令和二年度はCOVID-19によりお鷹狩りウォークは中止となってしまいましたが、今年度は11月3日(水・祝)実施へ向けて準備を進めています。
ミッドタウン日比谷
第一生命と農林中金
心字池
旧日比谷公園事務所
「実踏」はコースの選定を目的としてコース案を休日、実際歩く時間帯に運営を委託されている目黒ウォーキング協会で構成する実行委員が歩くものです。今年は6月6日にロングコース、20日にショートコースの実踏を予定していましたが緊急事態宣言により延期されました。6月21日に東京都がまん延防止等重点措置に移行されたので、最小限の人数でロングコースとショートコースを合わて実踏することとなり、区役所の担当三名、協会より三名が出席しました。私自身日比谷に出てくるのは久しぶりとなりました。
日比谷公園のリバティベル
ロングコースのスタートは日比谷公園健康広場。受付、班編成、開会式の段取りを確認しました。班編成を行うことが一番の特徴で、お鷹狩りウォークはフリーウォークではなく班を編成し隊列を作ってウォーキングし「マーチ」を称しています。500名の参加者に対し100名を少し超える程度の実行委員で対応することにより小予算で実施できることに加え、普段気づかないような道を歩いたり歴史を感じたりすることが出来るイベントとなっています。
ストレッチをして実踏スタートは9時33分でした。
法務省
日比谷公園を祝田門から出て祝田橋通りを横断します。橋の歴史をWikipediaから引用します。
1906年(明治39年)、日露戦争の戦勝を祝して皇居外苑を縦断する凱旋道路が造られることになり、日比谷濠の部分は外苑南側の石垣を崩して建設された。一般的な橋と異なり橋の下に空間はなく、濠を分断する堤防のような構造である。本橋で分断された日比谷濠の西側は凱旋濠と呼ばれるようになった。橋名は、皇居外苑側の旧町名である祝田町から採られた。凱旋道路は、現在は内堀通り(東京都道301号白山祝田田町線)と呼ばれている。
内堀通りの皇居とは反対側の歩道を時計回りに進みます。以前は皇居側の歩道を歩いていたのですが、ランナーが増えて反時計回りがルールとなったことから皇居側の歩道はコースとして使えなくなりました。それに加え外桜田門の門扉の修復が行われ11月3日に門扉が閉じられくぐり戸のみの通行となり、桜田門広場が借りられなくなったこともスタート地点を日比谷公園へ変更しなくてはならなかった理由です。
法務省旧本館(赤れんが棟)について法務省のページから引用します。
赤れんが棟は,ドイツ人建築家ベックマンとエンデ両氏の設計にかかるもので,7年余りの歳月を費やして明治28年12月,司法省として竣工されたものです。その後,昭和20年3月,戦災のためれんが壁を残し屋根,床などを焼失したため,昭和23年から同25年にかけて復旧工事を行い,屋根などの形状や材質が一部変更されていましたが,今回の改修工事では明治28年の創建当時の姿に復原され,平成6年12月27日には重要文化財に指定(外観のみ)されました。
警視庁前から見た内堀通り
桜田通りを横断しさらに内堀通りを進みます。植え込みというか緑地帯の草が刈り込まれていました。オリンピックへ向けて不審物を発見しやすいようにとの措置でしょうか。
国会前交差点
国会前交差点の国土交通省合同庁舎から議事堂方面への歩行者用信号機が廃止されており、外務省上交差点で六本木通りを横断しました。このあたり、実踏をしないと気づかない点です。
国会議事堂
日本水準原点
国会前庭洋式庭園
憲政記念館
洋式庭園で水準原点を見て。憲政記念館について館のページから引用します。
憲政記念館は、1970年(昭和45)にわが国が議会開設80年を迎えたのを記念して、議会制民主主義についての一般の認識を深めることを目的として設立され、1972年(昭和47)3月に開館しました。
当館のある高台は、江戸時代の初めには加藤清正が屋敷を建て、その後彦根藩の上屋敷となり、幕末には藩主であり、時の大老でもあった井伊直弼が居住し、後に明治時代になってからは参謀本部・陸軍省がおかれました。
1952年(昭和27)にこの土地は衆議院の所管となり、1960年(昭和35)には、憲政の功労者である尾崎行雄を記念して、尾崎行雄記念財団によって尾崎記念会館が建設され、衆議院に寄贈されました。その後これを拡大して憲政記念館となりました。
尾崎行雄についてはWikipediaから概要を引用します。
尾崎 行雄(おざき ゆきお、1858年12月24日〈安政5年11月20日〉)- 1954年〈昭和29年〉10月6日)は、日本の政治家、教育者。日本の議会政治の黎明期から第二次世界大戦後に至るまで衆議院議員を務め、当選回数・議員勤続年数・最高齢議員記録と複数の日本記録を有することから「憲政の神様」「議会政治の父」と呼ばれる。
正三位勲一等(1946年5月4日付返上)。伊勢神宮内宮前の饗土橋姫神社左隣の参道の奥に鎮座する合格神社の祭神。号は咢堂(がくどう。最初は学堂、愕堂を経て咢堂)。称号は衆議院名誉議員、東京都名誉都民。世界連邦建設同盟(現・世界連邦運動協会)初代会長。
砂防会館
旧李王家邸
国会図書館前、自民党本部前を歩き平河町で青山通りを横断。砂防会館新しくなりましたね。ロッキード事件のイメージが強い会館ですが、Wikipediaから「砂防会館と政治」の記事を引用します。
1957年に砂防会館が完成すると同時に自民党本部が2階と3階にテナントとして入居した。
1966年、永田町に自由民主会館が完成。同年4月、自民党本部が砂防会館から自由民主会館に移転すると、空いた2階、3階に中曽根康弘と田中角栄はそれぞれの派閥の事務所を構えた。田中の後援会「越山会」のほか、4階には中曽根の個人事務所もあった。
「砂防会館」「平河町」(砂防会館の所在地)の名は当時の田中や彼の派閥の代名詞であった。なお、ロッキード事件では、主な現金授受の場所と認定されている。1976年には、田中角栄を題材とした清水一行の小説『砂防会館3F』が発表されている。1976年の逮捕後、田中は個人事務所を隣のイトーピア平河町ビルに移すが、派閥事務所はそのまま残した。1983年12月の衆院選を経た後、田中派は最大の121人にふくれあがり、1984年4月には手狭になった派閥事務所を別館に移した。
かつては前述のように中曽根康弘の個人事務所(2009年限りで退去)、保守新党と国民新党の本部、亀井静香の事務所、減税日本東京事務所(2012年年末に退去)も砂防会館内にあった。解体前まで本館2階には志帥会の事務所が、4階には古賀誠の事務所があった。
2016年3月17日、砂防会館解体前に志帥会(二階派)の派閥総会が開催された。二階派の顧問で衆議院議長を務めた伊吹文明は挨拶の中で「いくつかの政治のドラマがここで繰り広げられてきた。」と述べた。
現在では別館に、志帥会事務局や古賀誠・青木幹雄・森喜朗の個人事務所が入居している。
清水谷公園
プリンス通りを左折し、階段を下りて清水谷公園へ。Wikipediaから大久保利通の暗殺を引用します。
明治11年(1878年)5月14日、馬車で皇居へ向かう途中、紀尾井坂付近の清水谷(東京都千代田区紀尾井町)にて6人の不平士族に殺害された(紀尾井町事件)。暗殺現場は紀尾井坂ではない。享年49〈数え年〉、満47歳没。墓所は東京都港区の青山霊園にある。
日本最古のアスファルト舗装
アスファルトを覆うタイル
サブグランド
絵画館
迎賓館を東門からぐるっと回って正門前へ。正門前の通りは車両が通行できないようになっていました。学習院初等科前の信号を渡り、初等科側へ。今回は東宮御所寄りではなく、反対の歩道を歩く計画です。権田原交差点から神宮外苑へ。
ショートコースのスタートを予定している絵画館前広場はオリンピックの準備のためずいぶん変わっています。日本最古のアスファルトは一部を残しタイルで覆われていますが、アスファルトを保護するためにようでオリンピック後には元に戻るとのこと。絵画館前の草野球場は国立競技場のサブグランドになっています。トラックの方向などは国立競技場に合わせているとのこと。オリンピック・パラリンピック後、サブグランドは解体されてしまいます。サブグランドを持たない国立競技場は陸上競技場として国際大会などには使用できないそうです。
神宮球場
絵画館前広場からオリンピックミュージアムまで、通行が制限されているので神宮球場脇を通りました。この球場も近いうちになくなります。
五輪のモニュメント
織田幹雄の記録
長野オリンピック聖火台(レプリカ)
東京オリンピック1964聖火台(レプリカ)
オリンピックミュージアムは見どころ満載です。休憩は予定していませんが、今回のお鷹狩りのハイライトとなるでしょう。
億ションの公開空地
この公開空地が通れるようになることは一年以上前から期待していました。2020東京オリンピックから一気に時代をさかのぼり、鎌倉時代の勢揃坂へ。勢揃坂は鎌倉街道です。この日すこやか歩こう会も活動があり、ここから南東6キロ先の鎌倉街道芦毛塚を見ていました。
山陽堂書店
熊野神社の脇を通りキラー通り(外苑西通り)へ。青山通りとの交差点手前を右折し、北青山都営住宅を見て、ワールドの脇から青山通りに出ます。表参道交差点で週刊新潮の懐かしい絵を見て渋谷方面へ向かいます。書店のページから歴史を引用します。
昭和6年(1931年)それまであった所に天皇が通る道、御幸通りを造るため現在の場所に移ることになりました。
親戚筋にあたる深川の建築屋が地上3階地下1階店舗件住宅鉄筋鉄骨コンクリートのビルを建てました。一階の店舗にはステンドグラス、屋上には青緑色の瀬戸焼の屋根瓦がのった和洋折衷の建物、そしてお手洗いは当時珍しかった水洗でした。
山陽堂が移る前ここは豆腐屋で、おいしい水の出る井戸があり建築の際地下室に残しました。それが後々功を奏することになります。
昭和20年(1945年)5月25日山の手大空襲で青山表参道一帯は焼け野原と化しました。交差点周辺は逃げ遅れた人々の遺体でいっぱいでした。好運にも山陽堂は頑丈な建物と地下室の井戸水に助けられ焼け残りました。
青山学院大学
お鷹狩りウォークの歴史の中で青学の前を通るのは初めてです。徳川将軍のお鷹狩り一行も大山街道である青山通りを通り目黒駒場の鷹場へ行っていたと思われます。
尾崎豊夕日の丘
青山通りで渋谷の谷には下らずクロスタワー(旧東邦生命ビル)へ。尾崎豊のレリーフはここにあります。
渋谷警察前の歩道橋を渡り、旧東横線跡地である渋谷リバーストリートを歩き、東一丁目交差点からは山手線沿いに恵比寿方面へ。恵比寿駅東口を通り恵比寿ガーデンプレイス。
サッポロビール本社
本社前、ウェスティン前を通り三田橋で山手線を越え、茶屋坂を下り田道広場公園がゴールとなります。前日までの雨予報が覆り比較的涼しい曇り空の下でしたが、久しぶりの二万歩越えで疲れました。ゴールの正確な時間を記録していませんが、13時10分くらいだったと思います。
後半端折り気味となってしまいましたが、コースの見どころについて改めて記事を書きたいと思っています。
すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。
すこやか歩こう会活動スケジュール
ミッドタウン日比谷
第一生命と農林中金
心字池
旧日比谷公園事務所
「実踏」はコースの選定を目的としてコース案を休日、実際歩く時間帯に運営を委託されている目黒ウォーキング協会で構成する実行委員が歩くものです。今年は6月6日にロングコース、20日にショートコースの実踏を予定していましたが緊急事態宣言により延期されました。6月21日に東京都がまん延防止等重点措置に移行されたので、最小限の人数でロングコースとショートコースを合わて実踏することとなり、区役所の担当三名、協会より三名が出席しました。私自身日比谷に出てくるのは久しぶりとなりました。
日比谷公園のリバティベル
ロングコースのスタートは日比谷公園健康広場。受付、班編成、開会式の段取りを確認しました。班編成を行うことが一番の特徴で、お鷹狩りウォークはフリーウォークではなく班を編成し隊列を作ってウォーキングし「マーチ」を称しています。500名の参加者に対し100名を少し超える程度の実行委員で対応することにより小予算で実施できることに加え、普段気づかないような道を歩いたり歴史を感じたりすることが出来るイベントとなっています。
ストレッチをして実踏スタートは9時33分でした。
法務省
日比谷公園を祝田門から出て祝田橋通りを横断します。橋の歴史をWikipediaから引用します。
1906年(明治39年)、日露戦争の戦勝を祝して皇居外苑を縦断する凱旋道路が造られることになり、日比谷濠の部分は外苑南側の石垣を崩して建設された。一般的な橋と異なり橋の下に空間はなく、濠を分断する堤防のような構造である。本橋で分断された日比谷濠の西側は凱旋濠と呼ばれるようになった。橋名は、皇居外苑側の旧町名である祝田町から採られた。凱旋道路は、現在は内堀通り(東京都道301号白山祝田田町線)と呼ばれている。
内堀通りの皇居とは反対側の歩道を時計回りに進みます。以前は皇居側の歩道を歩いていたのですが、ランナーが増えて反時計回りがルールとなったことから皇居側の歩道はコースとして使えなくなりました。それに加え外桜田門の門扉の修復が行われ11月3日に門扉が閉じられくぐり戸のみの通行となり、桜田門広場が借りられなくなったこともスタート地点を日比谷公園へ変更しなくてはならなかった理由です。
法務省旧本館(赤れんが棟)について法務省のページから引用します。
赤れんが棟は,ドイツ人建築家ベックマンとエンデ両氏の設計にかかるもので,7年余りの歳月を費やして明治28年12月,司法省として竣工されたものです。その後,昭和20年3月,戦災のためれんが壁を残し屋根,床などを焼失したため,昭和23年から同25年にかけて復旧工事を行い,屋根などの形状や材質が一部変更されていましたが,今回の改修工事では明治28年の創建当時の姿に復原され,平成6年12月27日には重要文化財に指定(外観のみ)されました。
警視庁前から見た内堀通り
桜田通りを横断しさらに内堀通りを進みます。植え込みというか緑地帯の草が刈り込まれていました。オリンピックへ向けて不審物を発見しやすいようにとの措置でしょうか。
国会前交差点
国会前交差点の国土交通省合同庁舎から議事堂方面への歩行者用信号機が廃止されており、外務省上交差点で六本木通りを横断しました。このあたり、実踏をしないと気づかない点です。
国会議事堂
日本水準原点
国会前庭洋式庭園
憲政記念館
洋式庭園で水準原点を見て。憲政記念館について館のページから引用します。
憲政記念館は、1970年(昭和45)にわが国が議会開設80年を迎えたのを記念して、議会制民主主義についての一般の認識を深めることを目的として設立され、1972年(昭和47)3月に開館しました。
当館のある高台は、江戸時代の初めには加藤清正が屋敷を建て、その後彦根藩の上屋敷となり、幕末には藩主であり、時の大老でもあった井伊直弼が居住し、後に明治時代になってからは参謀本部・陸軍省がおかれました。
1952年(昭和27)にこの土地は衆議院の所管となり、1960年(昭和35)には、憲政の功労者である尾崎行雄を記念して、尾崎行雄記念財団によって尾崎記念会館が建設され、衆議院に寄贈されました。その後これを拡大して憲政記念館となりました。
尾崎行雄についてはWikipediaから概要を引用します。
尾崎 行雄(おざき ゆきお、1858年12月24日〈安政5年11月20日〉)- 1954年〈昭和29年〉10月6日)は、日本の政治家、教育者。日本の議会政治の黎明期から第二次世界大戦後に至るまで衆議院議員を務め、当選回数・議員勤続年数・最高齢議員記録と複数の日本記録を有することから「憲政の神様」「議会政治の父」と呼ばれる。
正三位勲一等(1946年5月4日付返上)。伊勢神宮内宮前の饗土橋姫神社左隣の参道の奥に鎮座する合格神社の祭神。号は咢堂(がくどう。最初は学堂、愕堂を経て咢堂)。称号は衆議院名誉議員、東京都名誉都民。世界連邦建設同盟(現・世界連邦運動協会)初代会長。
砂防会館
旧李王家邸
国会図書館前、自民党本部前を歩き平河町で青山通りを横断。砂防会館新しくなりましたね。ロッキード事件のイメージが強い会館ですが、Wikipediaから「砂防会館と政治」の記事を引用します。
1957年に砂防会館が完成すると同時に自民党本部が2階と3階にテナントとして入居した。
1966年、永田町に自由民主会館が完成。同年4月、自民党本部が砂防会館から自由民主会館に移転すると、空いた2階、3階に中曽根康弘と田中角栄はそれぞれの派閥の事務所を構えた。田中の後援会「越山会」のほか、4階には中曽根の個人事務所もあった。
「砂防会館」「平河町」(砂防会館の所在地)の名は当時の田中や彼の派閥の代名詞であった。なお、ロッキード事件では、主な現金授受の場所と認定されている。1976年には、田中角栄を題材とした清水一行の小説『砂防会館3F』が発表されている。1976年の逮捕後、田中は個人事務所を隣のイトーピア平河町ビルに移すが、派閥事務所はそのまま残した。1983年12月の衆院選を経た後、田中派は最大の121人にふくれあがり、1984年4月には手狭になった派閥事務所を別館に移した。
かつては前述のように中曽根康弘の個人事務所(2009年限りで退去)、保守新党と国民新党の本部、亀井静香の事務所、減税日本東京事務所(2012年年末に退去)も砂防会館内にあった。解体前まで本館2階には志帥会の事務所が、4階には古賀誠の事務所があった。
2016年3月17日、砂防会館解体前に志帥会(二階派)の派閥総会が開催された。二階派の顧問で衆議院議長を務めた伊吹文明は挨拶の中で「いくつかの政治のドラマがここで繰り広げられてきた。」と述べた。
現在では別館に、志帥会事務局や古賀誠・青木幹雄・森喜朗の個人事務所が入居している。
清水谷公園
プリンス通りを左折し、階段を下りて清水谷公園へ。Wikipediaから大久保利通の暗殺を引用します。
明治11年(1878年)5月14日、馬車で皇居へ向かう途中、紀尾井坂付近の清水谷(東京都千代田区紀尾井町)にて6人の不平士族に殺害された(紀尾井町事件)。暗殺現場は紀尾井坂ではない。享年49〈数え年〉、満47歳没。墓所は東京都港区の青山霊園にある。
日本最古のアスファルト舗装
アスファルトを覆うタイル
サブグランド
絵画館
迎賓館を東門からぐるっと回って正門前へ。正門前の通りは車両が通行できないようになっていました。学習院初等科前の信号を渡り、初等科側へ。今回は東宮御所寄りではなく、反対の歩道を歩く計画です。権田原交差点から神宮外苑へ。
ショートコースのスタートを予定している絵画館前広場はオリンピックの準備のためずいぶん変わっています。日本最古のアスファルトは一部を残しタイルで覆われていますが、アスファルトを保護するためにようでオリンピック後には元に戻るとのこと。絵画館前の草野球場は国立競技場のサブグランドになっています。トラックの方向などは国立競技場に合わせているとのこと。オリンピック・パラリンピック後、サブグランドは解体されてしまいます。サブグランドを持たない国立競技場は陸上競技場として国際大会などには使用できないそうです。
神宮球場
絵画館前広場からオリンピックミュージアムまで、通行が制限されているので神宮球場脇を通りました。この球場も近いうちになくなります。
五輪のモニュメント
織田幹雄の記録
長野オリンピック聖火台(レプリカ)
東京オリンピック1964聖火台(レプリカ)
オリンピックミュージアムは見どころ満載です。休憩は予定していませんが、今回のお鷹狩りのハイライトとなるでしょう。
億ションの公開空地
この公開空地が通れるようになることは一年以上前から期待していました。2020東京オリンピックから一気に時代をさかのぼり、鎌倉時代の勢揃坂へ。勢揃坂は鎌倉街道です。この日すこやか歩こう会も活動があり、ここから南東6キロ先の鎌倉街道芦毛塚を見ていました。
山陽堂書店
熊野神社の脇を通りキラー通り(外苑西通り)へ。青山通りとの交差点手前を右折し、北青山都営住宅を見て、ワールドの脇から青山通りに出ます。表参道交差点で週刊新潮の懐かしい絵を見て渋谷方面へ向かいます。書店のページから歴史を引用します。
昭和6年(1931年)それまであった所に天皇が通る道、御幸通りを造るため現在の場所に移ることになりました。
親戚筋にあたる深川の建築屋が地上3階地下1階店舗件住宅鉄筋鉄骨コンクリートのビルを建てました。一階の店舗にはステンドグラス、屋上には青緑色の瀬戸焼の屋根瓦がのった和洋折衷の建物、そしてお手洗いは当時珍しかった水洗でした。
山陽堂が移る前ここは豆腐屋で、おいしい水の出る井戸があり建築の際地下室に残しました。それが後々功を奏することになります。
昭和20年(1945年)5月25日山の手大空襲で青山表参道一帯は焼け野原と化しました。交差点周辺は逃げ遅れた人々の遺体でいっぱいでした。好運にも山陽堂は頑丈な建物と地下室の井戸水に助けられ焼け残りました。
青山学院大学
お鷹狩りウォークの歴史の中で青学の前を通るのは初めてです。徳川将軍のお鷹狩り一行も大山街道である青山通りを通り目黒駒場の鷹場へ行っていたと思われます。
尾崎豊夕日の丘
青山通りで渋谷の谷には下らずクロスタワー(旧東邦生命ビル)へ。尾崎豊のレリーフはここにあります。
渋谷警察前の歩道橋を渡り、旧東横線跡地である渋谷リバーストリートを歩き、東一丁目交差点からは山手線沿いに恵比寿方面へ。恵比寿駅東口を通り恵比寿ガーデンプレイス。
サッポロビール本社
本社前、ウェスティン前を通り三田橋で山手線を越え、茶屋坂を下り田道広場公園がゴールとなります。前日までの雨予報が覆り比較的涼しい曇り空の下でしたが、久しぶりの二万歩越えで疲れました。ゴールの正確な時間を記録していませんが、13時10分くらいだったと思います。
後半端折り気味となってしまいましたが、コースの見どころについて改めて記事を書きたいと思っています。
すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。
すこやか歩こう会活動スケジュール
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