「男性は女性に奢るべき」・「年上は年下に奢るべき」という観念はもはや通用しない

2023-11-29 13:15:12 | 生活

前回の記事で、「自分は奢ってもらう男性と付き合いたい」とか「自分は女性に奢りたくない」という個人的嗜好は勝手にすればよろしいが、「男は~すべきである」とか「女は~すべきである」と一般的義務として主張するなら、その論理的根拠を示さないと何の説得力もないよと述べた(そして主張に対しては、例えば「女性の大半は奢ってもらいたいと思っている」→「いやデータ的には1/4しかそういう人はいないよ」といった反論が当然ありえる)。というわけで、今回の記事では「男性は女性に奢るべきである」という主張には妥当性があるのかを考えてみたい。

 

まず初めに指摘しておくべきこととして、この認識というか慣行は、「男性は外でバリバリ働き、女性は家で専業主婦として家を守るべきである」という家父長制的発想が広く共有され、実際にそのような分業形態が割合一般的であった時代なら合理的な発想法だったと言える。というのも、そのような仕組みにおいては、男性が女性より経済的に優位であるのは理念上も実態上も「自明」であり、かつその経済力でもって女性を養える=家族を形成するに足る人材であるという「甲斐性」を示す必要さえあったためだ(例えば昔は割合が多かった職場結婚なら、結婚後に多くの女性は寿退社をする=収入源を失う訳だしね)。

 

言い換えれば、男性が女性に奢る行為、すなわち男性から女性への財の移動・再配分的行為は一種の義務的性質すら帯びていた、ということである(日本だけで考えるとわかりにくいので、例えば同じく儒教的伝統の残る中華人民共和国で鄧小平政権以降に拡大したと見られる「彩礼」、すなわち男性の側が相手側に払う結納金なども事例として参考にすべきだろう)。

 

このような傾向は、今もって男性の下方婚志向(ただし一馬力の余裕はないので無職女性はお断り多し)と、女性の上方婚志向として残っているわけだが(だから「稼げない男」と「稼げる女」の未婚率が特に高まる)、ともあれこうした背景(歴史的構造)に思い至ったならば、女性の社会進出が以前より進み、また男性の非正規雇用の割合(≒低所得層)も増えている今、「男性は女性に奢るべき」という主張に一般的了解が成立しえないことは、容易に頷かれることだろうと思う(そもそも皆婚制度の元での家父長制で社会が回っていた時代でさえ、そのような行為が法的な義務とされたケースは管見の限り存在しない。その前提で、あくまで慣行としての妥当性を担保していた社会システムや経済的状況の変化が生じたわけだから、この主張の論理的根拠は消え去っていると言える)。

 

なるほど確かに、今も男女間に収入格差が存在することは平均値・中央値として示されているが、しかしライフステージの多様化が進んでいる以上、「男か女か」という雑なくくりではなく、個人差に注目せねば妥当性を欠く。こうして考えるなら、せいぜい言いうるのは、「食事などの際、収入の多い方が収入が少ない方に奢る事は、経済的にそれなりの合理性・妥当性がある」という程度ではないだろうか(ただし、法的義務でもないものを自分から相手に要求し、あまつさえその不履行を元に相手の社会的信用を貶めるような行為をなしたりそれを示唆するなら、それはもはや「たかり」と呼ばれる脅迫罪に近似し、ゆえにそれを肯定するような行為は犯罪教唆に近くなっていく、ということは注意を喚起したい)。

 

ここで、「女性がデートに際して準備に費用や時間がかかる」云々という話(つまり女性の負担が大きいのだから男性が金銭的負担を軽減して始めてイーブンだということ)が出てきたりするわけだが、男性が車で足を出した分の費用云々といった話で容易に反駁されることはすでに述べた通りで、この反論へヒステリックに反応すればするほど、ますますその人は自己の主張の独善性を暴露することになるだろう。要は、社会的にどちらが妥当な振る舞いかを考えた結果の意見ではなく、単に自分に利益誘導したいだけだと自分で証明していることになるのだ。また前述のデートの準備という理由付けもまた、完全に個人差という要素を無視していることは言うまでもない)。繰り返して言うが、お互いへの好意や経済状況なども踏まえた上での了解事項として(=関係性を構築した上での結果として)、どちからが奢るとか割り勘にするとかを各々決めるのが妥当であって、一般的義務として設定できるものではない、と結論づけることができるだろう。

 

なお、今のような話がジェンダー間の対立に基づいて(もっとはっきり言えばミソジニー的立場で)議論を展開しているとみなされるかもしれないので、少し角度を変えて「年上は年下に奢るべき」という議論なら妥当かも考えてみよう(ここでは、そのようなことが問題になりやすい社会人同士に絞って話を進めたい)。なるほど確かに、(1)年功序列が強固に機能していて、(2)基本的に一つの会社へ勤め上げることが多く、(3)上下関係を非常に尊ぶ儒教的社会であれば、そのような発想は合理性があると言える。「ノーブルズオブリージュ」ではないが、「先達は後進の育成に従事する一環として、食事や飲みの場で金銭面を負担しつつ親睦を深めることを行う」というわけだ。

 

しかしながら、先に述べたような状況が解体しつつあることは、わざわざここで指摘するまでもないだろう。例えば以前なら、総合職は幹部候補生として管理職の座を巡って競争しながら昇進していく仕組みだったわけだが、転職の割合が増えたり、あるいは会社内での年齢構成の歪さもあって、そのような仕組みはもはや成立しにくくなっている。さらに年功序列の崩壊も進んでいるため、「年上=収入が多い」という観念は自明性を失いつつあるし、これからさらに崩れていくものと思われる(まあもちろん、構造転換に失敗して旧来の仕組みの多くが残存し、有能な人間ほど海外に行ったり外資系を目指す蟲毒のような状態が進行していく、みたいな未来も当然ありえるわけだが)。さらに言えば、成熟社会になったことで、キャリアプランやライフステージの多様化も生じているわけで、これもまた先のような共通前提が機能しなくなっており、これからさらに通用しなくなる理由である(ちなみに言っておけば、先に述べた(1)~(3)のような前提がもはや通用しないことを理解せず、その振る舞いを今もって変えられない人間への批判的言辞こそが「老害」だ、と私は考えている)。

 

以上のような理由から、社会人同士で考えると、「年上は年下に奢るべき」という一般的義務の主張はもはや成立の土台を失っていると言える(男女間と同じく、あくまで個々の関係における了解の元で決定されるべき、ということ)。なるほど社会人と学生という立場であれば、それなりの収入を得ている前者と、おそらくパートタイムでの収入しかない後者では金銭的な不均衡があるのが一般的なので、そのような観念もある程度妥当性を持つだろうが、それですら(まあ割合が多くはならないとはいえ)学生での起業が進めば成立しなくなっていくだろう。

 

このように考えていくと、改めて「男性は女性に奢るべきである」とか「年上は年下に奢るべきである」といったことを一般的義務として主張することはもはやできない。可能なのはせいぜい「収入の多い方が収入の少ない方に支払ってあげた方がよいのでは?」というぐらいで、それも当然の義務(=いついかなる時でも妥当するもの)のように要求するのは、いささか無理筋と言えるだろう(まあ奢ってくれる人と奢ってくれない人がいる際に、前者の方になびいて後者を切る・・・といった行動は別に個人の自由なので勝手にすればよいと思うが)。

 

以上を踏まえて、別の記事で述べた成熟社会と日本語や日本的コミュニケーションの相性の悪さに着目すると、成熟社会になったことで多様性と複雑性が拡大した今、言い換えれば共通前提の領域が急速に縮小して不透明性が広がりつつある今日では、「空気を読む」とか「わかり合い」によるコミュニケーションは急速に難易度が上がっている(「男性は女性に奢るべきか」という議論とそれが不毛な言い争いになりがちなのは、そのハレーションの一つに過ぎない)。ゆえに、しっかりと関係性が築かれた間柄でもない限りは、明確に自分のスタンスを主張し、相手のスタンスについても傾聴しないと、そもそもミスコミュニケーションやそれによるストレスが増大するのはむしろ当然なのである。

 

とはいえ、日本語の構造がいきなり変わるわけでないのはもちろん、コミュニケーションの様態が短期間で変わる訳もないし、幼い頃から学校などで他者とプレゼンし合う習慣(全き他者に伝える・全き他者の発言を聞く習慣)もないので、結果として昔のままで振舞っている結果、ごくごく当然のようにあちこちで齟齬が生じてストレスフル社会到来、てのがまあ今日の日本と言えるのではないか(なお、このような社会の不透明化自体は日本だけの現象ではもちろんなく、近代化・成熟社会化の中でどこにでも生じており、その有様を「顔」をモチーフにしながら凶悪犯罪のサスペンスと重ねつつ描いた傑作が、ポン・ジュノ作『殺人への追憶』である)。

 

今述べたことを散文的に言い換えれば、「人間関係の実り(ベネフィット)を感じにくく、一方でそれを構築するコストが上がっている」と表現することができるが、ここに追い打ちをかけるのが、娯楽の氾濫とコスパ・タイパ志向の強化である。そこから、「そんなコストやリスクの上で人間関係を構築してもリターンが少ないのなら、そもそも他者にコミットするのを止めるわ」という志向が出てきたとしても、それはむしろ論理的必然と言えるだろう。

 

おそらく極端な話をしているように見えると思うので、整理するとこういうことだ。

1.人間との関係は軋轢が起こると厄介なので、揉め事は起こさないよう表面的には合わせる(→「皆の前でほめないで下さい」)

2.人間に深入りするのもされるのも面倒なので、悩み事を聞いたりなど深く相手にはコミットしない

3.2の役割は、金銭を払った「カウンセラー」や「ホスト」、「キャバクラ」といった存在でゲーム的に解消する

4.自分の深い部分の理解や承認欲求については、自分の嗜好を熟知してくれ見返りを求めない(?)AIで満たす

 

私は何度となくAIの「進化」と人間の「劣化」というテーマで記事を書いてきたが、それはSF的な漠然とした未来観ではなく、そもそも今現実に起こっている社会構造の転換及び、人間と人間関係の変化の様態観察から、少なくない人間の行動原理がそのように変化していくという未来予測なのである、と述べつつこの稿を終えたい。


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