箱根は身近な保養地で、すこやか歩こう会でも度々旅行に訪れていた場所です。今回平成23年以来六年ぶりに箱根への旅行となりました。忘れていたのですが、その年の旅行については鮮明に思い出しました。
平成23年つまり2011年3月11日に東日本大震災がありました。計画停電が行われており4月16日に予定してた八ヶ岳への旅行の確認のため原村の小松山荘に電話をしてみると、中部電力管内のため停電などはなく、地盤が固いのか地震の影響もなかったとのこと。山の幸での宴会で出た蕗味噌がとてもおいしく、旅行に参加できなかった会長が大いに悔しがっていました。
秋の旅行はこの年度限りで閉鎖が決まっていた保養所強羅目黒荘を最後に訪れるために計画された10月1日から2日の一泊二日。箱根町から芦ノ湖西岸を歩き、桃源台からロープウェイで早雲山、そこから歩いて上強羅にある保養所に泊まったのでした。二日目は歩かずに午後早い時間のロマンスカーで帰途に着いていますが、はつはなで自然薯そばでも食べて、早川のほとりでビールでも飲んでいたのでしょう。強羅目黒荘は売却後改装され「強羅花扇 円かの杜」という宿になり、一泊35,000円から60,000円の高級温泉旅館になってしまいました。敷地内に二本の源泉を持っていたのでいい保養所だったのですが、建物が古くなり貧しい目黒区には維持することが難しかったのです。
六年ぶりの今年は、芦ノ湖東岸を歩く予定だったのですが当日は大雨。三月から三回大涌谷に来ているのですが、初回は雪、二回目は大雨、今回も大雨ということでこの雨は私のせいでしょうか。
写真:箱根湯本駅
今回はクラッシックなスタイルのロマンスカーでした。今も昔も子供に人気があり、箱根旅行は乗り物すべて楽しめますね。若いころには芦ノ湖スカイラインのコーナーを攻めることが楽しかったのですが、今は何より公共交通機関。
写真:箱根登山鉄道
写真:箱根ケーブルカー
雨が降り、立っている人がいるくらい混雑している登山鉄道の窓は曇って外が見えません。エアコンが入り宮ノ下あたりで少し外が見えるようになりました。ケーブルカーも座れません。半分が外国人といった感じでしょうか。
写真:箱根ロープウェイ
メンテナンスのため運休していた早雲山・大涌谷間のロープウェイはやっと再開されましたが霧で何も見えません。桃源台へ向かってゆく方は、少しはましでしたがやはり霧の中です。こちらのロープウェイは5月22日よりひと月間メンテナンスで運休となります。休日は混んでどうしようもないかもしれませんね。
写真:海賊船
桃源台から海賊船に乗りましたが、混んでいて座れません。雨が降っているのでデッキへ行く人がいないせいもあるのでしょうが、こちらのルートの方が混んでいるようです。箱根町港で別の海賊船に乗り換え、元箱根港経由で再び桃源台へ。ビールを飲むくらいしかやることが無い。
写真:大涌谷の黒玉子
ほっかほっかの黒玉子美味しかったです。
写真:国民宿舎箱根太陽山荘
アキさんにこちらのお風呂がいいと聞き、値段も手ごろなので「一度泊まってみましょう」と今回の箱根旅行が実現しました。一般的な国民宿舎の画一的な部屋のイメージとは違い、床の間に大黒様が鎮座しているようなしっかりとした作りの旅館で、建物は登録有形文化財に指定されています。Wikipediaで紹介されていてもよさそうな感じですが、ページがないので「文化遺産オンライン」というページから引用します。
神奈川県
大正/1912-1925/1953増改築
木造2階一部3階建、瓦葺一部鉄板葺、建築面積168㎡
1棟
神奈川県足柄下郡箱根町強羅1320-375
登録年月日:20061129
登録有形文化財(建造物)
本館西に道路を挟んで建つ木造3階建。東下りの傾斜に従って床高に差があり,本館3階から別館2階への渡廊下を道路上に架ける。2階以上が客室で,3階に10畳と6畳の続き間座敷を設ける。切妻造,桟瓦葺で,南面中央に入母屋屋根を突出して変化をつける。
お湯については宿のホームページを引用しましょう。
源泉掛け流しのにごり湯。
木風呂と岩風呂、
趣の異なる風呂が疲れを癒します。
太陽山荘の湯は、大涌谷を源泉とする掛け流しの湯です。
泉質は白濁の硫酸塩泉で、腰痛・肩こり、関節痛、冷え性、皮膚病、傷などに効果があるとされています。
総檜造りの温泉棟は、穏やかな「木風呂」と、野趣豊かな「岩風呂」と、雰囲気の異なる二つのお風呂があり、晩と朝に男女を換えておくつろぎいただけます。
源泉名 : 大涌谷温泉
泉 質 : 酸性-カルシウム・マグネシウム-硫酸塩・塩化物泉
(旧泉質名 酸性-含塩化土類石膏泉)
泉 温 : 源泉 59.2℃
pH : 2.2
入浴時間が夜十時までと早いのですが、一度お湯を抜いて新しい源泉が注がれ、新鮮この上ない温泉です。
写真:国民宿舎箱根太陽山荘
建物に趣があり、ご飯もおいしく、清潔で愛想が良く、本当にいいお宿です。すこやか歩こう会の旅行で、また利用させていただきたいと思います。
写真:強羅公園
写真:前日の雨のなごり
写真:苔
写真:ヒメジョオン
翌朝はウグイスの声で目覚め、二日酔い解消に散歩をしてきました。
写真:強羅駅近くの宿
写真:強羅駅
強羅駅まで下り、登山鉄道を待ちます。
写真:箱根登山鉄道
一番前に陣取り、スイッチバックを堪能しました。
写真:小田原駅西口の北条早雲公像
この日は「歴史と文化の香るまち散策コース 8Km」を歩きます。今回、箱根・小田原旅行を企画した一因はこの方の子孫、というより大河ドラマ真田丸で北条氏政を演じた高嶋政伸の怪演にあります。あのドラマを見て総構えの小田原に興味を持ち総構えを見てみたくなったのです。
写真:浄永寺
小田原駅西口を出て西に向かうと切通しの上り坂があり、その途中にある日蓮宗のお寺です。小田原城の北側に当たるこの辺りはお寺がたくさんありました。本堂の前のシダレザクラはその時期には見事だと思います。
写真:大久保神社
さらに西へ山を登ってゆく感じです。小田原には坂のイメージを持っていませんでしたが、結構なのぼり。せっかく登ったと思ったら大久保神社の参道まで結構な下り坂。また戻ることを考えたら、下りたくない!参道を振り返れば相模湾です。
写真:小田原高校南の忠魂碑など
大久保神社の隣というよりも、小田原高校の海側に東郷平八郎揮毫の忠魂碑と、俳句文学之碑がありました。俳句は調べたけれど誰のもので、何と書いてあるのかわかりません。
写真:牧野信一文学碑
写真:井上康文詩碑
文学碑が多くあるのですが、私にとってはあまり聞いたことが無い人たちでした。
写真:小峰の大堀切
これこそまさに小田原城総構えの痕跡で、今回楽しみにしていた場所です。説明書きを小田原市のホームページから引用しようと思ったら、あまり面白みがないので現地にあった看板を移し書きします。
小田原北条氏時代の小田原城は、全国でも稀にみる規模の大きな縄張りを持った城郭として知られている。
その構築法は、内城(本丸、二の丸、三の丸等)と城下町を囲んだ大外郭を設けて、城下町を戦火から保護するとともに、城外に雄大な防御線を張ろうとする構えであり、当時これを「総構」「総曲輪」と呼ばれ、また大外郭は土塁とその外堀とで作られているところから「総堀」ともいわれている。
小田原城総曲輪は、おそらく小田原北条氏三代氏康の永禄年間頃から作り始められ、上杉謙信、武田信玄などによる再度の来攻の経験などにより次第に拡大され、五代氏直のとき、豊臣秀吉の小田原陣が始まる直前の、天正十八年(1590)早春に完成したものと思われる。
現在ここに見られる空堀遺構は、小田原城中にある三丘陵即ち、谷津丘陵、八幡山丘陵、天神山丘陵の分岐点であり、小田原城にとって最も重要な所と思われる、この空堀、土塁は小田原城の残存遺構の中で最大のものである。
写真:相模湾のビューポイント
写真:フキ畑と竹林
写真:シャクナゲ
写真:箱根登山鉄道
城山公園から南に向かって坂を下り国道一号にぶつかります。
写真:居神神社
東海道に面したこちらの神社の境内をお借りしてお弁当をいただきました。タケノコが出ていたり、珍しいシダがあったり。紺色のきれいな鳥がいて「アオバト」かなぁと思いましたが、かえって調べてみるとアオバトではなかったようです。神社の御由緒は参拝の栞から引用します。
鎮座地 小田原市城山四丁目二十三番地二十九号
御祭神 三浦荒次郎義意公、木花咲耶姫命、火之加具土神
御由緒 創立年月等旧記焼失して詳ならず。古老の口碑に永正年間の勧請と伝えられる。陸奥守従四位下、三浦道寸義同公の息子荒次郎義意公(弾正少弼)は、当年二十一才の若武者・筋骨たくましく八十五人力といわれ、白樫の八角棒を打ち振り群がる北条軍五百余人を次々と薙倒し、獅子奮迅の働きもむなしく永正十五年(一五一八年)七月十一日、早やこれまでと自刃したが、その首級が飛んで当山の古松の枝にかかった。そして三年の間眼を開いたまま落ちなかったと言う。路往く人々これを見て気絶をなし、死に至れる者さえも出たといわれ、この事を聞いた小田原久野総世寺の忠室和尚が、「うつつとも夢とも知らぬ一眠り、浮世の隙を曙の空」と詠んで手向けたところ、首は松の枝から落ち、その時中空に声あり「今より禍いを福に転じ、永く当所の守護神となるべし」と聞こえたという。その松の下に祠を建て荒次郎公の霊を祀ったのが当神社であると伝えられている。
当町十字二丁目、三丁目、四丁目、大窪村板橋の鎮守で、明治六年七月三十日、旧足柄県に於て村社に定められ、明治四十三年九月十日、大窪村板橋浅間神社・同村同字秋葉神社を合併する。
写真:御組長屋
鉄砲組の長屋があったようです。
写真:大久寺
大久保彦左衛門や、烏山藩大久保氏とも関連があるようです。お寺のページから引用します。
小田原藩主大久保家菩提寺 寳聚山隨心院大久寺
天正十九年(1591年)、徳川家康の忠臣であった小田原城主大久保忠世公が建立したお寺です。忠世公は三河出身の戦国武将でしたが、秀吉の小田原征伐の後に家康が関東を任されるにあたり、遠州二俣から相州小田原へ移封せられました。その際、二俣時代に帰依していた僧の自得院日英上人を請招し、大久保家の菩提寺として大久寺を開基しました。
その後、二代忠隣公が政治の謀略によって小田原城を改易されると、小田原大久寺の法灯は一旦途絶えてしまいます。しかし、忠世公の伯父の玄孫の大久保新八郎康任が箱根入湯の道中、大久寺が廃れていることを惜しみ、同地に再興し、今日に至るまで前期大久保家の廟墓を守り続けています。
境内は、東海道線・箱根登山電車・ロマンスカー・新幹線などの線路に囲まれ、歴史のみならず時代の流れも感じることができます。史跡巡りやハイキング、日頃のお散歩の際などは、是非お立ち寄り下さい。また、何かお困りの際はお気軽にご相談下さい。皆様のご来山を心よりお待ちしております。
写真:小田原用水
早川から取水しており、早川上水ともいわれ日本最古の水道。
写真:西海子小路
「西海子」が変化し「サイカチ」となったそうで、その漢字が「皀」なのでしょうか。
写真:ういらう
写真:ういろうの前にある薬屋さん
歴史のある薬屋さんういろう。お菓子のういろうも売っています。その前にも趣のある薬屋さんがありました。ういろうの説明で面白そうなところをWikipediaから抜粋しておきましょう。
江戸時代には去痰をはじめとして万能薬として知られ、東海道・小田原宿名物として様々な書物やメディアに登場した。『東海道中膝栗毛』では主人公の喜多八が菓子のういろうと勘違いして薬のういろうを食べてしまうシーンがある。歌舞伎十八番の一つで、早口言葉にもなっている「外郎売」は、曾我五郎時致がういろう売りに身をやつして薬の効能を言い立てるものである。これは二代目市川團十郎が薬の世話になったお礼として創作したもので、外郎家が薬の行商をしたことは一度もない。
写真:小田原城
時間の制約があり終盤は少しルートを変更して小田原城へ向かいました。大手門から入ると趣があり、最後に天守を見ることが出来ていいルートだと思います。帰りは北へ抜けて駅にも近いので、いいですね。
今回の箱根・小田原旅行は初日雨で歩くことが出来ず残念でしたが、公共交通機関での移動も楽しめるので雨でも楽しむことが出来ました。この点は箱根ならではですね。ブラタモリも見て、箱根の魅力を再認識してまたいろいろと歩いて見たいと思います。
小田原も坂がきついけど、知れば知るほど魅力的な街です。またいつか企画してみようと思います。
この後有志は新宿の千草で反省会。美味しい日本酒をいただきながら大いに反省しました。(なにを?)
すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。
すこやか歩こう会活動スケジュール
平成23年つまり2011年3月11日に東日本大震災がありました。計画停電が行われており4月16日に予定してた八ヶ岳への旅行の確認のため原村の小松山荘に電話をしてみると、中部電力管内のため停電などはなく、地盤が固いのか地震の影響もなかったとのこと。山の幸での宴会で出た蕗味噌がとてもおいしく、旅行に参加できなかった会長が大いに悔しがっていました。
秋の旅行はこの年度限りで閉鎖が決まっていた保養所強羅目黒荘を最後に訪れるために計画された10月1日から2日の一泊二日。箱根町から芦ノ湖西岸を歩き、桃源台からロープウェイで早雲山、そこから歩いて上強羅にある保養所に泊まったのでした。二日目は歩かずに午後早い時間のロマンスカーで帰途に着いていますが、はつはなで自然薯そばでも食べて、早川のほとりでビールでも飲んでいたのでしょう。強羅目黒荘は売却後改装され「強羅花扇 円かの杜」という宿になり、一泊35,000円から60,000円の高級温泉旅館になってしまいました。敷地内に二本の源泉を持っていたのでいい保養所だったのですが、建物が古くなり貧しい目黒区には維持することが難しかったのです。
六年ぶりの今年は、芦ノ湖東岸を歩く予定だったのですが当日は大雨。三月から三回大涌谷に来ているのですが、初回は雪、二回目は大雨、今回も大雨ということでこの雨は私のせいでしょうか。
写真:箱根湯本駅
今回はクラッシックなスタイルのロマンスカーでした。今も昔も子供に人気があり、箱根旅行は乗り物すべて楽しめますね。若いころには芦ノ湖スカイラインのコーナーを攻めることが楽しかったのですが、今は何より公共交通機関。
写真:箱根登山鉄道
写真:箱根ケーブルカー
雨が降り、立っている人がいるくらい混雑している登山鉄道の窓は曇って外が見えません。エアコンが入り宮ノ下あたりで少し外が見えるようになりました。ケーブルカーも座れません。半分が外国人といった感じでしょうか。
写真:箱根ロープウェイ
メンテナンスのため運休していた早雲山・大涌谷間のロープウェイはやっと再開されましたが霧で何も見えません。桃源台へ向かってゆく方は、少しはましでしたがやはり霧の中です。こちらのロープウェイは5月22日よりひと月間メンテナンスで運休となります。休日は混んでどうしようもないかもしれませんね。
写真:海賊船
桃源台から海賊船に乗りましたが、混んでいて座れません。雨が降っているのでデッキへ行く人がいないせいもあるのでしょうが、こちらのルートの方が混んでいるようです。箱根町港で別の海賊船に乗り換え、元箱根港経由で再び桃源台へ。ビールを飲むくらいしかやることが無い。
写真:大涌谷の黒玉子
ほっかほっかの黒玉子美味しかったです。
写真:国民宿舎箱根太陽山荘
アキさんにこちらのお風呂がいいと聞き、値段も手ごろなので「一度泊まってみましょう」と今回の箱根旅行が実現しました。一般的な国民宿舎の画一的な部屋のイメージとは違い、床の間に大黒様が鎮座しているようなしっかりとした作りの旅館で、建物は登録有形文化財に指定されています。Wikipediaで紹介されていてもよさそうな感じですが、ページがないので「文化遺産オンライン」というページから引用します。
神奈川県
大正/1912-1925/1953増改築
木造2階一部3階建、瓦葺一部鉄板葺、建築面積168㎡
1棟
神奈川県足柄下郡箱根町強羅1320-375
登録年月日:20061129
登録有形文化財(建造物)
本館西に道路を挟んで建つ木造3階建。東下りの傾斜に従って床高に差があり,本館3階から別館2階への渡廊下を道路上に架ける。2階以上が客室で,3階に10畳と6畳の続き間座敷を設ける。切妻造,桟瓦葺で,南面中央に入母屋屋根を突出して変化をつける。
お湯については宿のホームページを引用しましょう。
源泉掛け流しのにごり湯。
木風呂と岩風呂、
趣の異なる風呂が疲れを癒します。
太陽山荘の湯は、大涌谷を源泉とする掛け流しの湯です。
泉質は白濁の硫酸塩泉で、腰痛・肩こり、関節痛、冷え性、皮膚病、傷などに効果があるとされています。
総檜造りの温泉棟は、穏やかな「木風呂」と、野趣豊かな「岩風呂」と、雰囲気の異なる二つのお風呂があり、晩と朝に男女を換えておくつろぎいただけます。
源泉名 : 大涌谷温泉
泉 質 : 酸性-カルシウム・マグネシウム-硫酸塩・塩化物泉
(旧泉質名 酸性-含塩化土類石膏泉)
泉 温 : 源泉 59.2℃
pH : 2.2
入浴時間が夜十時までと早いのですが、一度お湯を抜いて新しい源泉が注がれ、新鮮この上ない温泉です。
写真:国民宿舎箱根太陽山荘
建物に趣があり、ご飯もおいしく、清潔で愛想が良く、本当にいいお宿です。すこやか歩こう会の旅行で、また利用させていただきたいと思います。
写真:強羅公園
写真:前日の雨のなごり
写真:苔
写真:ヒメジョオン
翌朝はウグイスの声で目覚め、二日酔い解消に散歩をしてきました。
写真:強羅駅近くの宿
写真:強羅駅
強羅駅まで下り、登山鉄道を待ちます。
写真:箱根登山鉄道
一番前に陣取り、スイッチバックを堪能しました。
写真:小田原駅西口の北条早雲公像
この日は「歴史と文化の香るまち散策コース 8Km」を歩きます。今回、箱根・小田原旅行を企画した一因はこの方の子孫、というより大河ドラマ真田丸で北条氏政を演じた高嶋政伸の怪演にあります。あのドラマを見て総構えの小田原に興味を持ち総構えを見てみたくなったのです。
写真:浄永寺
小田原駅西口を出て西に向かうと切通しの上り坂があり、その途中にある日蓮宗のお寺です。小田原城の北側に当たるこの辺りはお寺がたくさんありました。本堂の前のシダレザクラはその時期には見事だと思います。
写真:大久保神社
さらに西へ山を登ってゆく感じです。小田原には坂のイメージを持っていませんでしたが、結構なのぼり。せっかく登ったと思ったら大久保神社の参道まで結構な下り坂。また戻ることを考えたら、下りたくない!参道を振り返れば相模湾です。
写真:小田原高校南の忠魂碑など
大久保神社の隣というよりも、小田原高校の海側に東郷平八郎揮毫の忠魂碑と、俳句文学之碑がありました。俳句は調べたけれど誰のもので、何と書いてあるのかわかりません。
写真:牧野信一文学碑
写真:井上康文詩碑
文学碑が多くあるのですが、私にとってはあまり聞いたことが無い人たちでした。
写真:小峰の大堀切
これこそまさに小田原城総構えの痕跡で、今回楽しみにしていた場所です。説明書きを小田原市のホームページから引用しようと思ったら、あまり面白みがないので現地にあった看板を移し書きします。
小田原北条氏時代の小田原城は、全国でも稀にみる規模の大きな縄張りを持った城郭として知られている。
その構築法は、内城(本丸、二の丸、三の丸等)と城下町を囲んだ大外郭を設けて、城下町を戦火から保護するとともに、城外に雄大な防御線を張ろうとする構えであり、当時これを「総構」「総曲輪」と呼ばれ、また大外郭は土塁とその外堀とで作られているところから「総堀」ともいわれている。
小田原城総曲輪は、おそらく小田原北条氏三代氏康の永禄年間頃から作り始められ、上杉謙信、武田信玄などによる再度の来攻の経験などにより次第に拡大され、五代氏直のとき、豊臣秀吉の小田原陣が始まる直前の、天正十八年(1590)早春に完成したものと思われる。
現在ここに見られる空堀遺構は、小田原城中にある三丘陵即ち、谷津丘陵、八幡山丘陵、天神山丘陵の分岐点であり、小田原城にとって最も重要な所と思われる、この空堀、土塁は小田原城の残存遺構の中で最大のものである。
写真:相模湾のビューポイント
写真:フキ畑と竹林
写真:シャクナゲ
写真:箱根登山鉄道
城山公園から南に向かって坂を下り国道一号にぶつかります。
写真:居神神社
東海道に面したこちらの神社の境内をお借りしてお弁当をいただきました。タケノコが出ていたり、珍しいシダがあったり。紺色のきれいな鳥がいて「アオバト」かなぁと思いましたが、かえって調べてみるとアオバトではなかったようです。神社の御由緒は参拝の栞から引用します。
鎮座地 小田原市城山四丁目二十三番地二十九号
御祭神 三浦荒次郎義意公、木花咲耶姫命、火之加具土神
御由緒 創立年月等旧記焼失して詳ならず。古老の口碑に永正年間の勧請と伝えられる。陸奥守従四位下、三浦道寸義同公の息子荒次郎義意公(弾正少弼)は、当年二十一才の若武者・筋骨たくましく八十五人力といわれ、白樫の八角棒を打ち振り群がる北条軍五百余人を次々と薙倒し、獅子奮迅の働きもむなしく永正十五年(一五一八年)七月十一日、早やこれまでと自刃したが、その首級が飛んで当山の古松の枝にかかった。そして三年の間眼を開いたまま落ちなかったと言う。路往く人々これを見て気絶をなし、死に至れる者さえも出たといわれ、この事を聞いた小田原久野総世寺の忠室和尚が、「うつつとも夢とも知らぬ一眠り、浮世の隙を曙の空」と詠んで手向けたところ、首は松の枝から落ち、その時中空に声あり「今より禍いを福に転じ、永く当所の守護神となるべし」と聞こえたという。その松の下に祠を建て荒次郎公の霊を祀ったのが当神社であると伝えられている。
当町十字二丁目、三丁目、四丁目、大窪村板橋の鎮守で、明治六年七月三十日、旧足柄県に於て村社に定められ、明治四十三年九月十日、大窪村板橋浅間神社・同村同字秋葉神社を合併する。
写真:御組長屋
鉄砲組の長屋があったようです。
写真:大久寺
大久保彦左衛門や、烏山藩大久保氏とも関連があるようです。お寺のページから引用します。
小田原藩主大久保家菩提寺 寳聚山隨心院大久寺
天正十九年(1591年)、徳川家康の忠臣であった小田原城主大久保忠世公が建立したお寺です。忠世公は三河出身の戦国武将でしたが、秀吉の小田原征伐の後に家康が関東を任されるにあたり、遠州二俣から相州小田原へ移封せられました。その際、二俣時代に帰依していた僧の自得院日英上人を請招し、大久保家の菩提寺として大久寺を開基しました。
その後、二代忠隣公が政治の謀略によって小田原城を改易されると、小田原大久寺の法灯は一旦途絶えてしまいます。しかし、忠世公の伯父の玄孫の大久保新八郎康任が箱根入湯の道中、大久寺が廃れていることを惜しみ、同地に再興し、今日に至るまで前期大久保家の廟墓を守り続けています。
境内は、東海道線・箱根登山電車・ロマンスカー・新幹線などの線路に囲まれ、歴史のみならず時代の流れも感じることができます。史跡巡りやハイキング、日頃のお散歩の際などは、是非お立ち寄り下さい。また、何かお困りの際はお気軽にご相談下さい。皆様のご来山を心よりお待ちしております。
写真:小田原用水
早川から取水しており、早川上水ともいわれ日本最古の水道。
写真:西海子小路
「西海子」が変化し「サイカチ」となったそうで、その漢字が「皀」なのでしょうか。
写真:ういらう
写真:ういろうの前にある薬屋さん
歴史のある薬屋さんういろう。お菓子のういろうも売っています。その前にも趣のある薬屋さんがありました。ういろうの説明で面白そうなところをWikipediaから抜粋しておきましょう。
江戸時代には去痰をはじめとして万能薬として知られ、東海道・小田原宿名物として様々な書物やメディアに登場した。『東海道中膝栗毛』では主人公の喜多八が菓子のういろうと勘違いして薬のういろうを食べてしまうシーンがある。歌舞伎十八番の一つで、早口言葉にもなっている「外郎売」は、曾我五郎時致がういろう売りに身をやつして薬の効能を言い立てるものである。これは二代目市川團十郎が薬の世話になったお礼として創作したもので、外郎家が薬の行商をしたことは一度もない。
写真:小田原城
時間の制約があり終盤は少しルートを変更して小田原城へ向かいました。大手門から入ると趣があり、最後に天守を見ることが出来ていいルートだと思います。帰りは北へ抜けて駅にも近いので、いいですね。
今回の箱根・小田原旅行は初日雨で歩くことが出来ず残念でしたが、公共交通機関での移動も楽しめるので雨でも楽しむことが出来ました。この点は箱根ならではですね。ブラタモリも見て、箱根の魅力を再認識してまたいろいろと歩いて見たいと思います。
小田原も坂がきついけど、知れば知るほど魅力的な街です。またいつか企画してみようと思います。
この後有志は新宿の千草で反省会。美味しい日本酒をいただきながら大いに反省しました。(なにを?)
すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。
すこやか歩こう会活動スケジュール
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