祭囃し編と母親~鷹野と梨花ママ、そしてオヤシロさま~

2008-12-11 02:20:12 | ひぐらし
前回は祭囃し編の覚書という形で梨花ママの描き方について触れたが、ここでは鷹野と梨花ママの絡み、そして母親そのものの描き方について述べていきたい。なお、念のため断っておくが、特に断りがなければ以下の内容は演出意図の分析であって私の人生観の提示ではない。その点お間違えのないように。


<鷹野と梨花ママ>
鷹野自身の言によれば、彼女と梨花ママの相性は悪いらしい。まあキイキイ喚く梨花ママを、超然とした余裕ある態度を取ることの多い鷹野が、自制心の欠落した人物として嫌うのは感覚的にわかりそうなところではある。


ここで深読みの危険を承知の上で言うと、この不和には鷹野の「保護者」の特徴が関係していると考えられる、「保護者」とは鷹野自身が発言したもので、厳密には父親、高野、小泉の三人だけを指すが、おそらくこれは「父親⇒高野⇒小泉⇒野村⇒富竹」という部分(つまり物語の最初から最後)にまで拡大することが可能だと思われる。このように見たとき、「保護者」の中で野村だけが(明確に)鷹野を利用しようとする存在、要は「悪役」として描かれるとともに、唯一の女性であることに気付くはずだ(※)。そしてこの図式を念頭に置くと、梨花ママとの不和を単に性格の不一致が原因だと考えるのは不適切であると思えてくる。


覚書を記事にする際は省いたのだが、私は冒頭の列車事故のシーンについて「△別れの時に話すのが父親であるということ⇒父を求める気持ち?」というメモを書いている。もしここに書かれた推測が正しいのであれば、自らの臓器を捧げてでも高野を生かしたいという思いなども含め、鷹野は「父親」というものを強く希求するがゆえに強いエレクトラ・コンプレックス(娘が父親を求める一方で母親に敵対心を抱く)を持ち、その結果梨花ママのような「母親」と本質的に合わない、という人物像(あるいは描き方)が想定されうる。要するに、鷹野と梨花ママの不和はかなり根深いところに原因があると言えるだろう。


これは帰納的に考えた場合の話であり、もし鷹野と女性の相性の悪さ(まあこれはちょっと極端な表現だが)から演繹的に見るなら、野村は女であるがゆえに保護者とすべきではない存在であり、それが本来あるべき富竹(父親?)のところに戻ったためにハッピーエンドとなる…と表現することもできるだろう。


<鷹野と羽入>
ちなみに母親と言えば羽入もそうだが(桜花の母親)、そうすると鷹野と羽入の敵対というのは物語の展開に留まらない必然性が用意されているということであり、さらには鷹野が症候群として罪を免れること=羽入が罪を引き受けたことは、母親の勝利と見なすことが可能であろう。


なぜ罪を引き受けるのが母親の勝利に繋がるのだろうか?綿流しの精神性を語る場面では「人を許せる存在は人以上の存在だけだ」などと言われており、罪を引き受ける=母親(の役目)という図式を作中に見出すのはいささか乱暴であると思われるかもしれないが、そもそもそのような存在が母親として設定されていること自体、「罪を引き受ける存在=神=母親」という意識が(どこまで自覚的かはともかくとして)働いているようと言えないだろうか。


これについては、レナが「オヤシロさま」に出会った状況を思い出してみるのも参考になるだろう。彼女は母親の喪失に責任を感じて自らの身体を傷つけるわけだが、そこに羽入が現れて罪を許すというのは、彼女が母親の代わりとなっていることを象徴しているように思えるのだがどうだろうか。もしこの見立てが正しければ、ここからも罪を引き受ける、あるいは罪を許す存在=母親という図式が成り立つわけである。


<最後に>
独断と偏見を承知で言えば、ひぐらしには母性豊かな女性というものが登場していないような印象を受ける。もしこの表現が感覚的にすぎるというなら、「母性が抑圧されている」と言い換えてもいい。もちろんこれは「そもそも母性とは何ぞや」という議論になるため非常に厄介だが、それでもファリックマザー的な園崎茜のことや今回の羽入の性質(罪の許しと母親)からすれば、一度はきちんと考えなければならない問題だろう。というのもそれは、母親との関係性に注目した賽殺し編の書き方について考えるきっかけになるだろうから。

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