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囚人達は首を絞め合いやせ衰えゆく

2016-05-09 12:20:50 | 生活

 

 

熊本地震に絡んだ自粛ムードへの批判記事(「誰がための自粛か」「『一億総突っ込み』の不毛さ~」)と併せて、言説の名にすら値しない条件反射的な意見の吐き出し行為を問題として取り上げた。たとえば、生活保護やその不正受給とパナマ文書にまつわる権力者たちの「不正」に対する批判・興味の熱量の差異は、前者が社会を良化しようとする生産的な批判ではなく、ただの弱者叩きであることを示している。あるいはまた、革新と対置される保守とはそもそもどのようなエートスであるかを書いた上で、今日「保守」と呼ばれる言説の多くはただの昔語りにすぎない・・・といったことを述べてきたのであった。ただ、後者の事例からわかるように、条件反射的主張は昔からあったことには注意を要する。ではなぜそれが目立つようになったかと言うと、今回掲載した動画にも出てくるが、社会の共通前提の崩壊に基づく不安・不全感、それによる蛸壺化=歯止めが利かない構造、SNSなどの発達によりそれがダイレクトに可視化されることになった、といった背景があるのではないかということである(ちなみにこの観点で言うと、政治家の放言やSNSで)。

 

土台となる部分については動画を見ていただければと思うが、以前「誰がための自粛か」という記事でもらったコメントへの返信も兼ねて言うなら、近代化=個人主義という理解の元に変化を期待しても、中間団体が存在しなければただの孤人主義か、あるいはそれに不安を感じての全体主義にしかならないだろう(ちなみに「『自己中心的』ということ」で書こうとしたのは、自らが置かれた環境を見るまなざしがあれば、自己中心的にものを考えた場合かえって周囲へ配慮した振る舞いが自分の得になる場面が多々あることに気づくのであり、そのような視点がなくいわゆる「自己中」と呼ばれるような行動をするのは自己中心的ですらなくただの馬鹿=孤人主義だ、ということである)。まあもっとも、私は不全感を薬物で管理して出口の行動を統制する方が確実ではないか、と考える程度には人が自己陶冶の結果変化しうることが信用ならないのだが(この問題に関しては古典でも肯定的評価をするトクヴィルから否定的評価をするオルテガなど幅は広いが、とりあえず映画「イディオクラシー」が見やすいのではないかと思う。これを見て馬鹿げた不倫騒動やそれに国会までも振り回される日本、トランプ旋風が吹き荒れるアメリカの現状を重ね合わせるのは容易である)。

 

ちなみに、動画の中でも出てくる共通前提の話は、個人的には高校時代の自身のパラダイムシフト、即ち「べき」論から多様性の肯定への変化のきっかけにも関わり、かつこのブログでも継続して扱っているテーマなので、いずれ詳しく述べたいと思う。

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