君が望むサバイバーズ・ギルト

2008-12-28 22:32:30 | 君が望む永遠
今まで、「第一章の存在意義」、「確信犯的選択と懲罰」、「主人公とプレイヤーの共犯関係」などを通じて「鳴海孝之=ヘタレ」という見解について幾度も批判を加えてきた。そこでは、「ヘタレ」という言葉が非常に曖昧なため批判・不満の原因が不明瞭であるが、それは孝之の行動を縛るもの(=環境要因、文脈、しがらみ)が読み取れていないからではないか、というようなことを述べた。


とはいえ、その批判は鳴海孝之への行動に対する視点・評価を中心にしたものだったので、環境要因などがどれほど人の行動を縛るかを理解している人には当たり前のことだし、逆に理解していない人にとっては「そんなことはわかっているが、しかし…」というような反発しか生み出さないだろうとも考えている。もしその限界を無視してこの論じ方を続ければ、むしろ私が「鳴海孝之と無意識のうちに同一化した結果、彼への批判を自分の批判であるかのように受け止めてしまい、ヒステリックな反批判を繰り返している」などと捉えられるのは必須である。いや、今でさえそのように認識されている危険性は高いと考えている(というのも、少なくとも私が第三者として最近の記事を見たなら、間違いなくその可能性を考慮するからだ)。あるいはそのように私自身の視点が疑われなかったとしても、今までの論じ方を変えなければ旅人(=納得しないプレイヤー)に風を吹き続けるような結果にしかならないだろう。


とするなら、私の主張をよりよく理解してもらうためには方向転換が必要なわけだが、思いつく限り二つの方法がある(もちろん、「これ以上論じない」という方法もあるが)。一つは、YU-NOのエンディング批判(全ネタバレ)やひぐらしの「予言」に関する記事(目明し編までネタバレ)でやったように、本文からの引用(具体例)を通じて徹底的に論じていくという手法で、もう一つは孝之への批判を中心に述べていくという方法である。


1は有効な戦略であるように思えるが、冒頭でも述べたように孝之がヘタレと評価される理由が曖昧なため論を構成しづらく、それゆえ「ヘタレ」と評価されそうな部分を逐一取り上げて分析するという骨の折れる作業をしなければならないし、それがどこまで有効かも疑問である(結局「感覚的に受け入れられない」の一言で終了する可能性があるので。YU-NOの場合のように批評≒感覚を逆手に取るような記事が用意できればいいのだが…)。それならむしろ、なぜ孝之は「ヘタレ」と捉えられるのか?そこにどのような価値観が横たわっているのか?という切り口で考えるほうがよほど意味があるだろう(※)。


以上のような理由で、引用による考察にこだわることはあまり有効ではない。ならば、批判を中心に論じるのはどうか?この場合、題材の選び方自体に妙な意図、つまりは言い訳がましさが感じられ、そこからかえって誤解を招いてしまうことが予測される。もちろん「穂村シナリオ批判」「蛍シナリオ批判」のような記事はこれからも書いていくつもりだが、それは孝之への距離感を示すなどという不毛な目的で浪費されるべきものではない。


このように考えてくると、後は「ヘタレ」観を様々なところから引用して個別に検討していくか、今までのように鳴海孝之の捉え方を問題にするしかないようだ。とはいえ、前者は時間がかかる上に個を集積させたとしてもどこまで正確な全体像ができあがるのかいささか疑問である。とはいえ、後者のやり方を続けても状況は改善されるどころか悪化する一方だろう。


そこで次は、鳴海孝之をサバイバーズ・ギルトという心理学用語を通して理解するというアプローチでいきたい。しかしすぐにわかることだが、サバイバーズ・ギルトというカテゴリーで彼を分析することには様々な問題がある。今度はそれを軸に、そういったアプローチの問題を併記する形で論を進めていく。これによって少しでも私の主張がよりよく理解してもらえれば幸いである。



「ヘタレ」という視点に距離を持つ、つまりは孝之の行動の必然性「も」しっかりと考慮できている人にとっても有用であるため(「主人公への評価と選べない苛立ち」などはそういった批評の分析という性格が強い)。このアプローチで例えば「終末の過ごし方」への批判(というより不満だが)を分析すると、「アルマゲンドン」のようなハリウッド的、すなわち危機を救う主人公を自明とするような考え方に基づいているのではないか、というような結論が得られる。「生ある限り諦めずに生き続ける姿こそすばらしい」とある人は反論するかもしれないが、ならば末期ガンの患者が延命治療を拒むのは悪だろうか?生きている限りはどこまでも生かし続けるのが善だろうか?もっと極端な例を挙げるなら、明日残虐な刑で殺されることがわかっている人間が、自殺を選ぶことは「敗北」だろうか?…というように、終末の過ごし方における静謐な最期への違和感、不満はもっと掘り下げて、一般化して考えることができる(「城ノ崎にて」より~極限状況での振舞い~)。逆に言えば、そういう風に考えられなければ、それだけバイアスが強いということに他ならない。このようにして、受け手の全能感、理想自我、自由意思(と環境要因)についての考え方(cfひぐらし)、人生観といったものまで、場合によっては見えてくるわけである(反感は自己を知る絶好の機会)。

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