ポプテピピックはなぜ、歴史に残る「クソアニメ」なのか?

2021-09-21 11:11:11 | ポプテピピック

先日「ぽ」の歌でポプテに言及し、なんか近々再放送(二期を要求したがお茶を濁うわなにするやめ・・・)されるらしいので、ちょっとポプテピピックのアニメ版について書きたいと思う。

 

意外に思われるかもしれないが、私はこの作品が間違いなく歴史に残る「クソアニメ」(legendary kuso anime lol)だと確信している。

 

そもそも、原作にしてから様々な時代やジャンルのネタをごった煮にした、アーカイブを元に戯れる(というか投げっぱなしジャーマン)タイプの作品であったが、それはアニメ版に到ってより加速した(原作から音楽、映画、ゲーム、ローカルCMなど、非常に多種多様なネタが放り込まれていたことは、ご存知の方も少なくないだろう)。

 

というのも、予算的に厳しいという理由で始まったらしい「AパートとBパートで基本的に同じ構成とし、声優だけ変える」という亜空間な所業が、結果としてカップリング的発想(BL/マリみて=百合てぇてぇ文化)やアーカイブとしての交換可能性をパフォーマティブに表現することになったからだ。つまりアニメ版ポプテは、千変万化の声優により、二次創作的な視点を現出させるという形で、我々の受容態度(受容環境)すら写し出してしまったのである(しかも、どこまで計算していたかはさておき、それぞれの声優がフリーザやケンシロウといったその存在が背負ってきた記号を意識した演技を行っていたことも、合わせて想起したい)。

 

このように言うと、「受容態度の分析なら、どのような本が売れているか、どのようなキャラクターに人気が集まっているかを定量的に見ていくことの方が指標として客観的であり信用できる」という向きもあるかもしれない。そのような視点を私は決して否定するつもりはないが、仮にそういうアプローチをした場合、(客観的であるがゆえに)受容態度における「戯れ」という要素が決定的に欠落してしまうという難点があるのだ(「言ってることはわかるんだけど、なんかちげーんだよなあ」て感じかw)。

 

というわけで、このような世界をあまり知らない人に対し、それがどういう世界であり、それがどう受容されているのかを説明するのであれば、アニメ世界の定量的な分析を提示するのではなく、「ポプテピピック」を見せることこそ最適解だと言えるのである。

 

というわけで、ポプテピピックに栄光あれー!!!(゚∀゚)アヒャ


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