この前「シン・ウルトラマン」の大まかな感想を書いたが、本作の完成度を高めたMVPの一人は間違いなくメフィラス(とそれを演じた山本耕史)である、という点に関して異論がある人は少ないだろうと思う。
怪威獣たちとの肉弾戦、ザラブとの知能戦(交渉を通じて恐怖で現生人類の支配を目論む)、その後に来るゼットンの絶望的なスケール感(交渉の余地なく現生人類を消滅させにかかる)といったものと、他者の文化を高度に理解した上で利益を提示して支配するメフィラスのスタイルはまた違っているのだが、各々が好対照をなしていて巧みな構成だと感じる。
ただ、こういう図式的な理解だけでなく、強い説得力というか納得感があるのは、メフィラスの演技力とそれを際立たせる様々な演出だと考える。メフィラスの演技が「完璧であるがゆえに違和感を拭えない」ものである(完璧過ぎる存在は人間的に見えない)ことはわかりやすいが、その違和感も、「眼だけ笑っていない」、「数式を見る時は真顔=あくまで表情は対面する相手に好感を持ってもらうために作っているだけ」といったように、少し注意して見ればわかりやすいものになっているというさじ加減が素晴らしい。
その意味で言えば、ウルトラマンがザナドと会うのはトンネル内に停車した車の中=密会=非日常であったのに対し、メフィラスの場合は公園や居酒屋=日常であったことも異化効果として大変有効だったと思う。というのは、前者はいきなり電子機器のシステムをダウンさせるという点でも「闖入者」で、言い換えれば目に見える「ノイズ」だったが、後者はその登場シーンからしても日常に溶け込み、いつの間にか日常を浸食・支配するタイプの存在であることとリンクしているからだ。
それだけでなく、居酒屋のシーンで必要な部分(機密文書の提示)は周りを気にする素振りも見せることから、「とんでもないレベルの話をしているが、それをおそらく周囲は真に受けないし、仮に真に受ける人間が出たとしてもすでに正規ルートは抑えてあるからいくらでも握り潰せる」というメフィラスの自信と余裕が垣間見える。
そしてさらに、あの空間でのやり取りから、メフィラスが「美しい地球を欲しい」「現生人類を愛している」と話すのは必ずしも美辞麗句というかリップサービスでもないことが伺える。そもそも、地球人と融合したウルトラマンはまだわかるとして、メフィラスがあのように食物を摂取する必要があるか疑問である(というかウルトラマンの様子的には彼も食物の摂取は不要?)。言い換えれば、彼にとって食事は完全にムダ・「娯楽」ではないかと考えられる(これは公園におけるブランコの立ち漕ぎを例に出すと一番わかりやすいかもしれないw)。それをわざわざやるということは、それが楽しみであり、好きだからだろう。おそらくメフィラスは地球にまつわる諸々を知る中で、どこまで意識的かは不明だが、その習慣にも影響され、別に必要でもない行為をするようになったものと思われる。
居酒屋のシーンは、そのようにしてメフィラスの発言が単に表面的な言葉遊びでないことを暗示するが、一方でそれをウルトラマンに重ね合わせて考えてみると面白い。というのも、ウルトラマンが現生人類の存続を望み、身を挺して地球を守る行為に及ぶ時、それは人間と融合して人間の思考の影響を受けているからだという説明がなされるが、その伏線としてクレバーなメフィラスもまた地球で長く生活しその有様を分析・実行する中で影響を様々受けるようになった姿が提示されている、とみなせるからだ(ただし、そういう演出的工夫と、ウルトラマンの動機づけにどれだけ説得力を感じるかはまた別物だが。これは別の機会に触れる)。
しかも、メフィラスがあくまで「美しい地球が欲しい」→「現生人類が好きだ」の順番であるのに対し、ウルトラマンはあくまで「人類」に話をフォーカスし続けている。これはもう少し踏み込むと、メフィラスが地球の美しさを言祝ぎ、現生人類をよく理解していることは疑いがないが、彼のそれはあくまで「人間が愛玩動物に対して抱くような感情」と推定することができる。これは直接セリフに出てくるわけではないが、メフィラスの現生人類に対して行おうとしている施策に対し、ウルトラマンが人間をコントロールするのではなく、弱いままでそのあり様を承認したい、言い換えれば「対等な存在」として見ている様を対照的に描いていることからすれば、前述の推定は当然成立するだろう。
しつこいがもう少し付け加えると、これはウルトラマンがレヴィ・ストロースの『野生の思考』を読んでいる(のがわかるように演出されている)ことからも傍証される。というのは、今度の友人との毒書会でも取り上げるその本は、要するに先進国=「文明人」たちはそれ以外の地域の人々を「未開人」とさげすむように見ているかもしれないが、そこに優劣を見出すのは間違いで、先進国以外の地域にも同等・対等に価値ある世界観(コスモロジー)が存在するのだ、と言っているのである(ホイジンガが『ホモ・ルーデンス』で言っている「遊び」などもそれを理解するのに有効な枠組みだろう)。要するに、メフィラスはあくまで「文明人」が「未開人」を見て「未開人おもしれーなー(郷に入らば郷に従え)」というスタンスなのに対し、ウルトラマンはそのような立場の差異はなく、あくまで対等な存在として相手を理解し、取り扱おうとしている、ということに繋がるだろう。
以上のように、メフィラスとウルトラマンの対話シーンはその舞台設定から言葉選びまで実によくできていて感心させられる。それは、短い時間で旧作の代表的な話をオムニバス的に取り入れながら、そこにどう無駄なく一本の軸を設定しようかと苦心し練られた後が見て取れるからである。何より、テーマ的な話を横に置いても、公園が遊んでいる親子との対比でメフィラスとウルトラマンの違和感・ズレ=不穏さを意識させる舞台設定、そこからの居酒屋における緩急あるメリハリのついたやり取りと「割り勘でいいか?」の漫才みたいなオチは(てかそこは律儀に残金確認までするのねw)、暗示する意味を考えなくても普通に楽しめるものになっている工夫が素晴らしかった。
というわけで、メフィラスの圧倒的演技力に裏打ちされた説得力のある言行は、エンターテイメントとしておもしろいのはもちろん、他の部分との比較やウルトラマンのあり方というテーマにもちゃんと連動するものとなっていて、本作の中で極めて重要な要素となっていたと言えるのではないだろうか。
というわけで、不本意なYou Tube動画は律儀に即効で削除してくれる紳士に乾杯しつつ、この稿を終えたい。
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