることを思い出すとよい。
 
 
それは聴衆が特別に愚かでもなければ、ヒトラーだけに起こりうる現象でもない。「帰ってきたヒトラー」や「es」、「The Wave」で描かれている教訓と同じで、我々も「状況次第ではそうなりうる」のである。何日も眠らせなかったり爆音を聞かせ続けることで精神的・肉体的に追い詰める拷問があるが、そこまで極端でなくても、肉体疲労やストレスなどで精神・肉体というレセプターが大なり小なり健全に機能しない状態であれば、病気にかかりやすくなるのと同様におかしな言説にもコミットしてしまう蓋然性は飛躍的に高まる(理屈さえわかっていれば回避できる、というのは頭でっかちな人間が陥りがちな幻想にすぎない)。
 
 
それは例えて言うなら、平常の気候では十全な思考力・判断力が発揮できるがゆえに知識と経験があればかなりの程度正しい対処ができるのに対し、例えば極寒の状況ではたとい知識や経験が備わっていたとしても、「狂っていると認識すらせずに狂った行動ができる」のもまた人間なのである(八甲田山の大量遭難事件は、そもそも部隊の多くに知識や経験がなかった状況の中で、さらに極限状況で思考力も判断力も奪われ正しい決定をできなかったことが原因の一つである)。ならば、その構造を知り、防遏のため策を打つ必要がある。それがなければ、病気をただ悪魔のように見ないようにしたり、逆に自分には降りかからないと侮る愚者に堕するだけだ。
 
 
では今日の状況は如何?と考えてみるに、急速な社会の流動化と分断が進み、自分の足元が不安定になる中で、周囲は複雑性・多様性を増しあたかも濃霧の中にいるようである。かかる状態が不安を惹起し、それが情報過多と共犯関係を取り結ぶと、人は「見たいモノしか見ない」という抜きがたい性質も相まって、容易におかしな言説に吊り上げられてしまう、というのがアメリカやイギリスでも観察される(もちろん日本や韓国、インドなど様々な国にも同じことが言えるのだが、これまでのイメージ的には「まとも」で比較的情報がオープンな国の例を出すと状況の変化がより客観的に飲み込みやすい、ということだ)。かかる状況がコロナ禍においてさらに加速されているわけで、陰謀論が猖獗を極めるのもむべなるかな、と言えるだろう(ただし正確に言えば、今はまだそれらが認識・指摘される状況はあるわけで、どちらかと言えばおかしな言説が次々と出てきて分断がますます可視化されている、と表現するのが適切か)。
 
 
ここで、「エルサレムのアイヒマン」にてアーレントがそれを一般的現象として分析、昇華したことを思い出したい(念のために言っておくと、アーレントは「アイヒマンと同じ状況に置かれた人間は誰もが皆彼と同じような行動を取る」などという暴論は言っていない)。
 
 
愚か者たちは、「異形」を見た時に己と無関連化したがるものだ。ナチスやそのシンパについても同じである。もちろん、「全てが陸続きである」というのもまた誇大妄想の戯言ではあるが、しかし精密に現象を観察すれば、「人がいかに謝った判断をするか」にまつわる構造は比較的容易に抽出することができ、それが一般性を持っていることに気付くとともに、その対処法というものも初めて考えうる(注:その実践が容易だとは言ってない)。
 
 
プーチンに一度話を戻そう。スティーブン=キングがつまるところ見誤ったのは、「発言と実態の乖離」である。つまり彼が見るべきは、プーチンが「何を言っているか」ではなく、「何を行っているか(行ってきたか)」だったのである(ベルリン・オリンピックの際に行われた隠蔽工作によって、ドイツにやってきた人間たちはそこで何が行われているかを観察できず、結果としてナチス・ドイツは別に悪くないではないかと認識してしまったことを想起したい)。そしてもう一つは、多元文化主義と呼ばれる価値相対主義が実質のところ全肯定という名の思考停止を招来したことも見逃すことができない、というのはリチャード=ローティのリベラルアイロニズムを主要な思考の軸に据えている人間として付言しておきたい。
 
 
これに関して思い出されるのが、同じロシアの地に根を下ろした共産主義の理念と、共産主義国の実態との乖離である。ソ連、中国、カンボジアで見られた一党独裁と権力集中、そして腐敗。多くの知識人が、共産主義国の閉鎖性や、資本主義や帝国主義への反発もあるにせよ、その陥穽を見抜けなかったことも忘れてはならない(あるいはアメリカの人間ならば、「マニフェストディスティニー」なる言葉の元に自国の人間たちがどのようなことを行ってきたのか、思い返してみるとよい)。
 
 
「結果の平等」というものが人にどのような行動をもたらすかを見通せなかったことも含め、共産主義が「神なきキリスト教」とも評される由縁。共産主義が、旧体制を否定しながら結局新しい権威主義体制を作り上げてしまった。これについて興味深いのは、それがギリシア正教の広まった領域とかなり重なることだ。というのもその地域は、「皇帝教皇主義」という形で政治権力と宗教的権威が一体化していた地域。そして皇帝の地位に国家首席(あるいは書記長)が収まり、共産主義という「神なきキリスト教」をもって人々を強権的に支配したわけである。もちろん、共産主義国の分布はソ連からの近さという地理的な理由はあるにしても、そこに共産主義が値を下ろすことができた基盤の理解・仮説として興味深い。
 
 
さてこう考えると、日本という国において北一輝という男が天皇付きの社会主義革命を目指したのは、日本の社会構造からすれば「慧眼」と言えよう(まあ北の場合は共産主義ではなく、「クーデターで民族社会主義を打ち立てる」という言い方が正確だろうが)。というのも、明治以来のシステムは天皇という存在を侵犯しないよう意図的に権力が分散され、その結果セクショナリズムは必然的に強化された(戦時中の無責任体制はその帰結)。かかる状況で超法規的に組織をブリッジしたのが元老たちだったが、西園寺公望が表舞台から退くと法的根拠もないゆえに跡を継げる者もおらず、あとは何とかバランスを調整する綱渡りしかなくなった(性質上、憲法を変えることも困難だった)。
 
 
そこでいわゆり「憲政の常道」(大正デモクラシー)が代替となることを期待されたわけだが、その結果は政党同士の足の引っ張り合いとできもしない空手形の濫発で、それが現代同様に政党政治への失望や無関心を生んだであった。そして関東大震災、昭和恐慌と社会不安が高まっていたところに、それを「打破」した満州事変。それは軍部への期待とともに、五一五事件における多数の助命嘆願を惹起した。
 
 
こういった状況を思い返すに、暗中模索で不安な時代に北が前述のような構想を発表したのは理解しやすい。要は強権による統合と統制に期待していたわけだ。そのような心情は、一般の人々で言うなら軍部への期待という形で顕在化しており、それが先に述べた(分断を収められない政治家を攻撃する)軍部への同情的スタンスを形成していたわけである(もちろん反対意見もあったが、それらは拡大解釈可能な治安維持法とその恣意的適用などによって萎縮を余儀なくされた→アーレントの指摘したナチスと同じ構造を形成。こういったものが「空気」を形成していったわけだが、この日本型ファシズムのあり方については、稿を改めて考えたい)。
 
 
またこれを踏まえると、昭和恐慌と農村の疲弊を見た一部軍人が農本主義に基づき蹶起したのは構造的必然と言えるのである(だから荒木などがお墨付きを与えたのも、こういった情勢から理解できる)。
 
 
こういった歴史を見るにつけ、今日の分断はもちろん、陰謀論の跳梁跋扈は極めて必然的な現象であり、ゆえにこそアーレントの『全体主義の起源』は、フロムの『自由からの逃走』やキャス=サンスティーンの『熟義が壊れるとき』・『リパブリック』、ジョナサン=ハイトの『社会はなぜ右と左にわかれるのか』などとともに、改めて読み返されなければならない著作の一つと言えるのではないだろうか。

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