チェス盤をひっくり返してみる:日清戦争・日露戦争

2021-05-09 12:39:39 | 歴史系

 

 

人はつい自分の状況や価値基準を自明のものとして相手の評価に投影してしまいがちであり、それはあたかも窓越しに覗いた他人の家の有様を、そのまま相手の全体像と考えてしまうようなものだ。ゆえにこそ、「相手の立場に立ってものを考える」重要性はよく説かれるわけだが、実際そういう思考実験に触れてみないことには実感するのは難しいだろう。

 

というわけで、今回は「日本とは逆側から見た日清戦争・日露戦争」の動画を紹介したい。ここから見える相手なりの価値基準・合理的判断・ミスとその理由は、物事が複雑な要因から成り立っていて一筋縄ではいかないとの理解に繋がるとともに、世界を単純化するがゆえに受け入れられやすい陰謀論を相対化することにも寄与するだろう(そしてそれは「他山の石」にもなる)。

 

【清側から見た日清戦争】

古いシステムに拘る勢力(清)と、新しいシステムを採用して力をつけ版図拡大を目指す勢力(日本)という対比は興味深い。というのも、今の中国の動き方や周辺各国の反応が連想できるからで、中国としてはまさに「お前らが今までやってきたことをやってるだけだ」て感じなのだろう(だから今の中国の動きを是認するという話ではもちろんない。あくまで行動原理を理解する手助けになる、ということだ)。

 

日本との「近代化」へのスタンスの違いは、なぜ日本はアジアの中で唯一近代化に短期間で成功した国となったかを別の視点から理解できることにもつながる。それは技術のみを取り入れる中体西用と、憲法制定や議会設置なども伴う明治維新の質的な違いであり、またそれを反省した(明治維新をモデルとする)変法自強運動は守旧派のクーデターにより失敗に終わってしまった。そしてもはや自浄能力のなくなった王朝は革命で倒される、というわけである(まあ辛亥革命は「革命」って言うより、漢民族の国を建てようとした勢力が新軍と手を組んだ「軍事クーデター」って側面が強いんだけどね。ちなみにこういう流れはオスマン帝国にも見られ、「タンジマート→ミドハト憲法→青年トルコ革命」、つまり表面的近代化→それが限界を迎えて立憲君主制を目指すが弾圧で失敗→革命という展開が類似している点も付言しておきたい)。

 

こうなってくると、日本では既得権益側、つまり武士勢力の解体が比較的スムーズにいったことがやはり重要だったと痛感させられる(廃藩置県とかよくあれで反乱が起きなかったね、というレベルだし)。まあ天皇という別の次元を戴くことで正当性を担保したとか、そもそも改革の担い手が(下級ではあるが)武士だったとか、様々な要因はあるのだろうけど、天皇を神聖不可侵の存在として国民には押し立てながら(顕教)、自分たちはそれをコントロールする(密教)という体制はまことによく考えられたシステムだったと言えよう(どの組織も突出できないように権力も分散してたしね)。

 

まあもっとも、そのシステムを支えていた超法規的存在たる元老がどんどん死んでいき、さらに政党政治への不信と軍部の台頭が重なった時に、もはや日本政府というキメラをコントロールできる存在はいなくなり、ただ空気に流されて破滅へと向かって行ったということは記憶しておくべきと思うが。

 

【ロシア側から見た日露戦争】

日露戦争を考える際、どうしても日本にとってのロシアの南下の脅威であるとか、あるいはその勝利がアジア各国に大きな影響を与えたということに意識が向けられがちである。

 

しかしここでは、極東や中国北方の利権を巡る列強の思惑とその錯綜、ロマノフ朝内での方針の分裂、事態への甘い観測などによってどんどん緊張が高まっていく様がわかっておもしろい。日本に関しては言えば、こうして戦争に突入して敗北したという点では先の大戦を思い浮かべるところであり、北進論と南進論の対立、見通しの甘い日中戦争、アメリカの反応の読み違いも含めた数々の外交ミスを連想することができる(英独海軍協定や独ソ不可侵条約など、様々な思惑が交錯しつつナチスの台頭を許したヨーロッパの首脳たちにも同じことが言えるが、とはいえそれを「情勢は複雑怪奇」などと言って思考停止してる場合じゃないのである)。

 

その他で印象的なのはバルチック艦隊の悲哀だろうか。日本の側から見ればこそ日本海海戦の大勝利が印象深いが、そこに到る背景というのはそこまで知られていないように思う。バルチック艦隊としては「無能な味方は有能な敵より恐ろしい」という心持ちだっただろう(これは先の大戦の日本軍でも言えることだが)。なお、日本陸軍に対するクロパトキンの慎重な、あるいは慎重すぎる戦い方は、開戦前の甘すぎる見通しと連動するかもしてか、「あつものに懲りて鱠を吹く」状態で見えない恐怖に怯えた結果なのかもしれない(まあ戦術面での判断ミスは、クラウゼヴィッツ先生も「戦場の霧」と言ってるし多少はね、という話だが、それにしても消極的な動きが多すぎるように思える。まあそのお陰で勝てた部分もあるのだろうが)。

 

【おまけ】

なお、日本は関係ないが、最後にイギリスから見たアメリカ独立戦争の動画を紹介して終わりにしたい。世界史の教科書ではアメリカ側からのロジックばかりが語られがちだが、イギリス側がどういう判断で動いていたのかを知るのは興味深いだろう。またそれが、インドに軸を置いた植民地経営の方針を固めることへとつながり、大英帝国はむしろここから形成されていくことは(アンボイナ事件での東南アジア一次撤退を含め)歴史の展開が一筋縄ではいかないことを認識することにつながるのではないだろうか(ちなみに、ケープ植民地やキプロス島、ペナンの獲得など、イギリスの植民地は本国とインド・中国を繋ぐルートを明確に意識していることはよく知られている話である。まあここにはナポレオンのエジプト遠征なども関わってくるが、今回は割愛する)

 


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