沙耶の唄:虚淵玄の期待とプレイヤーの反応の齟齬

2011-05-01 00:12:29 | 沙耶の唄

さて、ゲームレビュー復活第二弾ということだが、あえて時系列を無視して沙耶の唄に関する割と最近の記事を掲載しておきたい。ここから始める理由は様々あるが、特に大きいのは

(1)キャラの現前性(伊藤剛)の意識、あるいはデータベース消費(東浩紀)という表現の問題点といった他の様々な作品に繋がる事項を含んでいること

(2)境界線の曖昧さ→「日本的想像力の未来」、「沙耶の唄に見る排除、包摂、没入

(3)近いうちに「さよならを教えて」と比較した記事を書きたいと思っていること(「となりのお姉さん」というマイナーなゲームを同時に取り上げるかも)

の三つ。あとはおいおいそれぞれの記事の中でおいおい説明していくことになるだろう。なお、基本的に原文のまま掲載しているが、ゲーム関係の過去ログは死んでいるため極めて意味不明瞭ないしハイコンテクストになっている部分がある。いずれメンテナンスをかけるかもしれないが、今はご了承いただきたい。



<原文>
前回の「沙耶のビジュアルが持つ意味と効果」において、沙耶が少女のビジュアルをしているのはプレイヤーの保護欲をかき立てることによって沙耶の側に引き込むのが狙いだ、という推論を立てた。しかし沙耶の唄の設定資料集に収録されている虚淵玄(以下「作者」で統一)のインタビューを見る限り、作者にそのような意図はほとんどなかったと考えるのが妥当であろう。というのも、作者は沙耶の唄が「恋愛もの」として評価されることへの違和を度々表明しているからである。もし作者が沙耶の側に引き込む(同情、共感させる)ために少女のビジュアルを利用しているのであれば、このような評価に「してやったり」と得意になることはあっても、困惑することはないはずである。


今回の記事の目的は、そのようにして作者の意図が誤読されてしまった要因を探ることにあるが、まず二つのことを断わっておきたい。なお、ページ数は全て設定資料集の該当部分を指す。


(1)インタビューの内容の扱い
本編における郁紀と耕司の側の入れ替え可能性の描写(私が最も強く反応したのはこの部分)と、インタビューにおいて沙耶が異物でしかありえないとする作者の意見はあまりにギャップがあり、韜晦どころか捏造の可能性すら一瞬考えてしまうほどである。とはいえ、インタビュー部分以外の沙耶に関する話(P100:「まさか[沙耶が]人気者になってくれるなんて微塵も予想しませんでした」)なども考慮すれば、作者が実際に沙耶を異物でしかありえないと考えながら生みだし、またプレイヤーもそのように受け取ると認識していたことは疑いようがない。またそもそもこのインタビューを信用しないと今回の記事自体が成立しないこともあり、その内容を額面通りに受け取ることとする。

(2)分析対象の限定
YU-NOエンディング批評において自分の期待するエンディングと現行のエンディングの特徴を同時に分析したように、本来的には作者の期待した反応と実際のプレイヤーの反応を両方検証するのがあるべき姿である。しかしながら、筆者にはそのような時間がない(プレイヤーの反応を一つ一つのレビューから拾い上げていくのがどれほど時間がかかるかは言うまでもない)。よってここでは、インタビュー記事にある「恋愛ものという評価が多かった」というプレイヤーの反応を(1)の前提から信じることとし、あくまで作者の期待する(した)プレイヤー像のみを検証することとしたい。


<作者の期待していたプレイヤー像>
まずは引用から。

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さすがにエロゲーをやってる18歳以上のお兄さんになると、オタ街道を極めている人が多いんで、B級ホラーとかその辺の知識はあると思うんですよね。だから、たとえクトゥルフ(筆者注:神話)を知らなくたって、カーペンターの映画を見てたりとか、そういうのがあるんで、「あるある、こういう話」みたいな感じで受け止められてたみたいです。そもそもが『火の鳥』ですしね。 (107Pより)
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この部分は作者のプレイヤーに期待する姿を考える上で決定的に重要な部分である。作者の言う「オタ街道極めている人」なるものの中身がどのようなものかは不明だが、B級ホラーの知識が云々などと言っているので、おそらく「サブカルチャーに精通している」くらいの意味と考えるべきだろう(より突っ込んで言えば、そのような知識によって[ああ、あのパターンねと]プレイヤーは郁紀の視点から距離を取ることができ、そしてそれゆえに沙耶の唄がホラーゲームとして認識されると作者は考えていたと推測される)。


確かに、エロゲーの内容やそれが18禁であることを考慮するなら、それまでアニメや漫画なども含めたサブカルに全く無縁だった人がいきなりプレイするという事態はおそらく皆無であって、それゆえエロゲーのプレイヤーがサブカルのことを多少は知っていると見なすことにはそれなりの妥当性がある。とはいうものの、そこから「オタ街道を極めている」=サブカルに精通しており、B級ホラーなどにも造詣が深いとするのは大いに疑問である。より正確には、そのような認識は20年前、あるいは10年前くらいまでしか通用しない時代錯誤な認識なのである。


なぜそのように言えるのだろうか?根拠は三つある。

(1)エロゲーの相対的普及
自分が初めてエロゲーの情報というものに触れたのは1992年だったが、その頃はまだアングラな代物だったエロゲーが、90年代後半においてPCの普及や人気のエロゲーの一般ゲーム機への移植を通して、(あくまで相対的にだが)飛躍的に普及し始めたのであった。なお、ここにCDコピー機能とその普及が関係していることも確実だろう。つまり、それまでは多少興味があったとしてもコストパフォーマンスの側面などで敬遠していた人たちが、友人から安価に手に入れることができるようになったため試しにプレイしてみるようになった、というわけである。

繰り返すが、確かに90年代前半までのエロゲーはかなりアングラな代物であり、ゆえに手を出す人間もそれこそサブカルを渉猟した上でそこに行きついた「玄人」であったと見るのは理解できる。しかし、90年代後半の段階ですでにその垣根はかなり低くなっており、ゆえに「エロゲーをプレイする人間≒サブカルに精通している」などという図式は描けなくなっていると考えるべきだろう。

誤解のないように繰り返しておくと、エロゲーのプレイヤーが、「玄人→そこそこにサブカルを知っている人たち」という具合に変化したのではなく、後者にもすそ野が拡大していき、それによって「エロゲープレイヤーの多くがオタ街道を極めている」というような認識が1990年代の段階ですでに通用しなくなりつつあった、ということである。


(2)島宇宙化
作者によれば、エロゲープレイヤーの多くは「オタ街道を極めている」すなわちサブカルに精通しているとのことだが、サブカルの急速な拡大から考えて、そのような「全体的な知」とでも言うべきものは2005年段階では時代遅れになっていると思われる。なるほどかつてはアニメの数などがそもそも少ないことなどもあり、ヤマトを見て、ガンダムを見て、手塚治虫の作品を読んで…という具合にサブカルの全景をある程度ではあれ見渡せただろうし、またそれに則って様々な作品を貪欲に吸収していく人も少なからずいたのかもしれない。

しかしながら、あまりにサブカルの裾野が拡大した今日、アニメや漫画、ゲーム単体でさえも渉猟することは不可能であり、その結果として自分の好きなものだけは(=狭い範囲は深く)知っているという「たこ壺化」、あるいはそのような狭い範囲の興味を同じくする者が集まる小さなコミュニティが成立する「島宇宙化」が起きているのであって、もはやサブカルの渉猟もそれを元にした全体的な知も望みえないのである(amazonのリコメンデーション・システムはそのような状況を反映するとともに再強化する仕組みとして興味深い)。仮に100歩譲ってそのような知識を持つ人間がいるとしても、それはごくごく少数であって、多数派ではないことを認識しておく必要がある。


(3)「泣きゲー」、トラウマと癒しの流行
さて、これまでの(1)(2)を読んで、抽象論・印象論にすぎないと感じる人は多いだろう。特に(2)については、大塚英志や宮台真治、東浩紀などの論をつなぎ合わせただけと考える人もいると思われる(より正確には、自分がこの論を読んだらそう考えるとともに、そこから切り崩し始めるというだけのことだが)。確かに、PCの普及だとかエロゲーの相対的な普及と言ったところで具体的な数字を打ち出しているわけではないし、またそれがエロゲーの評価のあり方にどのような変化をもたらしたのかも不明、というのは事実である。そこで私が取り上げたいのが、沙耶の唄にほど近い1999年に発売されたkanonであり、またそれを中心に起こったいわゆる「泣きゲー」ブームである(実際にはoneやAirもその系譜に含まれるが、前者は分析がまとめきれていないこと、後者はそもそもほとんどプレイしていないためここでは置いておく)。

紹介が目的ではないので手短に書くが、「kanonを斬る」でも述べたようにkanonの話はスカスカである。序盤は他愛ないやり取りがなされ、中盤でヒロインを縛るもの(トラウマなど)が明かされ、終盤になってそれがなぜか理由不明のまま解決されてハッピーエンド、という構造なのだが、要するにそれは何の努力もなしにトラウマが癒される安易な救いの話である。とはいえ、そのような「パッケージングされた奇跡/救い」の如き展開自体は必ずしも珍しいものではない(「感動モノと宗教」、「宗教と思索」)。ここで問題にしたいのは、そのような物語にベタに(=素で)感動したという人間がかなり多かったということに他ならない。あまりに幼稚でプレイヤーを愚弄してさえいるような構造を斬って捨てるか、あるいはその下らなさに悪ノリする(ex.kanoso)というのなら理解できる。しかし、それに普通に感動するというのはどういう精神構造なのだろうか?…と個人的には思うわけだが、それが「泣きゲー」ブーム(つまりある程度大きくて継続性のある趨勢)として1990年代末、2000年代初頭のエロゲー界を席巻していたという事実はいくら強調してもしすぎることはないのである(「それが好きか嫌いか」ということと「それが一般的か否か」ということが別の問題であるのは言うまでもない)。


<作者の期待と実態の乖離>
さて、このような当時の趨勢を念頭に置いたとき、作者の言うようなエロゲープレイヤー観、もっと言うならば膨大なサブカルの知識を元にして作品を分析したりシニカルに消費するような人間像というものは、明らかに実態と乖離していると言わざるをえない(強いて言うなら、kanonを見てそれが宗教の奇跡譚の変奏だと述べる私のようなアプローチがそれに近いだろう。もっとも、自分のことを「オタ街道を極めている」などと考えたことは一度もないし、そんなものには興味もないが)。より図式的に言うならば、作者の期待するプレイヤー像とプレイヤーの実態及びそれを反映した作品の評価とは次のような関係になると想像される。


(A)作者の期待するプレイヤー像
サブカルに精通し、シニカルな視点を持つ→郁紀の視点から容易に距離が取れる→沙耶の唄はホラーゲームだと評価する

(B)プレイヤーの実態
目の前にあるものをベタに受け入れる→郁紀視点との同一化→沙耶の唄を恋愛モノと評価する


さらに(B)について述べておくなら、「泣きゲー」においては攻略の対象が過去の傷や特殊な生い立ちを持った脆弱な少女が大半であり、それゆえに主人公(≒プレイヤー)が必要とされるとともに、二人が結ばれることによって(時には理由も不明瞭なまま)ヒロインの傷などが解消されるという構造がある。これを沙耶の唄に当てはめれば、気持ち悪いほどにぴったりと符号する。というのも沙耶の唄とは、あるい意味で、事故と手術、その後遺症によって孤独を抱える青年が、沙耶という同じく孤独を抱える少女と出会い、結ばれ、各々の孤独を解消して承認願望を満たす話だからだ。そして世界は「奇跡」によって二人を拒絶しないものへと生まれ変わる…このような構造を鑑みるに、「泣きゲー」の流行から間もない当時、プレイヤーたちが郁紀・沙耶の側に引きずられ、結果として沙耶の唄を「恋愛もの」と評価するのはむしろ必然的であったとすら言えるだろう。


以上みてきたような、エロゲーのプレイヤー像及びサブカルを取り巻く状況の変化、より具体的には「泣きゲー」の流行を念頭に置くとき、沙耶の唄が「恋愛もの」と受け取られるのは全くのところ必然的であって、それに驚くのはむしろ時代状況に鈍感であったとさえ言わざるをえない。このように、作者とプレイヤーの間にある沙耶の唄の評価の齟齬は、単なる誤読で済まされる問題ではなく、時代的な必然性が背景に存在していることを考慮に入れるべきである。以上。


最後に。
とはいえ、このような論理展開を見ていて、「沙耶の唄を恋愛ものと捉える人=泣きゲーでベタに感動する人」として憤慨する人がいるのも想像に難くないし、また私自身そのように考えているわけでは決してない。よって次回は、視覚依存度という観点で誤読の要因を分析することにしていこう。


(補足)
このように考えた時、私がなぜ沙耶のビジュアルを問題にし、それを沙耶の側に引き込むための演出と言ったのかが読者によりよく理解されるだろう。というもそれは、当時流行っていたトラウマと癒しのプロットを逆手に取る構造になっていたからだ。そして多少考えれば、そのような沙耶の特性が視覚的には郁紀の知覚障害、行動的・精神的(?)には沙耶による人間の模倣(作者は「エミュレーター」と表現)によって成立している言わば「作り物」にすぎないと気付くし、それによって相手を理解していたと思い込んでいる自分にも気付く、という仕掛けになっている。しかも、癒してあげてるつもりの相手は実はジュルジュルの異生物ということになると、もうほとんど「泣きゲー」を皮肉っているような構造だ…という話を当初は展開する予定だったのだが、インタビューでそんなことは全く考えてないらしいことがわかったので放棄した次第。ちなみに、沙耶に対する「エミュレーター」という表現について私が考えたのは「人間もそれほど変わらないのではないか?」ということだった(=入れ替え可能性)。それについては別途述べる予定である。


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