コスモロジーと「遊び」:動物裁判、シロアリ供養塔

2020-02-02 12:18:18 | 歴史系
 
 
前回は『中世の秋』や『ホモ・ルーデンス』のテーマが世界認識(コスモロジー)である、と後者の第一章さえ読み終えてないのに喝破してみましたよと(・∀・)で、以下それっぽい書き方をしてみるとこんな感じだ。
 
 
『中世の秋』では中世ヨーロッパに焦点を当てつつ「暗黒時代」とみなされていたそのコスモロジーを解明しようとした(ただし、賢明な読者諸兄はすでにご存じのことと思うが、ブローデルの「地中海世界」といった概念を出すまでもなく、長くイスラームの支配下にあったイベリア半島と今でいうドイツにあたるライン川周辺では大きく状況が異なっているし、時代区分さえ絶対的なものではない。仮にカールの戴冠から百年戦争終結=絶対主義の胎動までをその範囲としても、約650年という長大なスパンであって、それを「中世ヨーロッパ」とくくること自体が雑駁に過ぎる点は注意を喚起しておきたい)。それを発展させ、『ホモ・ルーデンス』ではインドや中国、日本、アメリカ大陸など様々な事例を列挙し、「遊び」というものの、あるいは人間の世界理解のあり方のパターンを多角的に分析しようと試みている。
 
 
こうして彼は、歴史や人間生活の傍流のように思われていた「遊び」という要素に注目し、アドホックと思われがちな多数の事例をミクロコスモスとみなし、その形成のされ方を帰納法的に分析したと言えるだろう。
 
 
まあ『ホモ・ルーデンス』で特徴的なのは、それを緻密に体系化したり理論化するわけではなく、ある程度不透明な部分は不透明なもの(=未規定なもの)としてそのまま記述した結果、定量的に分析することが難しくなり、この著作は「ホイジンガ・ルーデンス」などと揶揄されたりもしたわけだった。
 
 
こういう感じで書くと、すでに興味がゼロケルビン状態(何じゃそりゃ)の方も多いと思うので、具体的な例を出したい。『中世の秋』で描いたのは中世ヨーロッパ人の世界認識であると書いたが、その具体例としてわかりやすいものの一つが、中世ヨーロッパの動物裁判だろう(冒頭の動画を参照)。
 
 
法律はもちろん言葉もわからない動物を人間と同じ裁判にかけて判決を下して刑を執行するわけだから、近代司法の観点からはクレイジー極まりないように見える(近代司法では始めから飼い主に管理責任を帰属させられている)。
 
 
では、「動物にも人間のルールが適用できると思っていたから動物裁判をやった」のだろうか?もちろん、そういう状況が皆無だったと言うつもりはない。しかしそもそも、キリスト教世界においては全知全能の神に対し、人間が必謬性を背負っているという点に注意する必要がある(そもそも知恵の実を食べるという「罪」を犯してしまったわけだしね)。だから、そういう間違いうる人間が罪に対して過たずに罰を下すために、裁判という形式をわざわざ採っているというわけだ(関連する別の話だが、この人間の必謬性ゆえに、「論理性を追求して最も確からしい結論を出すけれども、真実を正しく言い当てられない」という図式を裁判を通して描いたのが『カラマーゾフの兄弟』である)。
 
 
なるほど対象となる動物は神が作ったこの世界の秩序を侵犯してしまったとはいえ、過つ人間がそれを恣意的に罰したら、同じく人間もまた秩序を損ねてしまう危険性がある。ゆえに、正式な手続きを踏んでその罪を確認して罰を確定させ、それを執行して攪乱された秩序を回復させよう、というわけだ(これが「遊び」なのか?と思われるかもしれないが、その実施が強制されていたわけではなく、また実利の面で行われたわけではない点からも、ホイジンガの言う「遊び」=ルーデンスに通底する部分が大きい)。
 
 
このようなコスモロジーが出てくるには、ある意味で動物と人類を同列に扱う発想が必要なわけだが、それを笑えるかと言うとそんなことはないやろという事例として日本の「しろあり供養塔」を取り上げてみよう(写真は「日本しろあり対策協会」のホームページより)。
 
 
 
 
 
これは私が『ホモ・ルーデンス』をほっぽらかして読んでいた(笑)『企業墓』に出てくるのだが、その建立は1971年と現代の話である。
 
 
もちろん、これは同書の中でもそのインパクトを「横綱級」としており、こういったものを作るのが常識的だとまで言うつもりはないが、さりとて日本には動植物の供養塔ゴキブリ供養塔バッタ塚菌塚などが存在しており、人間以外のものを供養する、供養することを必要だと考えるコスモロジーは広く共有されていると考える。
 
 
さて、このようなものを日常に持つ我々は、中世ヨーロッパの動物裁判を笑えるだろうか?
 
 
私は、己の世界認識(コスモロジー)を真摯に省みることもない人間が、他人のそれを笑う資格などないと考える。なぜならそれは、あたかも牢獄にいる人間が覗き窓から見えるものだけを世界として疑わず、隣の囚人が見る別の世界を嘲笑うように滑稽なものだからだ。
 
 
ちなみに、『企業墓』の著者がイギリス人にシロアリの供養について説明したら、爆笑されたらしい。具体的な話は書いていないが、「魂」に関する考え方が違えばそれはそうだろう。人間以外には魂がない=無明に還ると考えるなら、人間にとってのメモリアルならともかく、対象の供養には意味がないからだ。
 
 
しかし、このようなコスモロジーとの邂逅は、極めて深いreflectionを私たちに促しうると考える。たとえばこの供養塔には、「生をこの世に受けながら、人間生活と相容れないために失われゆく生命への憐憫」という文言が添えられており、私は極めて強い感銘を受けた。というのもそれは、「人間にとっての利益というのはあくまで世界の一部でしかなく、それと噛み合わない=悪ではない」という風に、無意識に自明としがちな人間中心主義的コスモロジーを相対化する発想だからだ(これはAIの件「沙耶の唄」にもつながる重要なテーマである)。
 
 
ゆえに私なら、笑ったイギリス人には次のように問うだろう。「なるほど魂についての考え方が違うというのはいい。ではあなたは、この供養塔があなたの愛猫についてのものだったとしたら、それでも笑うのか?」と。
 
 
これは要するに、環境保護が所詮は恣意的である=人間のエゴに過ぎないという話にもつながる。人は猫や犬を愛でるし、あるいはクジラやイルカの保護を叫びはするが、決してマラリア蚊やツェツェバエについて同じことを言わないし、考えすらしない。
 
 
そういったあなたたちの世界認識の歪み方を不問にしながら、シロアリの供養塔を嗤うのは欺瞞だろう、と(ちなみに言っておくと、クマやイノシシが人間の居住地に現れた際に駆除するのは可愛そうだといった意見を聞くと、現地の苦労も知らずに発言するこういった手合いは愚鈍という言葉にすら値しないと感じるのだが。くだくだしくなるので詳しくは書かないが、それならまずは君がしている食肉をすぐにでもやめたまえ、という話である)。
 
 
前回の記事で私は『中世の秋』や『ホモ・ルーデンス』はコスモロジーに関する著作であり、それらの読解はメタルール性の暴露につながると書いたが、それを具体化すると今述べたとおりになる。
 
 
・・・いや~全然終わんねーわこれ( ̄▽ ̄;)まだ書くべきことが山ほどあるので、続きはまた次回。

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