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『鬼滅の刃』読書レビュー:利他と利己という図式、そして「無限列車編」の結末が示すもの

2021-03-04 11:24:24 | 本関係

『鬼滅の刃』を読み始めた・・・という記事を書いたのが12/21でもう2か月以上が経過していることに愕然としているが、つい先日ようやく漫画の8巻まで読み終えた(これは風雨が岩石を浸食していくように、長い時間をかけて物語を咀嚼したいと考えていたからだ。ちなみにアニメや映画は、漫画を読み終えてから見るつもりなため全く触れていない)。5巻まで読んだ時点で非常に高く評価してはいたが、ここにきて本作は私の中で座右の書と呼んでもよい地位をすでに確立したように思えるので、そのことについて少し書きたいと思う。

 

そもそも私は人間の情念について書いた作品が好きだ。「深く愛している」とさえ言っていい。しかし同時に、「情念があれば何事も乗り越えられる」かのような(あるいは情念があるのだから認めるべきだ、とでも言いたそうな)作品を同じくらい軽蔑してもいる(そういった「精神主義」がどのような悲劇を招来してきたのかは、先の大戦を例に挙げれば十分であろう。私が物語における安易な救いを度々批判してきたのも、これに関係する)。言い換えると、世界の偶然性や不条理を深く理解しながら、そのままならなさの直中でなお情念を失わぬその姿にこそ、私は強く感銘を受けるのである。

 

その意味で、煉獄杏寿郎が鬼と交わす言葉は、私の心に深く突き刺さるものであった。前回の記事では、鬼には鬼の背景があることをきちんと描くそのオフビート感(=勧善懲悪では全くない)を強調したが、この煉獄の発言をもって、「鬼=自己承認欲求や利己性の象徴、鬼殺隊=利他性の象徴」であると作者が明確に意識して描いていることはほぼ確実となった。しかもそれが単純な二項対立図式、つまり「利己性=単純明快な悪」かと言えばそうではない。

 

話は大きくなるが、現代社会において、もはや信じられるべき共同体も衰微し、社会システムも不安定さを露呈し始めている中、人がリスクヘッジと保身に汲々としながら「自己責任」を喧しく訴え、連帯するどころか席に座れなかった人々を沼に沈める行為を肯定するような言説を繰り返していることを思い出してみるとよい(なお、このような状況が不安を生み、それが大いなるものへの回帰を生み出した、というのがナチス・ドイツ成立の背景であった、このことは、『全体主義の起源』『自由からの逃走』などに絡めながら縷々述べてきたとおりだ)。

 

そこからするなら、承認欲求の呪いに突き動かされ、他を圧倒する力を得ながら、同時に首魁(=無惨)からいつ切り捨てられるかに怯え続ける彼らの姿を、一体誰が笑うことなどできようか(どこまでネタにした人間が意識したかは知らないが、無惨が下弦の鬼たちを招集した集まりを「パワハラ会議」と表現したのは、その意味で完全に正しい。というのも、下弦の鬼とは常に切り捨てられ得る=交換可能な労働者の象徴と言っていいのだから)?

 

あまり単純な図式は使いたくないけれども、「個」として生きるしかなく、強者であっても(社会的・生物的)「死」と隣り合わせの中で生きる姿は、(主に先進国の)現代人の姿そのものに見えるのは私だけではないだろう。

 

さて、このような我々の多くにとって身につまされる鬼という存在は、煉獄に「お前ならもっと強くなれるから鬼になれ」と勧誘をする(まあこの時の発言者は上弦なのだが、逆に言えば下弦も上弦も思考様式は同じであることを指していると言える)。そしてそれを、煉獄は興味がないとにべもなく突っぱねるのである。また、彼がそれを拒絶する理由が、彼の行動原理を追って行けば母の言葉、すなわち「利他」であることも容易に見て取れるだろう(今回はあまり深堀しないが、人間の有限性を認めて受け入れる煉獄の発言は、人工知能を神の代わりのように捉えノイズだらけの人間よりそちらを重視しかねない思考様式とは全く逆のものである、という点も指摘しておきたい)。

 

この時点で鬼滅の刃という作品が深いテーマ性を持った(あるいは意図せず持ってしまった)傑作であると評価するに私はやぶさかではないのだが、さらにこの後の展開がストーリーテリングとしても一級である(=極めて高いレベルでテーマ性とエンターテイメント性が共存している)ことを証明している。というのも、これまでの竈門炭治郎たちの描かれ方からすれば、煉獄の発言はそれ自体で説得力があるものだし、もっと言えば煉獄杏寿郎という人間の覚悟と器の大きさを感じさせ一瞬で彼の支持者たらしめるような場面であろう。

 

しかしそれにもかかわらず、煉獄は敗北する。それも回復不可能な形で、だ。このことは、様々なことを読者に暗示する。つまり、最強の柱で非常に魅力的な人間であっても(つまり死んでほしくないと強く思うような人間であっても)、突如死にうるということ。これは言うまでもなく、鬼滅隊をはじめ他の人間でも類似のことが起こりうるという強い緊張感を登場人物や読者に植え付ける。そしてもう一つは、「正しいこと」を語っている=正義=勝つなどという牧歌的な話では全くないということだ(これも実は胡蝶しのぶの姉のエピソードで暗示されており、突如思い付きで出てきたものでないことは明白だ。

 

以上のことから、「無限列車編」とそこでの煉獄と鬼のやり取り、そして彼の最期は、『鬼滅の刃』を比類なき傑作の領域にまで押し上げたと評価していいだろう(「アニメは凄いが漫画は大したことはない」などと発言している人は、本当に漫画をちゃんと読んだのか疑問に思えてくるほどだ)。

 

というわけで、冒頭でも述べたように鬼滅の刃は私の中で座右の書となったのであるが、そんな本作が果たして今後どのような展開を見せていくのか、あとはじっくり家で読み進めていきたい次第である。


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