ポプテピピック:「新種の文化人」はこう言った

2018-01-10 12:20:07 | ポプテピピック

 

本来、声優とはそのキャラクターのイメージを刻印するものであった。そのことは、長年声優を務めた方が降板した時の「誰が受け継ぐのか」という不安と期待の混じったざわつきにもよく表れている。このような「声=その人物」という認識は何もアニメーションに限った話ではなく、声変わりが「大人」への変化の一環とみなされるのは端的な例と言えるだろう。

 

これが成り立たせるのは、エーリッヒ=フロムが宗教改革以降に成立したと喝破した交換不可能な「近代的自我」である。そしてまた、それに固執する人間をある意味でわかりやすく表現したのが、「エヴァンゲリオン」の劇場版で惣流=アスカ=ラングレーに関し、様々な声優が自らの発言をなぞるのを彼女が繰り返し拒絶するシーンであった(その演出方法が巧みであるかどうか、という評価は別にして)。

 

以上のことを踏まえると、今回発表された「ポプテピピック」というアニメは非常に興味深い。なぜなら、イメージを固めるべき第一話について、全く同じ内容を2回放送するばかりか、違う声優を起用するという構成になっているからだ。しかも、一度目はいかめしい男性声優、二度目は(確かに声は合っていると感じたが)非常に有名かつ意外な声優の起用という形で様々なタイプのズレ=笑いを提供するという仕組みとなっている。原作では同じシーンが違うセリフによってセルフパロディ化される(時にそれは原典の説明でもある)というパターンを何度も採用しているが、これを見事にアニメーションという方式に落とし込んだという意味で発想面を評価すべきであるように思うが、一方でもはや「声=その人物」という思考様式すら一つの虚構にすぎないとあからさまに示した点が非常に興味深い(ただし、このような演出がズレ=笑いとして成立する時点で、我々の「声=その人物」というステレオタイプは今なお強固に生き残っているという点に注意を喚起したい)。

 

このような変化を見るに、改めて次のように言う事ができよう。すなわち、「近代的自我という大きな物語が崩壊し、小さな物語の乱立、すなわち無数の『ネタ』による戯れだけが残った」と(「エヴァンゲリオン」におけるアスカの怯えと拒絶は、1990年代半ばという、不況と冷戦の終わりで明確な将来像を思い描けない個人および社会の過渡期的不安、これはモダンからポストモダンへの過渡期でもあるのだが、を象徴していた。しかし、そのような不確定さはもはや今日自明のこととなっており、それが「ポプテピピック」なのである)。これは「キャラ的人間関係」であったり、人間を確定記述の束に還元する思考とパラレルなものだが、ともあれそれを「笑い」という形で掬い取っているこのアニメーションが、次にどのような表現を繰り出していくのかこれからも注目していきたい。

 

 

【補足】 

ボブネミミッミの「作画崩壊」もまた、安部公房が「他人の顔」で描こうとした固執と絡めて興味深いが、それはまた別の機会に取り上げることとしたい。


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2 コメント

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Unknown (pokosuke)
2018-01-10 23:48:26
しかも、事前に発表されたCVがまったく出てこず、先行試写会の内容とも違う部分があったりで、もうDVD/Blu-rayにはまったく違う作品が入ってても不思議じゃないよねw
あと凄いのはこのネタの瞬発力のためだけに(?)地上波・BS・配信全局同時放送開始というネタバレにも配慮した構成がつよい。
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いっぱいちゅき (ムッカー)
2018-01-12 01:58:42
左様。カオスなように見えて、実はちゃんと計算されておる。意味不明なオムニバスというのは見せかけで、ちゃんと全て「出会い」のシーンだし。元ネタが「レ〇ズナー」であれ、「ク〇ノ・トリガー」であれ、「ト〇ロ」であれね。

そのあたりがよく見るとクソむかつく・・・
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