目黒区北部地区 すこやか歩こう会

東横線中目黒駅周辺を拠点に活動するウォーキングクラブです。みんなで歩くと楽しいですよ!時々遠出もしています!!

南東部公園コース 約7.0km

2020-05-14 09:38:52 | 東京都目黒区

緊急事態宣言が延長になって初めてのウォーキングです。宣言中は完全自由参加で活動を行っており、この日は8名のウォーキングとなりました。参加されない会員の中には介護をされている方もおり、「自分が感染することで家族にうつしたくない」「自分が感染すると介護する人がいない」など悲痛な声が聞こえてきます。それぞれ個人でウォーキングをして、宣言終息後にはまた元気に参加されることを期待しています。


目黒川新緑のソメイヨシノ
緊急事態宣言中は電車での移動を避けるため主に目黒区内を歩いており、毎回のようにこの景色を見て季節の移ろいを感じています。


中目黒公園
中目黒公園には広い芝生があり、休日にはそれなりに人が出ています。当初三密(密閉・密集・密接)はand条件で語られ、すべて当てはまるような状況を避けましょうと言われていたと思うのですが、いつのまにかor条件つまり一つでも当てはまる場所は避けましょうということになった気がします。ステイホームが叫ばれ始めた時から次元が変わったということかな。適度な運動で体力、免疫力を保ってください。
報道を個人的に咀嚼して見るとCOVID-19は血管にダメージを与える疾患で、肺炎という形で現れることが多いと理解しています。「NHKスペシャル人体”骨”が出す!最高の若返り物質」は、骨に衝撃を与えると寝ているときに骨が再生されそれと同時に若返りを促すメッセージ物質が体全体を駆け巡り血管や臓器も若返るという内容でした。NHKのページから一部抜粋してみましょう。
骨は常に作り替えられていて、大人では3~5年で全身の骨が入れ替わります。新しく強い骨を維持することで、疲労骨折などを防ぐためです。この作り替えを行っているのが、骨の中にいる細胞、骨を壊す「破骨細胞」と骨を作る「骨芽細胞」です。この二種類の細胞の作り替えのバランスが崩れて起きるのが「骨粗しょう症」です。

では細胞たちはどうやってバランスをとっているのか?実は、作り替えのペースを指示する、いわば建設現場監督となる細胞がいます。「骨細胞」です。骨細胞は「メッセージ物質」といわれる特別な物質によって作り替えの指示を出します。その内容は「骨を作ろう!」「骨を壊そう!」など。スクレロスチンは、骨細胞が出すこのメッセージ物質の一つで「骨を作るのをやめよう!」というちょっと変わった内容のメッセージです。骨細胞は骨の量が増えすぎないように、スクレロスチンによって、骨を作る「骨芽細胞」の数を減らします。ところがスクレロスチンが出過ぎてしまうと、骨量が減ってしまうのです。

なぜそんな異常事態が起きるのか。実は骨細胞には「骨にかかる衝撃を感知する」という働きもあり、衝撃があるかないかによって、新しい骨を作るペースを決めているのです。骨に「衝撃」がかからない生活を続けていると、骨細胞が「スクレロスチン」をたくさん出して、骨芽細胞の数を減らし、骨の建設を休憩させてしまうことが、最新の研究でわかっています。つまり運動をしないで一日の大半を座って生活している現代人は、スクレロスチンが大発生し、知らないうちに骨粗しょう症が進行している可能性があるのです。


記事全体はこちらを参照してください。ウォーキングと睡眠がステイホームより重要だと思っている根拠がこの番組でした。


泡巣

桑の実
子供のころ植物についている泡はみなモリアオガエルの卵隗だと思っていました。


遊具は使用禁止
目黒清掃工場緩衝緑地の遊具ですが、どこでもこのようになっていますね。子供にとってはトラウマの光景となることでしょう。


マリーゴールド

花の影

平和の鐘
前回このコースで歩いた時にジュリアンが植えてあった花壇はマリーゴールドに変わっていました。目黒区民センターにある彫刻花の影は東洋のロダン朝倉文夫氏の作品です。平和の鐘は人間国宝香取正彦氏から寄贈されたものです。


大鳥神社

おしゃれなおうち

竹が育ったお宅

甘藷先生墓道
大鳥神社交差点を通り目黒寄生虫館の前を左折し南下して目黒不動の裏に出ます。


大日如来

お不動様の象徴

役行者
目黒不動尊では新型コロナ感染症のため行者様にすがることもできません。


仁王門

キハナショウブ

大黒天
韋駄天は山門に祀られることが多いそうです。目黒不動尊の山門は仁王門と呼ばれますが、仁王像を寄進したのは山手通りにある和菓子店玉川屋です。キハナショウブの先には三福堂があり、弁財天、恵比寿神、大黒天が祀られているので、その向かいの目黒不動境内に大黒様の石像があるのでしょうか。


石古坂


林試の森公園
林試の森公園西門の前が石古坂です。さらに南へ進むと武蔵小山駅近くに朝日地蔵尊があります。目黒、世田谷、品川の百姓が江戸へ野菜を売りにゆく際朝日に照らされながら石古坂を下ったことでしょう。目黒区のページから引用します。
目黒の坂 石古坂(いしこざか)
更新日:2014年2月3日

「目黒の坂」は、「月刊めぐろ」1972年3月号から1984年2月号の掲載記事を再構成し編集したものです。

目黒の坂 石古坂

下目黒三丁目と品川区小山台一丁目の境、都立林試の森公園正門前に「石古坂」というゆるやかな坂がある。
坂の名は、石ころの多い坂だから「石古坂」と、土地の人はいう。また、江戸の「府内場末其他沿革図書」の「中下目黒滝泉辺之図」には、この坂を石河坂」とあり、そこから転じて「イシコ坂」となったらしいともいわれている。
坂下で米穀商を営む林正雄さんは「以前、この坂は、かなりの急斜面で、大八車なんかが通る時には、ひどく汗を流していました。私も幼いころは、確か、1銭か2銭のだ賃をもらうために、坂下で大八車を待っては、後押しをしたものですよ」
坂下の目黒不動商店街付近には、昭和18年ごろまで、何軒もの芸者屋があり、稽古三味線の音がよく聞けたそうである。また、不動の門前には、待合や料理屋が軒を連らねていたという。
不動門前に比翼塚という石碑がある。これは以前、坂下にあったもので、その碑にまつわる平井権八と小紫の恋物語は、いろいろと脚色され、歌舞伎や人形浄瑠璃で知られ、参拝する男女も多かったという。俳優の長谷川一夫、大江美智子、萬屋錦之介の兄である中村時蔵など、比翼塚にまつわる芝居をする役者さんたちが、よく芝居の前に供養に訪れたという。



目黒七中

円融寺

円融寺釈迦堂

仁王門のわらじ

円融寺仁王門

参道の青梅
円融寺釈迦堂は23区内で最古の木造建築で区内で最初に国指定重要文化財となりました。円融寺の黒仁王についてお寺のページから引用します。
空前の黒仁王尊ブーム!
江戸初期から中期にかけて最盛期を迎えた法華寺(現、圓融寺)でしたが、幕府による不受不施派の弾圧の中で衰微し、元禄11年(1698年)、第19世日附上人が八丈島に流刑されることによって450年続いた日蓮宗法華寺の歴史は幕を閉じました。再び繁栄の時期がおとずれたのは、天台宗に改宗後のことで、それは黒仁王尊信仰の爆発的なブームによるものでした。
田山花袋の『東京の近郊』には「そこにある仁王尊は、昔は中々の流行佛で、寛政年間には、殆ど道もさりあへぬほど、參拜者があったといふ事が何かの本に書いてあったと覺えている」と書かれていますが、確かに『遊歴雑記』(※1)『過眼録』(※2)『新編武蔵風土記稿』(※3)『江戸名所図会』(※4)『武江年表』(※5)『飛鳥川』などの江戸時代の文献には、法華寺の仁王尊が庶民の篤い信仰をあつめていた様子が語られています。
それらの文献によると、最盛期はおよそ天明年間末から寛政年間末にいたる十二、三年間で、門前には茶店が立ち並び、境内では多くの人々が仁王尊にお線香を供えたり、背負わなければならないほどの大きな草鞋を奉納したりして、大変な賑わいぶりだったようです。
おそらく、物見遊山といわれる郊外散策や旅行が当時の庶民の娯楽の一つとして盛んになったことが、仁王尊の参詣と深く関連していると思われますが、なかには宿願成就を願って夜を徹して断食修行するような熱心な信者も多く、仁王門の周囲にはお籠(こも)り堂が数箇所設けられていたそうです。また、仁王尊の床下は、近年まで断食修行をする人が入れるようになっていました。
江戸から法華寺までの道のりは、昔の単位で二里半余りといわれますが、参詣するために最もよく用いられていたのは品川宿からのルートで、通称「碑文谷道」と呼ばれました。碑文谷道は、品川宿の南馬場、今の南品川から西にのびている野道で、平塚村(品川区平塚)より下丸子道(中原街道)を横切ると、武蔵の辻(品川区小山二丁目)に出ます。その角には名物の煤団子(すすだんご)を売る店があったので、別称、煤団子の辻ともいいました。この地には仁王尊繁栄期の寛政元年(1789年)に「右 不動尊 左 仁王尊」と刻まれた道標がたてられました。すなわち、目黒不動尊と碑文谷仁王尊の分岐点がちょうどこの辻だったのです。 この道標は昭和31年の道路改修工事のために僅かに移動され、左右の方向が逆になってしまいましたが、今もなお残されており、仁王尊の参拝者で賑わう当時の様子をしのばせてくれます。



立会川緑道


碑文谷八幡宮

碑文谷の由来となった碑文
円融寺の正面にはかつて立会川が流れており、そのどんつきに碑文谷八幡宮があります。区内最大の神社かもしれません。由来となった碑文は呑川から引き上げられました。


すずめのお宿の古民家は閉鎖中

ヒエンソウ



すずめのお宿緑地の筍

虫食いの葉っぱ
すずめのお宿で休憩をとりました。筍について目黒区のページから引用します。
歴史を訪ねて 目黒のタケノコ
更新日:2013年10月1日

「歴史を訪ねて」は、「月刊めぐろ」昭和54年6月号から昭和60年3月号の掲載記事を再構成し編集したものです。

目黒のタケノコ
「竹の秋」という言葉がある。春ともなれば、木という木、草という草が若葉を出すのに、竹は古い葉が黄ばみ始める。「竹の秋」は、だから春の季語である。
昭和の初めころまで、目黒には竹林があちこちにあった。わざわざ京都へ足を運ばなくても、居ながらにして竹林を渡る風の音を楽しめたわけである。もっとも、目黒の竹林は風流のために植えられたわけではない。農家にとって竹林は、タケノコを栽培するためのものであった。タケノコは重要な農産物だったのである。

目黒式タケノコ栽培法
目黒のタケノコ栽培の最盛期は大正時代。「太く、柔らかく、おいしい」と三拍子そろった「目黒のタケノコ」は、目黒式といわれる独特の栽培法によるものであった。目黒式は、地下茎を掘り起こして、深く掘った溝に埋め直し肥料を施す方法で、目黒の土質に合っていた。
タケノコの出盛りは4月下旬から5月上旬。このころになると、タケノコ栽培農家は、一家総出で、ときには人を雇って収穫した。柔らかいタケノコは、地上に出る前に抜かなければならない。そのために、竹やぶを竹ぼうきで掃き清め、地面のひび割れを探すのである。

「わたしはかけ出していって『あったよー』といってほそい竹の枝にめじるしの赤いきれのついているのをさしていきます。おとなたちが、それを堀りおこします。(中略)『でかいぞ、これはきょうの王様だ』といって兄ちゃんがもち上げたのは高さが二尺(60センチメートル)ぐらい下の方は兄ちゃんのからだぐらいの太さがありました。」(「目黒区郷土研究」269号「小さな文庫」より)

土を掘るにはタケノコヘラ、根元を切り離すにはタケノコノミという独特の農具を使った。収穫したタケノコは、仲買人の手で、神田や駒込などの青物市場へ運ばれていった。

明治初年における孟宗筍の生産地の分布
「東京府志料」によると、明治5年の農産物収入のうち、タケノコによる収入の割合は、碑文谷村で2割弱、衾村で1割弱。上目黒村・中目黒村・下目黒村でも多くはないが採れた。手のかかるタケノコ栽培は、すべての農家で行っていたわけではないので、タケノコ栽培農家にとっては、かなりの収入だったと思われる。「タケノコが採れたら」「タケノコまで待ってくれ」という「タケノコ勘定」という言葉が戦前まであったという。

「孝竹院釈筍翁居士」
そもそも「目黒のタケノコ」の祖は、江戸鉄砲洲の海運業者、山路勝孝であるという。薩摩の藩邸より孟宗竹を幾株か分けてもらって戸越村の彼の別荘地に植えたのが初めといわれている。一説には、薩摩から直接取り寄せたともいわれる。ときに、寛政元年(1789年)(寛永5年とも)のことである。
戸越村後地(現在の品川区小山一丁目、後地小学校そば)に、子孫が建てた孟宗筍栽培記念碑には、次の句が刻まれている。

「櫓も楫も 弥陀にまかせて 雪見哉」(釈竹翁)

ちなみに、法名は「孝竹院釈筍翁居士」とか。

名物も今は昔
土質に合った栽培法によって、タケノコ栽培は戸越村から碑文谷村、衾村などへ広がった。「日本産物誌」(明治6年、伊藤圭介著)の武蔵部には、練馬大根や千住のネギなどと並んで、目黒のタケノコがあげられている。
「目黒のタケノコ」の名を広めるにあたって一役買ったのは、目黒不動前の料亭であった。角伊勢かどいせ・内田屋・大黒屋などの店が、「名物筍飯」として客を呼び、正岡子規ら多くの文人墨客も賞味した。
「目黒のタケノコ」発祥の地である品川の竹林は、大正時代にその多くが宅地化され、代わって世田谷が生産額を増やすようになった。目黒の竹林も、関東大震災を機にだんだん切り開かれていき、その後には鉄道が敷かれ、家が建った。今では、すずめのお宿緑地公園などにわずかに残るだけとなった。「目黒のタケノコ」は忘れられようとしている。

「目黒なる 筍飯も 昔かな」(高浜虚子)



サレジオ教会

三善管理地

碑文谷公園

シャクナゲ
三善管理地は去年の台風で被害があったのか、うっそうとしていた木々が整理されています。樹木の多いこの場所からウグイスの声が聞こえてきました。
碑文谷公園でストレッチをしてこの日は解散しました。ウォーキング後にみんなでワイワイビールを飲む日常が、一日も早く戻ってきてくれることを願います。


すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。


すこやか歩こう会活動スケジュール
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