シン・ウルトラマンを観て:旧作における象徴を意識しつつ、テーマをアップデートした良作

2022-12-05 11:09:09 | レビュー系

 

こないだ「仮面ライダーBLACK SUN」を見た勢いで、シン・ウルトラマンも視聴してみた・・・

 

というのは半ば建前で、シン・ウルトラマンの広告を見たついでにウルトラマンVSゼットン(1966年版)の動画を視聴し「やっぱゼットンは萌えキャラ」だよな(「プルルルル」とか腕の動きとかw)とニヤニヤしてたら、リコメンドに「シン」の方が出てきてそれに度肝を抜かれた(あのゼットンをこういう風に解釈して描いた作品であれば、見ない訳にはいかんね)、というのが正直なきっかけである(それがなかったら、まだシン・ゴジラすら見てないのと同じように、数年単位で縁がなかったかもしれない)。

 

で、ここでは内容のネタバレになることを書くつもりはないが、旧作でしばしば指摘されるシンボルについて意識しておくと面白さが倍増(いや3倍増)するので、ちょっと触れておきたい(もちろん、「シン」にはゴジラ的発想をより徹底化させた設定、AIと人類の未来を連想させるような技術による家畜化[メフィラスとキュウべえ]、終盤の展開に見られるエコテロリズム的発想=人類の存続に公益性はあるのか?[ちなみに論理的必然性はもちろんない]など、象徴以外にも興味を引く部分は色々とある。ただ肝心の「なぜ人間に味方するのか?」が弱かったのは作品の説得力をだいぶ損なっているが)。それは飛来してくる=日本の外側からやってくるウルトラマンがアメリカの暗示で、自力で怪獣を倒せない科学特捜隊(日本社会)はいわば去勢された戦後日本の状況を象徴する、というものだ。

 

もちろん、ウルトラマンは「アメリカ=正義=絶対善」といった単純な認識では作られてはいないし、それは悲劇の宇宙飛行士が変化したジャミラとその扱いを例に挙げれば十分だろう(実相寺昭雄の『ウルトラマン誕生』などで描かれる怪獣への眼差しなども参照。これはゲゲゲの鬼太郎で描かれる「妖怪」という単なる異形・怪異ではない存在、あるいは「沙耶の唄」のレビューでも述べた異物への同一化傾向というテーマにも通じるものがある)。

 

とはいえ、「怪獣から自分たちを自力で守り切れず、外からの存在に救いを委ねざるをえない」というウルトラマンで描かれる日本の状況は、戦後の非武装化のみならず、冷戦構造の中でその前面に位置し、それゆえ防波堤として「自衛隊」というものを持たざるをえなかった(あるいは逆コースなどを想起してもよい)当時のねじれた日本の現実を連想させるに十分であった。

 

そういったウルトラマンに対して読み込まれた「政治性」を人によっては煩わしいと思うかもしれないが、しかしその意識を持っていればこそ、シン・ウルトラマンで描かれる諸々の描写、例えば「ただウルトラマンという存在に神頼みしているわけではない」、「ウルトラマン(正確に言えば光の国)は常に人類の味方で救い主というわけではない」といった部分を描いている意図が非常によく伝わると思うので、これから見る人にとっても良いスパイスになるだろうと書いてみた次第である。


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