最近流れが停滞しているが、現在「孝之が『ヘタレ』と評価される要因」、断片、断片2において鳴海孝之の評価についての受容分析を行っている。そこでは、鳴海孝之が「ヘタレ」と評価される要因について、彼が文脈に縛られる、つまりは選択不可能な生を生きる存在であるにもかかわらず、プレイヤーは「白紙の主人公」もしくは選択可能な生を生きる存在であると認識してしまい、それゆえ選択への戸惑い、あるいはそれからの逃走の迫真性が理解できず、その結果一様に「ヘタレ」と評価してしまうのではないか、と述べた(それはプレイヤーが選択肢を選んでいるにもかかわらず決められない孝之への苛立ちを言語化したものと考えているが、、ある意味それはシステム的なものに対する苛立ちであると考えている)。
とはいえ、ここで使用した選択不可能性・選択可能性という区分が、いささか大上段な印象を読者に与え、議論をわかりにくくしてしまったかもしれない(感情移入・共感は「本当に存在するのか」、というかつての問題設定に近いものを感じ取る人もいるのかもしれない)。というのも、別にこの言葉によって哲学関係の話、たとえばサルトルが、カントが、メルロ=ポンティが云々(自由意思と環境要因)などという論を展開するつもりは毛頭ないし、する必要もないからだ(そもそもそんな知識は持ち合わせていないし)。その意味では、いささか誤解を招く表現だったと言えるだろう。
そんな事情もあって、選択(不)可能性の話は主に三つの反論ないしは疑問の余地を残している。一つは、「仮に文脈に縛られていると言っても、やはり問題のある行動は多く、『ヘタレ』という評価を覆すにはあたらない」というもの。二つ目は「そのような作中人物とプレイヤーの齟齬をいかに感じさせないかが演出の妙なのではないか?」というもの。そして最後は「文脈に縛られていると言うが、特にサブキャラシナリオでは支離滅裂な行動が目立っていること、つまりは選択不可能性と選択可能性が混在していることが問題なのであって、演出的に失敗しているのではないか?」というものである(そもそも「サブキャラシナリオの害悪」はそういう論旨から成り立っている)。最初の問題は感覚に依存する部分が大きいので、おそらく「君が望むサバイバーズ・ギルト」とそれに続く記事で扱っていくことになるだろう(もっとも、「極限状況における振舞い」からしても、説得しきれるとは思っていないが)。二番目のものに関しては、うまく「感情移入」させる作品であればあるほどすばらしいと本当に言えるのか?と問えば十分だろう(例えば、主人公との断絶を意識させることでプレイヤーに訴えかけることのも一つの手法である)。そして最後の疑問は、「サブキャラシナリオの批判性(仮題)」という記事において氷解すると考えている。まあもっとも、今まで見てきたレビューに限って言えば、後二者のような構造・演出レベルの批判に言及しているものは存在しないのではあるが(だから具体性がないと繰り返し言ってもいるのだけど)…とりあえず今は準備段階として「主人公とプレイヤーの共犯関係」や「確信犯的選択と懲罰」などをもう一度見直してもらえればと思う次第である。
まあそういうわけで、次回はもう少し具体的な領域に踏み込んで、君が望む永遠のレビューに散見される「感情移入できない」という発言を取り上げ、なぜ「感情移入できない」のかを考えていきたい。以前は感情移入なるものは存在するのか、あるいはそ(れを自明視すること)の病理、といったアプローチだったが、言うまでもなく言葉は無色透明ではなく、時代・地域(そして個人)によって変化する。ゆえに、彼らの言う「感情移入」とはそもそもいったいどのようなものなのか?という視点を持たなければ、話は平行線にしかならない。よって次回は、君が望む永遠が2001年に発売されたという時代性を考慮し、1990年代後半から2000年にかけての状況の変化を振り返りつつ、そのレビューに表れた「感情移入」なるものの実像に迫っていければと思う。
なお、最後に付け足しておくと、「感情移入」という言葉を使っていないレビューも数多くあり、それらは特に理論を重視し(ようとし)ているものが多いように思える。とはいえ、そのようなレビューが君が望む永遠の孝之に対する批判を分析の上に成立させているのではなく、むしろ感情的な、しかも貧しい言葉を垂れ流すだけに終わっているというのはすでに述べた通りである(念のために言っておくが、これは感情的な言葉が悪いという意味ではなく、それに終始しているだけの状態が特徴的だと言っているのだ)。この原因については、サブキャラシナリオの批判性に関する記事で多少なりとも答えが出るかもしれない。
とはいえ、ここで使用した選択不可能性・選択可能性という区分が、いささか大上段な印象を読者に与え、議論をわかりにくくしてしまったかもしれない(感情移入・共感は「本当に存在するのか」、というかつての問題設定に近いものを感じ取る人もいるのかもしれない)。というのも、別にこの言葉によって哲学関係の話、たとえばサルトルが、カントが、メルロ=ポンティが云々(自由意思と環境要因)などという論を展開するつもりは毛頭ないし、する必要もないからだ(そもそもそんな知識は持ち合わせていないし)。その意味では、いささか誤解を招く表現だったと言えるだろう。
そんな事情もあって、選択(不)可能性の話は主に三つの反論ないしは疑問の余地を残している。一つは、「仮に文脈に縛られていると言っても、やはり問題のある行動は多く、『ヘタレ』という評価を覆すにはあたらない」というもの。二つ目は「そのような作中人物とプレイヤーの齟齬をいかに感じさせないかが演出の妙なのではないか?」というもの。そして最後は「文脈に縛られていると言うが、特にサブキャラシナリオでは支離滅裂な行動が目立っていること、つまりは選択不可能性と選択可能性が混在していることが問題なのであって、演出的に失敗しているのではないか?」というものである(そもそも「サブキャラシナリオの害悪」はそういう論旨から成り立っている)。最初の問題は感覚に依存する部分が大きいので、おそらく「君が望むサバイバーズ・ギルト」とそれに続く記事で扱っていくことになるだろう(もっとも、「極限状況における振舞い」からしても、説得しきれるとは思っていないが)。二番目のものに関しては、うまく「感情移入」させる作品であればあるほどすばらしいと本当に言えるのか?と問えば十分だろう(例えば、主人公との断絶を意識させることでプレイヤーに訴えかけることのも一つの手法である)。そして最後の疑問は、「サブキャラシナリオの批判性(仮題)」という記事において氷解すると考えている。まあもっとも、今まで見てきたレビューに限って言えば、後二者のような構造・演出レベルの批判に言及しているものは存在しないのではあるが(だから具体性がないと繰り返し言ってもいるのだけど)…とりあえず今は準備段階として「主人公とプレイヤーの共犯関係」や「確信犯的選択と懲罰」などをもう一度見直してもらえればと思う次第である。
まあそういうわけで、次回はもう少し具体的な領域に踏み込んで、君が望む永遠のレビューに散見される「感情移入できない」という発言を取り上げ、なぜ「感情移入できない」のかを考えていきたい。以前は感情移入なるものは存在するのか、あるいはそ(れを自明視すること)の病理、といったアプローチだったが、言うまでもなく言葉は無色透明ではなく、時代・地域(そして個人)によって変化する。ゆえに、彼らの言う「感情移入」とはそもそもいったいどのようなものなのか?という視点を持たなければ、話は平行線にしかならない。よって次回は、君が望む永遠が2001年に発売されたという時代性を考慮し、1990年代後半から2000年にかけての状況の変化を振り返りつつ、そのレビューに表れた「感情移入」なるものの実像に迫っていければと思う。
なお、最後に付け足しておくと、「感情移入」という言葉を使っていないレビューも数多くあり、それらは特に理論を重視し(ようとし)ているものが多いように思える。とはいえ、そのようなレビューが君が望む永遠の孝之に対する批判を分析の上に成立させているのではなく、むしろ感情的な、しかも貧しい言葉を垂れ流すだけに終わっているというのはすでに述べた通りである(念のために言っておくが、これは感情的な言葉が悪いという意味ではなく、それに終始しているだけの状態が特徴的だと言っているのだ)。この原因については、サブキャラシナリオの批判性に関する記事で多少なりとも答えが出るかもしれない。
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