君が望む永遠~孝之が「ヘタレ」と評価される要因~

2009-04-01 19:52:38 | 君が望む永遠
前回の「「ヘタレ」に関する受容分析へ」において、主人公の鳴海孝之に関しては、行動を縛る基準などが本編中ではっきりと描かれているにもかかわらず、「ヘタレ」という評価(不快感)だけが垂れ流されていると述べた。よって今回は、そのような評価の仕方、あるいは反応の原因を探っていきたいと思う。


とはいえ、今も述べたように、管見の限り「ヘタレ」という評価には具体性がない。もちろん具体性がないこと自体、それを(説明の必要が無いほど)自明のものだと認識しているという重要なヒントではあるのだが、議論がいささかやり辛いのも事実である。ところで、第二章の軸になっているのは、鳴海孝之が選べず苦悩する姿であった。たとえプレイヤーが選択肢を選んでもなお、彼自身は選べきれずにまた迷う。そのような姿そのものが、プレイヤーに強い苛立ちを喚起することはある程度予想できる。よってここでは、「選べないこと」を軸に考えていこうと思う。


さて、「選べないこと」への苛立ちはあるにせよ、それをただ「ヘタレ」という抽象的な評価でしか表現しない(できない)ことには様々な要因があると想定できる。それはこのゲームをプレイする年齢の偏りに始まり社会状況にまで及ぶが、ゲームというものの持つ選択可能性がおそらく最も本質的なのものだと思われる。以下それについて詳しく説明していきたい。


主人公の評価と「選べない」苛立ち」という記事において、私は君が望む永遠を「小説的なゲーム」と評価したが、それは「選択可能性を前提とするシステム[=恋愛ADV]の中であえて選択不可能性をテーマとしたゲーム」と言い換えることができる(「選ぶ「快楽」から選ぶ「苦痛」へ」も参照)。「究極の二股ゲーム」というイメージが強い人にとって、結局は対象を選ぶのに「選択不可能性」という評価は大げさすぎる表現で、私が深読みという思考の罠にはまっている証左として受け取られるかもしれない。しかしここで言う「選択不可能性」とは、恋愛の対象というよりはむしろ、人生そのものを指している。


一体どういうことか?
ゲームというものは、基本的にやり直し(反復)が可能である。つまり、たとえ誰かが死んでも、いや死んでなくても、結果が気に入らなかったりすればリセットを繰り返すことが可能なのだ。しかも、「なぜリセットができるのか」と違和感を持つ人はほとんど皆無なのだが、それはゲームの反復可能性が疑いの余地の無い、つまり所与のものとして認識されていることを意味する。ところでまた、そのようなシステムにおける私たちの選択というものは、少なくとも現実における選択ほどには重みを持たないし、それゆえ躊躇いも少ないことは容易に想像できるだろう(もちろん、あまりに惨い選択肢などは選びたくない、といった人もいるだろうが)。しかし、作中人物にとっての事情は違う。特殊な例はあるにしても、彼(女)らはあくまで、一回的な生という認識・制約の中で生きている。たとえ私たちにとって繰り返すことができても、彼らにはその生しかないのである。


とするならば、作中人物たちが(プレイヤーが意外に思えるくらい)選択に慎重になったり、その結果として選べずに立ち尽くしたり、選択そのものから逃避することがあったとしても決して奇妙なことではないのだ。このような、プレイヤーにとって反復可能でも作中人物とっては反復不可能(一回的な生)であるという立場の違いに改めて思いを致せば、選択に関する前者と後者の意識が(他人事であるという事情も含めて)大きく異なっているのは当然のことと理解されるはずである。そしてそのような前提に立ち返った時、たとえ我々プレイヤーが選択肢を選んだとしても作中人物が同じレベルでその選択をできないのは、あるいは一度選んだものを覆してしまうのは、全く不思議なことではないと気付くだろう(今までそのような齟齬を感じなかったのだとしたら、単にそれを隠蔽するシステム[例えば白紙の主人公]に慣らされてきただけなのである)。孝之への「ヘタレ」という評価は、プレイヤーが選んでいる、あるいは選ぼうとしているにもかかわらず彼が選べないこと、そして今述べたような齟齬が忘却されてしまっていることが主な原因であると推測される。


なぜ忘却されていると言えるのか?
最初にも書いたが、まずは「ヘタレ」という評価にまるで具体性がないことが要因として挙げられる。またその一方で、自分自身がサブキャラシナリオを選んだこと、すなわち必然性のない選択を自ら行ったことについて言及しているものはなく、ただその質の悪さを取り上げているだけの点も注目すべきだろう。というのもこれは、それまでの孝之の文脈を、あるいはこれからの人生を決める行為を、せいぜい選択の幅程度にしか考えていないこと、またその事実に全く気付いていないことを意味しているからだ(そう考えると、悪名高い穂村シナリオの内容が全く別の意味を持ち始めることに気付くのだが、それは近いうちに述べる予定だ)。さらに、様々なレビューで「感情移入できない」といった言葉が無邪気に使われているのも、忘却の根拠として取り上げることができるだろう。詳しくは次回の「なぜ感情移入できないのか?」という記事で述べるつもりだが、この「感情移入」というのは可変性の高い「白紙の主人公」(プレイヤーと作中人物の齟齬を埋めるべく作り出された反復可能な容れ物)にこそ適したものであり、第一章の内容や細かな心理描写を通じて行動が強く規定されている鳴海孝之には、本質的に馴染まないものである。にもかかわらず、そういった「白紙の主人公」と鳴海孝之の差異には言及することなく、ただ「感情移入できない」と述べているのは、孝之が「白紙の主人公」ではない、つまり反復不可能性により強く行動を規定された存在だと理解できていないことを意味するのである。


もし「選択可能性を売りにしているはずの恋愛ADVで、そのような選択不可能性に縛られるのは煩わしい/失敗だ」といった批判が出るのならまだわかる。しかし従来のレビューには、ただ「感情移入」「共感」という言葉を振りかざしたり、感情的な言葉を並べ立てているだけであり、そのことはかえって選択可能性によるバイアス、あるいは作中人物と受け手の齟齬への無理解がいかに浸透しているかをよく表していると言えるだろう。


以上のような根拠から、プレイヤーが作中人物との間にある齟齬を本質的に理解しておらず、それこそが「ヘタレ」という評価の要因だと結論できる。ある意味その評価は、隠蔽しているものを明るみに出された、あるいは自分達が自明だと思っているものを否定されたことに対する感情的な反発と言えるのではないか。具体性のない記事ばかりであるのを見るとき、そのように思うのである。


(最後に)
ところで、このような反復可能性(プレイヤー)と反復不可能性(作中人物)の齟齬を自覚的に描写したのは君が望む永遠だけではない。ネタバレを回避するために詳しくは書かないが、礼―賽(このフレーズでわかる人だけ見てください)において扱われているのは、まさにそのような問題・批判ではなかったか(cf.「神の視点への道程」)?こちらの方は単純に批判だと考えると足元をすくわれる可能性が高いが(その理由はいずれ述べる)、それでも上記のような齟齬、あるいはそれにまつわる問題を扱ったのがひとり君が望む永遠でないことは強調しておきたい。

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