前回は母親という視点で「鷹野と梨花ママ、そしてオヤシロさま」という記事を書いたが、具体的な検証が不足しているためいささか牽強付会な内容になった感がある。今回はあまり一般化をせず、家族に関連した(もしくはすると思われる)覚書を載せていくことにしたい。
◎北条家の扱い 親⇒子 子⇒親
例えば「犯罪者の子は犯罪者」子供の犯罪は「親の責任」
◎入江と沙都子
「何かのきっかけで、彼女の保護者であろうという使命感にでも目覚めたのかもしれない」
↓
父親に対してできなかった事を、沙都子に対してやろうとしている?
◎入江のやや一方的にすぎるように思える沙都子の弁護(突き落しの件)
入江の背景・思考様式を考慮すべき。ここで提示される価値観がそのまま作品が理想として提示するものではないと思われる。作者自身の「症候群」についての距離感を想起。
◎結局梨花ママは先代感染者として解剖されたのか?
鷹野は「先代の女王感染者を解剖できれば研究が進むだろう」みたいなことを言っているが、梨花ママへの苛立ちの描写の後にこのような発言があるところからは、この行為が殺すだけでは飽き足らない憎悪に基づいていると解釈すべきであるようにも思える(前回の記事との繋がり)。また、このような行為(誤解を恐れずに言うなら「過剰な残虐さ」)が初回プレイ時と鷹野の印象が変わる主要因となっている。「祭囃し編覚書:環境要因と自由意思など」の「鷹野の印象」なども参照。
◎レナはなぜ母親を殺しに行かないのか?
・感覚的にはわかるが、理論的には…あるいは母に罪が無いことを直感的に理解?
↓
いくら憎んでいると言っても、それがそのまま殺害に直結するというのは短絡的だが、母親への憎悪から自分に責任を押し付ける流れは今ひとつ理解できない。もし本当に憎いのならば、「何があってもとにかく母親が悪い」ということになるのではないだろうか?とはいえ、「実はそれぞれに事情があるだけで母親に罪は無い」という解釈をレナがしていたと考えるのは、作中を見る限り説得力がない。とするなら、母親への憎悪は愛情の裏返しなのか?親に虐待された子供が、虐待を自分のせいであると見なし、むしろ親を庇ったりする、などという話をちらっと本で読んだようにも思うがはてさて…
・自分の能力を超えた悲劇にもかかわらず、自分にも部分的に責任があると考える。⇒「犯人捜し」の心理と関連。
同一視はできないが、交通事故、自殺、大災害での死に対する罪悪感、いわゆるサバイバーズ・ギルトもこういう人間心理と深く関係している。この問題は、美代子の不条理への怒り、あるいは神の罰の根底にある合理性などにも繋げることが可能である。
一般的な話はその辺にしてレナのモノローグを具体例として挙げる。
***********************************************************
私が私の身を許すには、…私以外の「せい」が必要だったのだ。私以外の誰かのせい。そんなものは存在しない。どう考えようとも、どう曲解しようとも、私の体を穢すことが唯一の怒りのはけ口となるのだ。
***********************************************************
ここから、(レナ、あるいは母の代わりに)罪を引き受ける存在としてのオヤシロさまの登場と謝罪が始まるわけだが、最終的には(症候群という形による)鷹野の罪の許しまで繋がっていく。
◎泣きつく沙都子ウザい…悟史の衝動わかる
そのように感じる最大の原因は、叔母の言動が全く描かれていないことにあると思われる。要するに見せ方の問題なわけだが、「たとえ人工授精でも…」や「子供は天使じゃない」との関連で非常に興味深い反応である。
◎圭一の罪について考える伊知郎
彼は子供のSOSを読み取れなかった責任について述べている。最初の北条家の条項との関係は?あるいは「親は選べない」からか(⇒環境要因)?秋葉原通り魔殺人事件の時も書いたが、問題の所在をとにかく環境要因に求めようとする行為は、結局「社会が悪い」になって「でどうするの?」になって、「さあね?」で終わるだけであり、いたずらに不安感・無力感を高めることにしかならないだろう(もちろん、「身近な人の配慮が非常に大事なのだ」という意見に異論はないが)。
さて、家族関係については以上である。次は「暗殺の動機とサイコロの1」に関連する項目などを書いてくことにしよう。
◎北条家の扱い 親⇒子 子⇒親
例えば「犯罪者の子は犯罪者」子供の犯罪は「親の責任」
◎入江と沙都子
「何かのきっかけで、彼女の保護者であろうという使命感にでも目覚めたのかもしれない」
↓
父親に対してできなかった事を、沙都子に対してやろうとしている?
◎入江のやや一方的にすぎるように思える沙都子の弁護(突き落しの件)
入江の背景・思考様式を考慮すべき。ここで提示される価値観がそのまま作品が理想として提示するものではないと思われる。作者自身の「症候群」についての距離感を想起。
◎結局梨花ママは先代感染者として解剖されたのか?
鷹野は「先代の女王感染者を解剖できれば研究が進むだろう」みたいなことを言っているが、梨花ママへの苛立ちの描写の後にこのような発言があるところからは、この行為が殺すだけでは飽き足らない憎悪に基づいていると解釈すべきであるようにも思える(前回の記事との繋がり)。また、このような行為(誤解を恐れずに言うなら「過剰な残虐さ」)が初回プレイ時と鷹野の印象が変わる主要因となっている。「祭囃し編覚書:環境要因と自由意思など」の「鷹野の印象」なども参照。
◎レナはなぜ母親を殺しに行かないのか?
・感覚的にはわかるが、理論的には…あるいは母に罪が無いことを直感的に理解?
↓
いくら憎んでいると言っても、それがそのまま殺害に直結するというのは短絡的だが、母親への憎悪から自分に責任を押し付ける流れは今ひとつ理解できない。もし本当に憎いのならば、「何があってもとにかく母親が悪い」ということになるのではないだろうか?とはいえ、「実はそれぞれに事情があるだけで母親に罪は無い」という解釈をレナがしていたと考えるのは、作中を見る限り説得力がない。とするなら、母親への憎悪は愛情の裏返しなのか?親に虐待された子供が、虐待を自分のせいであると見なし、むしろ親を庇ったりする、などという話をちらっと本で読んだようにも思うがはてさて…
・自分の能力を超えた悲劇にもかかわらず、自分にも部分的に責任があると考える。⇒「犯人捜し」の心理と関連。
同一視はできないが、交通事故、自殺、大災害での死に対する罪悪感、いわゆるサバイバーズ・ギルトもこういう人間心理と深く関係している。この問題は、美代子の不条理への怒り、あるいは神の罰の根底にある合理性などにも繋げることが可能である。
一般的な話はその辺にしてレナのモノローグを具体例として挙げる。
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私が私の身を許すには、…私以外の「せい」が必要だったのだ。私以外の誰かのせい。そんなものは存在しない。どう考えようとも、どう曲解しようとも、私の体を穢すことが唯一の怒りのはけ口となるのだ。
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ここから、(レナ、あるいは母の代わりに)罪を引き受ける存在としてのオヤシロさまの登場と謝罪が始まるわけだが、最終的には(症候群という形による)鷹野の罪の許しまで繋がっていく。
◎泣きつく沙都子ウザい…悟史の衝動わかる
そのように感じる最大の原因は、叔母の言動が全く描かれていないことにあると思われる。要するに見せ方の問題なわけだが、「たとえ人工授精でも…」や「子供は天使じゃない」との関連で非常に興味深い反応である。
◎圭一の罪について考える伊知郎
彼は子供のSOSを読み取れなかった責任について述べている。最初の北条家の条項との関係は?あるいは「親は選べない」からか(⇒環境要因)?秋葉原通り魔殺人事件の時も書いたが、問題の所在をとにかく環境要因に求めようとする行為は、結局「社会が悪い」になって「でどうするの?」になって、「さあね?」で終わるだけであり、いたずらに不安感・無力感を高めることにしかならないだろう(もちろん、「身近な人の配慮が非常に大事なのだ」という意見に異論はないが)。
さて、家族関係については以上である。次は「暗殺の動機とサイコロの1」に関連する項目などを書いてくことにしよう。
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