目黒区北部地区 すこやか歩こう会

東横線中目黒駅周辺を拠点に活動するウォーキングクラブです。みんなで歩くと楽しいですよ!時々遠出もしています!!

古代の歴史、武蔵国府・国分寺コース 約6.9km

2018-03-13 09:46:40 | ウォーキング
奇数月の第二週のウォーキングはあまり歩いたことが無いところを歩く企画をしています。前回烏山川の源流をたどるウォーキングを行い、そのあとの企画に野川・仙川を考えていました。野川の源流は日立中央研究所内にあります。国分寺崖線の湧水を集めて野川となるのですが、武蔵国分寺と関連付けをすることにして、今回のコースを野川ウォーキングの初回として企画しました。


写真:馬場東公園
渋谷駅で集合し、井の頭線、京王本線と乗り換え府中へ。この公園をお借りしてウォーキング前のストレッチをしました。今回参考にしたのが「東京文化財ウィーク 府中・国分寺を歩いて見ませんか」という冊子です。その導入を引用します。
 武蔵野の緑に囲まれた府中・国分寺周辺は、古代国家において国府や国分寺が建設され、中心地として発展を遂げました。
 今回は、武蔵国府跡や武蔵国分寺跡などの古代の歴史に触れながら、真姿の池湧水群をはじめとした緑豊かな武蔵野を感じられるコースを設定しました。
 古代の東京を想像しながらのんびりと散策されてみてはいかがでしょうか。

府中を歩こう
 現在の都庁、県庁のような存在で、「国司」と呼ばれる地方官が派遣され、国司が政務を行う役所の中枢施設を「国庁・国衙」といいます。この「国庁・国衙」と関連する役所群などの所在する場所が「国府」と呼ばれます。
 「府中」という市名は「国府の中」という国府の所在場所に由来します。
 国庁の造営は、各地の事例から8世紀前半の平城京遷都頃と考えられますが、国府域が生まれるのは7世紀末へ遡ると考えられます。律令国家における国の中心としての国府の役割は10世紀後半頃には衰退していきますが、府中地域は、古代から中世を通じても政治的拠点として引き継がれます。
 中世には国衙地区に大國魂神社(明治時代以降の名称)の前身である武蔵総社あるいは六所宮と呼ばれる社が築かれます。中世段階では六所宮の地として栄えますが、同時に多摩川を望む交通・軍事上の要地としても重要でした。府中崖線眼下の分倍河原は元弘3年(1333)の合戦場となり、崖上の高安寺には度々鎌倉公方などの陣が置かれました。
 近世では、徳川家康が江戸入府の年に豊臣秀吉の宿泊施設として「府中御殿」を築き、六所宮を手厚く保護しました。甲州街道の宿場町としても栄え、現在に至る街並みが形成されました。



写真:ラグビーのまち府中


写真:馬場大門のケヤキ並木

写真:八幡太郎源義家
馬場大門のケヤキ並木
国指定天然記念物 指定:大正13年12月9日
 馬場大門のケヤキ並木は、大國魂神社の北に延びる参道に所在し、大國魂神社の大鳥居から約600m 続きます。大正13年(1924)に全国で2番目に指定された由緒ある天然記念物です。指定当時は幹周3m以上の巨木が60本以上も整然と並び、その間にイヌシデ、コナラ、スギなどを交えた壮観な様相を呈していました。
 このケヤキ並木は徳川家康が大國魂神社に2条の馬場と並木を寄進したことが始まりといわれ、「馬場」の地名はこの寄進に由来したといわれています。幕末までは馬市も開催されていました。
 大鳥居から北に向かってケヤキ並木を歩いていくと、右側の歩道に源義家像が見えてきます。これは、平成4年に建てられたものですが、初めてケヤキが植えられたのは、平安時代に前九年の役の戦勝祈願成就のお礼として源義家が並木を寄進したという伝承に由来しています。
 更に歩いていくと、京王線府中駅に差し掛かります。江戸時代には、ケヤキ並木周辺は宿場のある甲州街道周辺と比べ人通りが少なかったようですが、明治以降、甲州街道・市中心部・鉄道を結ぶ通りとして発展しました。現在は沿道に商業施設が建ち並び、市の中心地となっています。このため、交通量の増加・市街地化・老木化などによりケヤキ並木の維持が難しくなってきています。地元では、60年近くにわたりケヤキ並木の保全や環境整備を行っています。










写真:大國魂神社
大國魂神社を歩く
 大國魂神社は社伝によれば、景行天皇41 年(111)5月5日の創建で、武蔵国造が代々奉仕したといわれています。奈良時代以降、武蔵国府が当地に置かれると武蔵国内諸神を祀る武蔵総社とされ、小野神社(多摩市一ノ宮)・二宮神社(あきる野市二宮)・氷川神社(さいたま市大宮区高鼻町)・秩父神社(埼玉県秩父市番場町)・金鑽神社(埼玉県神川町二ノ宮)・杉山神社(横浜市緑区西八朔町)の六祭神を祀る六所宮となりました。『吾妻鏡』には、源頼朝の妻・北条政子の安産祈願が行われた関東十社の一つに「武蔵六所宮」が挙げられるなど、古来より武蔵国内の崇敬を集めています。江戸時代には、幕府から社領五百石を寄進され、度々社殿が修造されました。明治4年(1871)に大國魂神社と称するようになりました。
 ゴールデンウィークに1週間行われる例大祭「くらやみ祭」は、様々な神事・附け祭のクライマックスとして5月5日の夕刻から、6張の巨大な太鼓に先導された8基の神輿が渡御します。近世以来の伝統を色濃く残した貴重な祭礼で、東京都の無形民俗文化財に指定されています。

大國魂神社本殿
 本殿には、中央の中殿に大國魂大神等が、東殿・西殿にそれぞれ3柱ずつが祀られています。古くは、それぞれ独立した社殿が3棟建っていたようで、慶長11 年(1606)の古図からもそのことが分かります。
 現存する大國魂神社本殿は、正保3 年(1646)の火事により社殿等をほとんど失った後、徳川4代将軍家綱の再建の命により、寛文7年(1667)に完成したものです。三間社流造の社殿3棟分を隙間なく横に連結した九間社流造という特異かつ希少な形式で、1棟ごとに3社を合わせ祭る相殿造となっています。桁行は約14mあり、棟高も約9mと高く、玉垣で囲まれた本殿は朱漆塗りで、玉垣内に敷き詰められた白玉石に映えます。屋根はもとは檜皮葺でしたが、幕末に銅板葺に変更されています。
 寛文7年の棟札と祈祷札も現存し、祈祷札には家綱の名も記されています。
 多摩地域における公儀普請の作例としても貴重です。




写真:武蔵国府跡(国衙地区)
 国指定史跡 指定:平成21年7月23日
 武蔵国府跡は、奈良平安時代の武蔵国府の中心地にあたる国衙の跡地です。建物跡の一部が復元され、見学施設として開放されています。
 古代国府に関する文献は少ないため、研究には考古学的手法が欠かせません。府中市では、昭和50年以来、継続的に発掘調査を行ってきました。その成果の一つとして、国衙(国司が政を行った役所)の所在場所の判明がありました。この武蔵国府跡を中心に、南北約300m、東西約200mの大規模な区画溝に囲われた地域には、整然と並んだ大型の建物群の跡が発見され、瓦などの特徴的な遺物が出土しています。
 また、調査により、国府全体の様子が徐々に明らかになってきています。国衙付近の東西約2.2㎞、南北約1.8㎞の範囲に竪穴建物が密集しており、この範囲に国衙に関連した空間が広がっていたことが推測されます。一部では、東西・南北に直線に延びる道路や道路に沿って建設された建物の遺構などが発見され、一定の都市計画があったことが分かりました。これまでに都から赴任した国司の館跡、役所と推測される建物跡、井戸や鍛冶工房を備えた住居跡などが見つかっています。
 また、硯や木簡を削る小刀などの役所で使う文房具を始め、土器や鉄製品などの生活道具、施設の名称や人名の書かれた土器などが出土し、そこに住んでいた人々の様子まで分かるようになったのです。



写真:府中観光協会
大國魂神社の隣にあり、トイレなども提供しくれている建物です。東京文化財ウィークの冊子をもらおうと思ったのですが、在庫切れだそうです。2016年8月に作成されたもののようですが、増刷されなかったのですね。


写真:府中高札場
 都指定旧跡 標識:昭和4年10月 旧跡指定:昭和30年3月28日
 府中高札場は、旧甲州街道と府中街道の交差するかつての府中宿の中心地に位置します。高札場とは、江戸時代に幕府の政策や禁止令などを墨で書いた板の札(高札)を掲示する施設です。村や宿場などの中心地に設けられ、幕府の威光を示す重要な役割を果たしていました。
 府中高札場は往来の多い宿場にあったため、他の村よりも多くの高札が掲げられました。天保9年(1838)には10 枚の札が掲げられたことが記録に残っています。その内容は、親兄弟仲良く暮らすように、といった生活態度のことや、宿場駄賃などの生活に密着した内容、切支丹禁止や鉄砲禁止といった幕府の基本政策など内容は多岐にわたっていました。
 以前は街道に面して建っていましたが、昭和40年(1965)、自動車事故があったため、交通事情に配慮し、交差点に対して斜めに付け替えられました。現在では、当時の姿をとどめる高札場は少なく、この高札場は非常に貴重です。



写真:府中市民球場

写真:私設水準点

写真:府中刑務所

写真:早咲きのサクラ

写真:気仙沼ハウス
しばらく府中街道を北上します。左側には武蔵野線の線路の奥に東芝府中工場。エレベーター実験棟が目立ちます。右はなんといっても府中刑務所が目立ちます。その両方が三億円事件の舞台となります。
府中街道から左に入り、国分尼寺跡近くにあった気仙沼ハウス。住所は東京都府中市武蔵台1丁目36-2なので、なぜ気仙沼なのか謎です。









写真:国分尼寺
文化財ウィークの冊子には国分尼寺の項目がないので、Wikipediaの国分寺のページから引用します。
日本の国分寺・国分尼寺の先例として、隋王朝を建てた文帝・楊堅による大興国寺(大興善寺)があった。その後の唐王朝では、則天武后による大雲寺、中宗による竜興寺観、玄宗による開元寺があった。
聖武天皇は、天平9年(737年)には国ごとに釈迦仏像1躯と挟侍菩薩像2躯の造像と『大般若経』を写す詔、天平12年(740年)には『法華経』10部を写し七重塔を建てるようにとの詔を出している。
『続日本紀』『類聚三代格』によれば、天平13年(741年)2月14日(日付は『類聚三代格』による)、聖武天皇から「国分寺建立の詔」が出された。その内容は、各国に七重塔を建て、『金光明最勝王経(金光明経)』と『妙法蓮華経(法華経)』を写経すること、自らも金字の『金光明最勝王経』を写し、塔ごとに納めること、国ごとに国分僧寺と国分尼寺を1つずつ設置し、僧寺の名は金光明四天王護国之寺、尼寺の名は法華滅罪之寺とすることなどである。寺の財源として、僧寺には封戸50戸と水田10町、尼寺には水田10町を施すこと、僧寺には僧20人・尼寺には尼僧10人を置くことも定められた。
国司の怠慢のために、多くの国分寺の造営は滞った。 天平19年(747年)11月の「国分寺造営督促の詔」により、造営体制を国司から郡司層に移行させるとともに、完成させたら郡司の世襲を認めるなどの恩典を示した。これにより、ほとんどの国分寺で本格的造営が始まった。
国分寺の多くは国府区域内か周辺に置かれ、国庁とともにその国の最大の建築物であった。また、大和国の東大寺・法華寺は総国分寺・総国分尼寺とされ、全国の国分寺・国分尼寺の総本山と位置づけられた。
律令体制が弛緩して官による財政支持がなくなると、国分寺・国分尼寺の多くは廃れた。ただし、中世以後も相当数の国分寺が、当初の国分寺とは異なる宗派あるいは性格を持った寺院として存置し続けたことが明らかになっており、国分尼寺の多くは復興されなかったが、後世に法華宗などに再興されるなどして現在まで維持している寺院もある。なおかつての国分寺跡地近くの寺や公共施設(発掘調査など)で、国分寺の遺品を保存している所がある。



写真:ホトケノザ
このあたりは日差しがあって暖かかったんです。




写真:武蔵国分僧寺跡
国分寺を歩こう
 武蔵国分寺は、府中市の国府から北方約2㎞の地に「東山道武蔵路」を挟んだ東西に「僧寺」と「尼寺」が建立されました。国分寺は、天平13 年(741)、聖武天皇による「国分寺建立詔」により全国に建立されたものです。武蔵国分寺は、出土遺物や「漆紙文書」の年代観などから天平宝字年間(757~765)頃に創建されたと考えられます。
 国分寺は全国60余国に建立されましたが、所在地が不明な国もあり、また、同一地域に「僧寺」と「尼寺」が判明され保存されているのは大変貴重です。国分寺としての規模も大きく、七重塔が建立されるなど壮大な寺だったと思われます。
 承和2年(835)に七重塔が落雷により焼失し、その10年後、再建願が出て許可されたことが『続日本後紀』に記されていますが、10世紀前半頃には寺域区画溝が埋没し、徐々に衰退していきます。新田義貞と鎌倉幕府方による分倍河原の合戦(1333)により国分寺は焼失し、建武2年(1335)には義貞により薬師堂が再建されたと伝えられています。
 詔などでは、国分寺は清らかな良い場所を選んで造営するよう定められました。武蔵国分寺の地は、現在も国分寺が法燈を受け継いでいるとともに、国分寺崖線の湧水や緑に恵まれた良好な地であることも重要です。この国分寺にあるような崖線のことを日本の古語で「ハケ」と呼び、大岡昇平『武蔵野夫人』は、この「ハケ」を舞台とした小説です。




写真:金堂基壇の復元工事
金堂を復元するのかと思ったら、復元するのは土台だけのようです。


写真:ちょっと目を引いた木
この時期に青々と葉を茂らせている姿が目を引いたのですが、種類はわかりません。



写真:国分寺
現在でも国分寺というお寺があり檀家がいて墓地もあります。この楼門は国分寺市の重要文化財に指定されています。柳の新芽がきれいだったのですが、うまく写真にすることが出来ませんでした。



写真:お鷹の道遊歩道

写真:武蔵国分寺跡資料館
武蔵国分寺跡資料館は、平成21年10月にオープンしました。史跡武蔵国分寺跡の僧寺地区内、現在の国分寺の東側、おたかの道湧水園内にあります。国分寺村の名主を務めた本多家の屋敷跡です。資料館には、「見る」・「学ぶ」・「訪ねる」をコンセプトにした史跡武蔵国分寺跡を紹介する資料が展示されています。敷地内には湧水源泉もあり、国分寺崖線の静かな雰囲気が伝わる資料館です。




写真:真姿の池湧水群
 都指定名勝 指定:平成10年3月13日
 国分寺崖線下には、湧水点がいくつも見られますが、その一つが、真姿の池とその周辺の「真姿の池湧水群」です。周辺にはケヤキ、スギなどが多く見られ、国分寺崖線の雑木林景観がよく残されています。かつては飲用水としても利用されていました。
 「真姿の池」の名はこの地の伝説が由来となっています。嘉祥元年(848)、皮膚の病に苦しむ玉造小町という女性がいました。小町は、国分寺を訪れ、病気平癒を願い参詣しました。お参りを始めて21日目、一人の童子が小町を池に案内し、この水で身を清めるようにと言い残しました。言われたとおりにすると、病は治り、小町は元の美しい姿を取り戻しました。小町の元の姿(真姿)を映したことから、人々はこの池を「真姿の池」と呼ぶようになりました。
 現在、池には祠があり、弁財天が祀られています。祠の中にはヘビが描かれた絵馬がたくさん奉納されており、病気治癒、安産祈願などのために訪れる人もいます。12年に一度、御本尊の開帳を行っており、平成25年に開帳されました。
 真姿の池周辺は、手入れの行き届いた雑木林に囲まれ、市街地の中にありながら美しい景観が好く残っており、環境省の「名水百選」、東京都の「東京の名湧水57 選」にも選
ばれています。





写真:東山道武蔵路
武蔵国分寺跡 附東山道武蔵路跡
 国指定史跡 指定:大正11年10月12日 追加指定及び名称変更:平成22年8月5日
 武蔵国は、はるか奈良の都に東山道とその支路とでつながっていました。東山道は、近江、美濃、信濃、上野などの国を通り、出羽、陸奥へ至ります。武蔵国府へは、上野国新田駅(群馬県太田市)付近で分岐し、そこから南下します。その道上、国府2km手前に、武蔵国分寺(僧寺と尼寺)が作られました。
 武蔵国分寺の創建年代について、正確な記録は残っていませんが、出土した文字瓦や漆紙文書などの年代観、瓦型式などから、天平宝字年間に完成したと考えられています(第Ⅰ期)。その発展は、9世紀の七重塔炎上後の再建とそれにあわせた主要建物の改修・整備拡充期(第Ⅱ期)、10~11世紀にかけての制度崩壊やそれに伴う衰退期(第Ⅲ期)と、大きく3期に区分し、捉えることができます。
 僧寺は、官道「東山道武蔵路」の東側に建立されました。「中枢部」「伽藍地」「寺院地」の三重の区画から成ります。伽藍配置は、南門、中門、金堂、講堂が一直線に並び、塔が回廊外に置かれる東大寺式です。
 尼寺は、官道「東山道武蔵路」の西側に建立されました。塔はなく、「中枢部」と「伽藍地」の二重の区画から成ります。中枢部の建物としては、金堂と中門、尼坊を確認しています。
 現在、国分寺市は発掘調査の成果をもとに、復元・整備事業を進めています。平成25、26年度には講堂の基壇を復元し、そこに建物の跡を平面表示しました。基壇とは、周囲より一段高く盛られた建物の土台のことですが、側面は瓦で装飾されていたことが分かっています。復元するに当たって、古代の瓦を再現・製作し、部分的に本物の瓦や市民の手作りによる瓦も埋め込みました。今後は、中門、鐘楼、金堂について、復元・整備を進めていく予定です。
 国分寺四小入口交差点を北へ渡り、JR西国分寺駅へ向かうと、車道より3倍近い幅を持つ歩道が現れます。これは、幅12mで真っすぐ造られた官道「東山道武蔵路」を復元・表示したものです。古代道路の大きさを体感しながら、歩いてみてください。


目黒区やその周辺を歩いていると江戸時代を感じさせるものはありますが、今回歩いたところは古代ですから。律令国家となることを定め、仏教を導入して国を治めてゆこうという壮大な構想の一部です。庶民はまだ竪穴式住居だった時代に、荘厳な寺院建築や七重塔などは、どのように受け入れられ、繁栄し、衰退していったのでしょう。
また武蔵国分僧寺跡は三億円事件の現金輸送車が乗り捨てられていた場所でもあります。古代寺院の跡が荒廃し人目につかないような荒れ地になっていたのですね。

今回の国分寺と、野川を関連付ける記事を国分寺市観光協会のページから引用します。
741年、聖武天皇の命により全国に国分寺が建立される際、武蔵国の国府(現在の府中市)の近くに良い土地はないかと選ばれたのが現在の国分寺市です。なぜ選ばれたのか?それは、帰国した遣唐使から伝えられた「四神相応(ししんそうおう)の地」の考えに基づきます。「四神相応」の「四神」とは、東西南北の四方を守護するとされる聖獣のことで
青龍(せいりゅう)
白虎(びゃっこ)
朱雀(すざく)
玄武(げんぶ)
のことを指し、それぞれ特徴のある土地に棲むと言われています。その特徴を説明すると
東:青龍…豊かな川の流れがある
西:白虎…大きな道があり交通の便がよい
南:朱雀…広大な平野や海があり開けている
北:玄武…山や丘陵がある
四神相応の地というのは、古代中国に始まった風水における四聖獣(四神)が東西南北の各方向の地形とフィットする地のことです。国分寺は、東に清流があり、西には当時の大動脈といえる東山道武蔵路、南には広大な平野が広がり、北には国分寺崖線がそびえるという理想の地相であったのです。鎌倉時代末期、国分寺は新田義貞によって残念ながら燃やされてしまったと伝えられていますが、礎石の跡などは残っており、周辺には真姿の池やお鷹の道など、東京都とは思えないのどかな風景が残っています。都会と閑静な佇まいの融合。是非一度、国分寺の地にお立ち寄りください。

ということで、次回の企画は「東:青龍…豊かな川の流れがある」の野川を下ってゆきます。


すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。


すこやか歩こう会活動スケジュール
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 呑川緑道・池上梅園コース 約... | トップ | 小江戸川越コース 約6.4Km »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ウォーキング」カテゴリの最新記事