2013年3月16日に副都市線と東横線が相互直通運転を始めたのですが、この時はすでにこのコースが設定されており、開通初日に川越に行っています。このコースを設定したのは副都心線が開通した2008年以降、池袋での乗り換えなしに渋谷から川越に行けるようになってからです。それ以前にも埼京線に乗れば一本で行けたんですけどね。
渋谷集合で二度くらい川越に行った記憶があるのですが、調べてみると2010年3月20日の一度だけでした。2011年3月19日は地震のためウォーキングを中止、2012年3月17日は雨のため中止しています。
写真:中目黒駅のシデコブシ
写真:Fライナー特急森林公園行
ちょっとピンクがかったシデコブシがきれいですね。Fライナーはいまでは違和感なく乗っていますが、中目黒駅の行き先表示で初めて“Fライナー”の文字を見たときは「???」といった感じでした。Wikipediaから引用します。
「Fライナー」の愛称は以下の2系統の列車に対して付与される。列車種別は運行路線毎に異なり、境界駅で種別変更される。種別名は、一貫して、Fライナー ○○ のように愛称を冠して呼称される(例:副都心線内 → Fライナー 急行 元町・中華街行き、東横線内 → Fライナー 特急 森林公園行き)。
1. 元町・中華街駅 - 小手指駅・飯能駅間
・横浜高速鉄道みなとみらい線・東急東横線 - 特急
・東京メトロ副都心線 - 急行
・西武有楽町線・池袋線 - 快速急行
2. 元町・中華街駅 - 森林公園駅間
・横浜高速鉄道みなとみらい線・東急東横線 - 特急
・東京メトロ副都心線 - 急行
・東武東上本線 - 急行
「Fライナー」の愛称は、
・速達性をイメージした「Fast」
・相互直通運転を行う5社「Five」
・「Fukutoshin」(副都心)
これらの共通となる頭文字「F」に由来し、ロゴマークにも「F」が使用される。
Fライナーの運航開始は2016年3月26日で、すこやか歩こう会の川越行きでFライナーを使うのは今年で二回目ということになります。その前は東武線区間が各駅だったので、東武線区間を急行で走行するFライナーになって、川越到着が6分早くなりました。
写真:川越八幡宮
写真:民部稲荷神社
川越八幡宮境内にある民部稲荷神社。額が下手な画像合成のようになっていますが、合成したものではありません。ここは珍しい足腰にご利益のある神社で、我々のようなウォーキングクラブのメンバーにとっては御利益に預かりたいところです。川越八幡宮のページから引用します。
相撲をとった狐さんのお話
(TBS放送「まんが日本昔ばなし」にて紹介)
昔、八王子の近くの丘の上に年をとった狐が侍に化け「民部」と名乗り住んでいました。この狐、話し相手がほしかったのか、近所の寺の小僧さんを自分の家に呼んでは、夜遅くまで帰そうとしませんでした。しかしある日、しきりに寺をぬけ出す小僧さんを不思議に思った和尚さんが 「お前は、いつもこんな時間にどこへ出かけるのだ」と尋ねたところ、「実は、ここから少し行ったところにあるお侍様のお家に毎晩呼ばれているのです」
と答えました。
和尚さんはそんな所に侍の屋敷が無いことは知っています。小僧さんが物の怪に化かされているに違いないと思い、一計を案じてこう言いました。「それでは、お前がお世話になっているお侍様にお礼を言って、わしもご挨拶をしたいから一度お越しくださるよう頼んできておくれ」これを問いた小僧さんは 早速この話を民部に伝えました。そして次の日の夜。供のものをつれた民部は寺にやってきました。「本日はお招きくださってありがとうございます」「いやいや、こちらこそ小僧がいつもお世話になっているようで」
和尚さんは民部を手厚くもてなします。杯を重ねるごとに四方山話に花が咲き相撲の話になったときです。「実は私、相撲が大好きでしてな、供回りの者と小僧さんで相撲の勝負をするというのはいかがですかな」と民部が言いました。「それは面白そうですな、どれ一つやってみなさい」和尚さんも小僧さんに言いました。
そしてこの日は、相撲を見ながら皆で楽しく過ごしました。翌日、小僧さんが庭掃除に行くと昨日、相撲を取ったあたりに狐の毛がたくさん散らばっていました。これを見た和尚さんは、「やはり、物の怪の仕業だったか。しかし別に悪さをしているわけではないしのう。取り合えず昨日のお礼でもしておくか」と言い民部に会いに行きました。
ところが和尚さんに会った民部は悲しそうに、「昨日はありがとうございました。せっかく知り合いになれたのに寂しいのだが、故あって、川越の梵心山に移ることになりました。あなた方のことは忘れません。友達になった印に私たちに古くから伝わる打ち身の手当ての術を教えましょう」と言って術を教え去っていきました。
この梵心山にいつの頃からか民部稲荷があったのですが荒廃してしまい、後に川越八幡宮の境内に移され相撲の絵馬が今も収められています。打ち身、挫きの時絵馬を納めると霊験が有るとされています。また面白いことに相撲にこじつけ、四畳半相撲の水商売の人たちの信仰が盛んな頃もありました。その後梵心町に民部稲荷が再建されましたが、現在は丸広百貨店の守護神として屋上に鎮座しています。
写真:川越第一中学奉納
写真:縁結び祠
ご由緒についても神社のページから引用します。
当社・川越八幡宮は、第68代・後一条天皇の時代の長元3年(1030)に甲斐守源頼信によって創祀されたと伝えられています。長元元年(1028)、下総国(千葉)の城主前上総介平忠常は朝廷に謀反を企て、安房、上総、下総の3カ国を従わせ、大軍を起こして武蔵国に攻め入りました。この乱は長元の乱と言われ、3年に渡り鎮圧できませんでした。有力武士だった冷泉院判官代甲斐守源頼信が長元3年に平忠常追討の倫旨を賜りました。
源頼信は当地で必勝祈願を行い、敵陣に斬り込んだところ、忠常の軍勢はたちまちに乱れました。そして三日三夜の間、追討してついに乱を平定しました。頼信は神様の御神威に深く感謝して、すぐに当地に八幡神社を創祀しました。これが当社の創建です。
当時このあたりは、豪族河越氏の所領で鎌倉時代、神社後方に河越氏の館がありました。応永32年(1425)には、関東管領足利持氏河越兵庫助の館跡地の半分を当神社に日供料として寄進したといわれています。長禄元年(1457)、川越城が完成しました。築城の名手だった太田道灌は当神社を篤く崇敬し、分霊を川越城内の守護神として奉斎しました。
爾来、川越の歴代城主、城代の崇敬が深く、特に天正18年(1590)以来の城主・酒井氏一族の崇敬はすこぶる篤く、社殿の造営、神田、神宝の寄進が相次ぎました。酒井氏は国替後も崇敬を加え、しばしば改築費、修繕費等を奉納しました。文化9年7月1日(1812)、姫路城主・酒井雅楽頭源朝臣忠衛は御神号「河越八幡宮」(文字は向鳩形)の額と掛物一幅を奉納しました。寛永2年(1625)には、徳川家光公が日光社参の折、酒井備後守忠利が道中安泰の祈願をし、その功により葵紋付祭器具の寄進がありました。
明治維新の際には、別当万蔵寺を廃しましたが、川越城主の地の人々は当社を川越の守護神として崇敬しています。昭和51年秋に、当社は埼玉県にて一社、神社本庁第一次神社振興対策モデル神社に指定されました。
創建から約980年、今も変わらず当社は篤い崇敬を受け、関東一円より多くの皆様からご参拝をいただいております。
写真:川越工業高校
NHKの街歩きスペシャル川越は、この高校の卒業生であるハウンドドッグの大友康平さんがナレーションをしていました。日本ハムファイターズの大型内野手太田賢吾選手も卒業生で、今シーズンの活躍が期待されます。
写真:納豆屋さん
モヤモヤさまぁ~ずの「川越」では、小野食品の仙波豆腐が紹介されていましたが、川越で納豆といえばこちらの「渡辺納豆」が有名なようです。
写真:中院のアセビ
写真:中院の枝垂れとミモザ
写真:中院のユキヤナギ
中院へ向かう途中、光西寺の川越藩主松井・松平家墓所にあるシダレザクラが二分咲きだったのが見え、中院のシダレザクラも期待が出来ました。中院の歴史についてWikipediaから引用します。
平安時代、淳和天皇の勅許で円仁(慈覚大師)が建立し、当初は無量寿寺仏地院と号した。鎌倉時代、尊海僧正によって再建する。日蓮が尊海僧正より恵心流の伝法灌頂を受ける。東国580ヶ寺の本山の勅書を受けるなど隆盛を極めた。無量寿寺には仏蔵院(北院)、仏地院(中院)、多聞院(南院)が存在し、後伏見天皇が尊海僧正に命じ関東天台宗の本山とした。天台宗の学問所である仙波談義所が開かれ関東八檀林の一つとして栄えた。天海大僧正が喜多院(北院)の住職となるまでは、中院が無量寿寺の中心的な役割を果たした。仙波東照宮建立の際に中院は移動した。
・ 830年(天長7年)円仁は淳和天皇の勅許により、仏地院(中院)を建立する。
・ 941年(天慶4年)天慶の乱により、焼失する。
・1296年(永仁4年)尊海は成田氏の外護により、伽藍を再建する。
・1296年(永仁4年)仙波談義所が開かれる。
・1537年(天文6年)北条氏の侵攻により、焼失する。
・1632年(寛永9年)伽藍を再建する。
・1638年(寛永15年)川越大火により、焼失する。
・1639年(寛永16年)現在の地に移転する。
・1733年(享保18年)本堂を再建する。
・1945年(昭和20年)釈迦堂・薬師堂、焼失する。
・1983年(昭和58年)釈迦堂を再建する。
・2012年(平成24年)薬師堂を再建する。
1296年には「成田氏」の文字が見えます。今度バスハイクで行くさきたま古墳公園がある行田市の忍城城主「成田長親」の祖先ですね。1639年に現在の地に移転したため、中院が南院より南に置かれることになりました。
写真:南院遺跡
北院(喜多院)、中院、南院とあったのですが明治初頭の廃仏毀釈により、南院だけ廃寺になってしまいました。その遺物を集めたのがここ、南院遺跡となります。
写真:仙波東照宮
写真:仙波東照宮のスミレ
写真:仙波東照宮のエドヒガンザクラ
写真:仙波東照宮葵庭園
もともと中院があった場所に、徳川家康を祀る東照宮が建立されました。仙波東照宮について観光協会のページから引用します。
東照宮といえば徳川家康を祀った日光東照宮が有名だが、日本各地数多くの東照宮があれど、川越は日本三大東照宮の一つで、仙波東照宮といい、喜多院の南側に隣接している。
元和2年(1616)駿府で徳川家康公が没し、その遺骸を静岡から日光山へ移葬する途中、天海僧正によって喜多院で四日間の法要が営まれたことから、寛永10年(1633)建立された。
それから5年後の寛永15年(1638)、「寛永の大火」と呼ばれる大火事でよって、喜多院山門を残し、焼け落ちたが、徳川家光より喜多院復興の命令がが下ると、まず東照宮の再建が行われ寛永17年(1640)に完成した。
中院の歴史にもあるように、川越は何度か大火が発生しているのですが、太平洋戦争での空襲被害が軽微だったため、東京ではあまり残らなかったような古い桜の木が残されています。仙波東照宮のエドヒガンザクラもその一つでソメイヨシノより少し早目に咲きます。このような桜の古木が川越観光の魅力の一つと考えています。Wikipediaの「エドヒガン」のページから引用します。
エドヒガンは落葉高木であり、樹高はおおよそ15m-25m。葉は楕円形で長辺が5-10cm。名前の通り春の彼岸ごろに花を咲かせる。ソメイヨシノより早く花が着き始める。花は薄紅色から白で花弁は5枚で一重。萼の付け根が丸く膨らんでいるため見分けやすい。葉より先に花が咲き、咲きはじめは他種に比べると一週間から十日ほど早い。ヤマザクラと共にサクラの中では非常に長寿の種であることが知られており、樹齢2000年を超えるといわれる神代桜や樹齢1500年を超える淡墨桜、樹齢1000年と言われる樽見の大桜、その他にも樹齢300年を越える石割桜などが有名である。花が多く咲く特性から多くの品種の母種として使われている。また、ソメイヨシノの片親としても知られている。
写真:喜多院慈恵堂
写真:三代将軍お手植え桜(二代目)
写真:多宝塔
喜多院をゆっくり見たことが無いのですが、堀を巡らせた大きなお寺で川越観光の目玉の一つです。喜多院のページから引用します。
創建と歴史
天台宗川越大師喜多院は、仙芳仙人の故事によると奈良時代にまでさかのぼるかもしれません。伝えによると仙波辺の漫々たる海水を法力により除き、そこに尊像を安置したといいますが、平安時代、淳和天皇の勅により天長7年(830)慈覚大師円仁により創建された勅願所であって、本尊阿弥陀如来をはじめ不動明王、毘沙門天等を祀り、無量寿寺と名づけました。
その後、元久2年(1205)兵火で炎上の後、永仁4年(1296)伏見天皇が尊海僧正に再興せしめられたとき、慈恵大師(元三大師)をお祀りし官田50石を寄せられ関東天台の中心となりました。
正安3年(1301)後伏見天皇が東国580ヶ寺の本山たる勅書を下し、後奈良天皇は「星野山-現在の山号」の勅額を下しました。更に天文6年(1537)北条氏綱、上杉朝定の兵火で炎上しました。
慶長4年(1599)天海僧正(慈眼大師)は第27世の法灯を継ぎますが、慶長16年(1611)11月徳川家康公が川越を訪れたとき親しく接見しています。そして天海の意見により寺領4万8000坪及び500石を下し、酒井備後守忠利に工事を命じ、仏蔵院北院を喜多院と改め、又4代徳川家綱公のとき東照宮に200石を下すなど寺勢をふるいました。
寛永15年(1638)1月の川越大火で現存の山門(寛永9年建立)を除き堂宇はすべて焼失しました。そこで3代将軍徳川家光公は堀田加賀守正盛に命じてすぐに復興にかかり、江戸城紅葉山(皇居)の別殿を移築して、客殿、書院等に当てました。家光誕生の間、春日局化粧の間があるのはそのためです。その他慈恵堂、多宝塔、慈眼堂、鐘楼門、東照宮、日枝神社などの現存の建物を数年の間に相次いで再建し、それが今日文化財として大切に保存されています。
尚、明治維新の神仏分離令からは東照宮、日枝神社は別管理となっています。
写真:成田山川越別院本堂
写真:不動明王
写真:四国霊場御砂踏
写真:不動明王剣
御賓頭盧様にお願いし、八十八カ所もめぐってきました。成田山のご本尊はお不動様なのですね。毎月28日には蚤の市が開かれるそうです。
写真:浮島公園
元は神社の境内だったようで、奥に浮島神社があるのですが、ずいぶんさびれて見えます。結構以前から神社の管理者がいなくなって、市営の公園になったという感じです。
写真:川越まつりの山車の保管所
すごい高さがありますが、電線にかからないようにルートが決まっているのでしょうね。
写真:川越城本丸御殿
写真:道灌まんじゅう
写真:中ノ門堀跡
写真:手打ちそば百丈
川越城は天守はありませんが大きなお城で、県庁前にあるこのお蕎麦屋さんの場所も城内だったようです。県庁前には築城主の太田道灌像があります。川越城についてWikipediaから引用します。
概要
武蔵野台地の北東端に位置する平山城。1848年(嘉永元年)に建られた本丸御殿の一部が現存する(埼玉県有形文化財)。かつての城は、現在の初雁公園から川越市役所に至る広さであった。大半は失われ、二の丸跡は川越市立博物館・川越市立美術館、三の丸跡は埼玉県立川越高等学校となっているが、高校の南に、小高い丘の「富士見櫓」跡(埼玉県指定史跡)が残り、頂に御嶽神社と浅間神社が建っている。川越城には天守はなく、宇都宮城の清明台櫓と同様に、城の中で一番高い所にあった富士見櫓が天守の代わりをしていた。富士見櫓は三層と考えられている。
中世から近世にかけて改築がなされ規模を大きく変えた。藩政時代には、酒井忠勝・松平信綱(知恵伊豆)や柳沢吉保など、幕府の要職についた歴代藩主が多く、幕閣の老中数7名は全国でも最多の藩の1つであり、江戸時代中期までは「老中の居城」であった(中期以降は親藩)。
歴史・沿革
室町幕府より関東の押さえとしておかれた鎌倉府は、鎌倉公方足利氏と、その補佐役である関東管領上杉氏との内部対立が生じ、1454年に公方が管領を殺害するに至り、関東を戦乱の世とした享徳の乱が勃発、鎌倉府は壊滅し、公方は古河に拠点を構え、関東を二分した(古河公方)。 武蔵国は上杉氏と古河公方の対立の最前線となったため、足利氏の勢力(古河城や関宿城・忍城など)に対抗する上杉氏の本拠地として、1457年(長禄元年)、扇谷上杉氏の上杉持朝は、家宰の太田道真、太田道灌父子に川越城(河越城)の築城を命じ、自ら城主となった。また、南方の下総国との国境に江戸城も築城させ、道灌が江戸城主となった。さらに、両城を軍事道路(後の川越街道)で結び、古河公方への防衛線を構築した。
写真:菓子屋横丁
写真:なんだかわからないハシビロコウ
写真:川越まつり会館
写真:時の鐘
札ノ辻あたりは歩道も狭いので、観光客があふれている感じでした。小江戸川越は情緒があって観光にはいい街なのですが、道が狭くて人と車の住みわけが課題のようです。
この日は一日奇麗な青空でしたが、夕方になって風が冷たくなりました。
写真:出世稲荷神社
大正浪漫通りを通り、出世稲荷神社を最後にお参りし、境内をお借りしてウォーキング後のストレッチを行います。
その後東武線川越市駅まで歩きました。森林公園から来るFライナーはそこそこ混んでいたのですが、皆どうにか席を見つけて中目黒まで座って帰ることが出来ました。
すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。
すこやか歩こう会活動スケジュール
渋谷集合で二度くらい川越に行った記憶があるのですが、調べてみると2010年3月20日の一度だけでした。2011年3月19日は地震のためウォーキングを中止、2012年3月17日は雨のため中止しています。
写真:中目黒駅のシデコブシ
写真:Fライナー特急森林公園行
ちょっとピンクがかったシデコブシがきれいですね。Fライナーはいまでは違和感なく乗っていますが、中目黒駅の行き先表示で初めて“Fライナー”の文字を見たときは「???」といった感じでした。Wikipediaから引用します。
「Fライナー」の愛称は以下の2系統の列車に対して付与される。列車種別は運行路線毎に異なり、境界駅で種別変更される。種別名は、一貫して、Fライナー ○○ のように愛称を冠して呼称される(例:副都心線内 → Fライナー 急行 元町・中華街行き、東横線内 → Fライナー 特急 森林公園行き)。
1. 元町・中華街駅 - 小手指駅・飯能駅間
・横浜高速鉄道みなとみらい線・東急東横線 - 特急
・東京メトロ副都心線 - 急行
・西武有楽町線・池袋線 - 快速急行
2. 元町・中華街駅 - 森林公園駅間
・横浜高速鉄道みなとみらい線・東急東横線 - 特急
・東京メトロ副都心線 - 急行
・東武東上本線 - 急行
「Fライナー」の愛称は、
・速達性をイメージした「Fast」
・相互直通運転を行う5社「Five」
・「Fukutoshin」(副都心)
これらの共通となる頭文字「F」に由来し、ロゴマークにも「F」が使用される。
Fライナーの運航開始は2016年3月26日で、すこやか歩こう会の川越行きでFライナーを使うのは今年で二回目ということになります。その前は東武線区間が各駅だったので、東武線区間を急行で走行するFライナーになって、川越到着が6分早くなりました。
写真:川越八幡宮
写真:民部稲荷神社
川越八幡宮境内にある民部稲荷神社。額が下手な画像合成のようになっていますが、合成したものではありません。ここは珍しい足腰にご利益のある神社で、我々のようなウォーキングクラブのメンバーにとっては御利益に預かりたいところです。川越八幡宮のページから引用します。
相撲をとった狐さんのお話
(TBS放送「まんが日本昔ばなし」にて紹介)
昔、八王子の近くの丘の上に年をとった狐が侍に化け「民部」と名乗り住んでいました。この狐、話し相手がほしかったのか、近所の寺の小僧さんを自分の家に呼んでは、夜遅くまで帰そうとしませんでした。しかしある日、しきりに寺をぬけ出す小僧さんを不思議に思った和尚さんが 「お前は、いつもこんな時間にどこへ出かけるのだ」と尋ねたところ、「実は、ここから少し行ったところにあるお侍様のお家に毎晩呼ばれているのです」
と答えました。
和尚さんはそんな所に侍の屋敷が無いことは知っています。小僧さんが物の怪に化かされているに違いないと思い、一計を案じてこう言いました。「それでは、お前がお世話になっているお侍様にお礼を言って、わしもご挨拶をしたいから一度お越しくださるよう頼んできておくれ」これを問いた小僧さんは 早速この話を民部に伝えました。そして次の日の夜。供のものをつれた民部は寺にやってきました。「本日はお招きくださってありがとうございます」「いやいや、こちらこそ小僧がいつもお世話になっているようで」
和尚さんは民部を手厚くもてなします。杯を重ねるごとに四方山話に花が咲き相撲の話になったときです。「実は私、相撲が大好きでしてな、供回りの者と小僧さんで相撲の勝負をするというのはいかがですかな」と民部が言いました。「それは面白そうですな、どれ一つやってみなさい」和尚さんも小僧さんに言いました。
そしてこの日は、相撲を見ながら皆で楽しく過ごしました。翌日、小僧さんが庭掃除に行くと昨日、相撲を取ったあたりに狐の毛がたくさん散らばっていました。これを見た和尚さんは、「やはり、物の怪の仕業だったか。しかし別に悪さをしているわけではないしのう。取り合えず昨日のお礼でもしておくか」と言い民部に会いに行きました。
ところが和尚さんに会った民部は悲しそうに、「昨日はありがとうございました。せっかく知り合いになれたのに寂しいのだが、故あって、川越の梵心山に移ることになりました。あなた方のことは忘れません。友達になった印に私たちに古くから伝わる打ち身の手当ての術を教えましょう」と言って術を教え去っていきました。
この梵心山にいつの頃からか民部稲荷があったのですが荒廃してしまい、後に川越八幡宮の境内に移され相撲の絵馬が今も収められています。打ち身、挫きの時絵馬を納めると霊験が有るとされています。また面白いことに相撲にこじつけ、四畳半相撲の水商売の人たちの信仰が盛んな頃もありました。その後梵心町に民部稲荷が再建されましたが、現在は丸広百貨店の守護神として屋上に鎮座しています。
写真:川越第一中学奉納
写真:縁結び祠
ご由緒についても神社のページから引用します。
当社・川越八幡宮は、第68代・後一条天皇の時代の長元3年(1030)に甲斐守源頼信によって創祀されたと伝えられています。長元元年(1028)、下総国(千葉)の城主前上総介平忠常は朝廷に謀反を企て、安房、上総、下総の3カ国を従わせ、大軍を起こして武蔵国に攻め入りました。この乱は長元の乱と言われ、3年に渡り鎮圧できませんでした。有力武士だった冷泉院判官代甲斐守源頼信が長元3年に平忠常追討の倫旨を賜りました。
源頼信は当地で必勝祈願を行い、敵陣に斬り込んだところ、忠常の軍勢はたちまちに乱れました。そして三日三夜の間、追討してついに乱を平定しました。頼信は神様の御神威に深く感謝して、すぐに当地に八幡神社を創祀しました。これが当社の創建です。
当時このあたりは、豪族河越氏の所領で鎌倉時代、神社後方に河越氏の館がありました。応永32年(1425)には、関東管領足利持氏河越兵庫助の館跡地の半分を当神社に日供料として寄進したといわれています。長禄元年(1457)、川越城が完成しました。築城の名手だった太田道灌は当神社を篤く崇敬し、分霊を川越城内の守護神として奉斎しました。
爾来、川越の歴代城主、城代の崇敬が深く、特に天正18年(1590)以来の城主・酒井氏一族の崇敬はすこぶる篤く、社殿の造営、神田、神宝の寄進が相次ぎました。酒井氏は国替後も崇敬を加え、しばしば改築費、修繕費等を奉納しました。文化9年7月1日(1812)、姫路城主・酒井雅楽頭源朝臣忠衛は御神号「河越八幡宮」(文字は向鳩形)の額と掛物一幅を奉納しました。寛永2年(1625)には、徳川家光公が日光社参の折、酒井備後守忠利が道中安泰の祈願をし、その功により葵紋付祭器具の寄進がありました。
明治維新の際には、別当万蔵寺を廃しましたが、川越城主の地の人々は当社を川越の守護神として崇敬しています。昭和51年秋に、当社は埼玉県にて一社、神社本庁第一次神社振興対策モデル神社に指定されました。
創建から約980年、今も変わらず当社は篤い崇敬を受け、関東一円より多くの皆様からご参拝をいただいております。
写真:川越工業高校
NHKの街歩きスペシャル川越は、この高校の卒業生であるハウンドドッグの大友康平さんがナレーションをしていました。日本ハムファイターズの大型内野手太田賢吾選手も卒業生で、今シーズンの活躍が期待されます。
写真:納豆屋さん
モヤモヤさまぁ~ずの「川越」では、小野食品の仙波豆腐が紹介されていましたが、川越で納豆といえばこちらの「渡辺納豆」が有名なようです。
写真:中院のアセビ
写真:中院の枝垂れとミモザ
写真:中院のユキヤナギ
中院へ向かう途中、光西寺の川越藩主松井・松平家墓所にあるシダレザクラが二分咲きだったのが見え、中院のシダレザクラも期待が出来ました。中院の歴史についてWikipediaから引用します。
平安時代、淳和天皇の勅許で円仁(慈覚大師)が建立し、当初は無量寿寺仏地院と号した。鎌倉時代、尊海僧正によって再建する。日蓮が尊海僧正より恵心流の伝法灌頂を受ける。東国580ヶ寺の本山の勅書を受けるなど隆盛を極めた。無量寿寺には仏蔵院(北院)、仏地院(中院)、多聞院(南院)が存在し、後伏見天皇が尊海僧正に命じ関東天台宗の本山とした。天台宗の学問所である仙波談義所が開かれ関東八檀林の一つとして栄えた。天海大僧正が喜多院(北院)の住職となるまでは、中院が無量寿寺の中心的な役割を果たした。仙波東照宮建立の際に中院は移動した。
・ 830年(天長7年)円仁は淳和天皇の勅許により、仏地院(中院)を建立する。
・ 941年(天慶4年)天慶の乱により、焼失する。
・1296年(永仁4年)尊海は成田氏の外護により、伽藍を再建する。
・1296年(永仁4年)仙波談義所が開かれる。
・1537年(天文6年)北条氏の侵攻により、焼失する。
・1632年(寛永9年)伽藍を再建する。
・1638年(寛永15年)川越大火により、焼失する。
・1639年(寛永16年)現在の地に移転する。
・1733年(享保18年)本堂を再建する。
・1945年(昭和20年)釈迦堂・薬師堂、焼失する。
・1983年(昭和58年)釈迦堂を再建する。
・2012年(平成24年)薬師堂を再建する。
1296年には「成田氏」の文字が見えます。今度バスハイクで行くさきたま古墳公園がある行田市の忍城城主「成田長親」の祖先ですね。1639年に現在の地に移転したため、中院が南院より南に置かれることになりました。
写真:南院遺跡
北院(喜多院)、中院、南院とあったのですが明治初頭の廃仏毀釈により、南院だけ廃寺になってしまいました。その遺物を集めたのがここ、南院遺跡となります。
写真:仙波東照宮
写真:仙波東照宮のスミレ
写真:仙波東照宮のエドヒガンザクラ
写真:仙波東照宮葵庭園
もともと中院があった場所に、徳川家康を祀る東照宮が建立されました。仙波東照宮について観光協会のページから引用します。
東照宮といえば徳川家康を祀った日光東照宮が有名だが、日本各地数多くの東照宮があれど、川越は日本三大東照宮の一つで、仙波東照宮といい、喜多院の南側に隣接している。
元和2年(1616)駿府で徳川家康公が没し、その遺骸を静岡から日光山へ移葬する途中、天海僧正によって喜多院で四日間の法要が営まれたことから、寛永10年(1633)建立された。
それから5年後の寛永15年(1638)、「寛永の大火」と呼ばれる大火事でよって、喜多院山門を残し、焼け落ちたが、徳川家光より喜多院復興の命令がが下ると、まず東照宮の再建が行われ寛永17年(1640)に完成した。
中院の歴史にもあるように、川越は何度か大火が発生しているのですが、太平洋戦争での空襲被害が軽微だったため、東京ではあまり残らなかったような古い桜の木が残されています。仙波東照宮のエドヒガンザクラもその一つでソメイヨシノより少し早目に咲きます。このような桜の古木が川越観光の魅力の一つと考えています。Wikipediaの「エドヒガン」のページから引用します。
エドヒガンは落葉高木であり、樹高はおおよそ15m-25m。葉は楕円形で長辺が5-10cm。名前の通り春の彼岸ごろに花を咲かせる。ソメイヨシノより早く花が着き始める。花は薄紅色から白で花弁は5枚で一重。萼の付け根が丸く膨らんでいるため見分けやすい。葉より先に花が咲き、咲きはじめは他種に比べると一週間から十日ほど早い。ヤマザクラと共にサクラの中では非常に長寿の種であることが知られており、樹齢2000年を超えるといわれる神代桜や樹齢1500年を超える淡墨桜、樹齢1000年と言われる樽見の大桜、その他にも樹齢300年を越える石割桜などが有名である。花が多く咲く特性から多くの品種の母種として使われている。また、ソメイヨシノの片親としても知られている。
写真:喜多院慈恵堂
写真:三代将軍お手植え桜(二代目)
写真:多宝塔
喜多院をゆっくり見たことが無いのですが、堀を巡らせた大きなお寺で川越観光の目玉の一つです。喜多院のページから引用します。
創建と歴史
天台宗川越大師喜多院は、仙芳仙人の故事によると奈良時代にまでさかのぼるかもしれません。伝えによると仙波辺の漫々たる海水を法力により除き、そこに尊像を安置したといいますが、平安時代、淳和天皇の勅により天長7年(830)慈覚大師円仁により創建された勅願所であって、本尊阿弥陀如来をはじめ不動明王、毘沙門天等を祀り、無量寿寺と名づけました。
その後、元久2年(1205)兵火で炎上の後、永仁4年(1296)伏見天皇が尊海僧正に再興せしめられたとき、慈恵大師(元三大師)をお祀りし官田50石を寄せられ関東天台の中心となりました。
正安3年(1301)後伏見天皇が東国580ヶ寺の本山たる勅書を下し、後奈良天皇は「星野山-現在の山号」の勅額を下しました。更に天文6年(1537)北条氏綱、上杉朝定の兵火で炎上しました。
慶長4年(1599)天海僧正(慈眼大師)は第27世の法灯を継ぎますが、慶長16年(1611)11月徳川家康公が川越を訪れたとき親しく接見しています。そして天海の意見により寺領4万8000坪及び500石を下し、酒井備後守忠利に工事を命じ、仏蔵院北院を喜多院と改め、又4代徳川家綱公のとき東照宮に200石を下すなど寺勢をふるいました。
寛永15年(1638)1月の川越大火で現存の山門(寛永9年建立)を除き堂宇はすべて焼失しました。そこで3代将軍徳川家光公は堀田加賀守正盛に命じてすぐに復興にかかり、江戸城紅葉山(皇居)の別殿を移築して、客殿、書院等に当てました。家光誕生の間、春日局化粧の間があるのはそのためです。その他慈恵堂、多宝塔、慈眼堂、鐘楼門、東照宮、日枝神社などの現存の建物を数年の間に相次いで再建し、それが今日文化財として大切に保存されています。
尚、明治維新の神仏分離令からは東照宮、日枝神社は別管理となっています。
写真:成田山川越別院本堂
写真:不動明王
写真:四国霊場御砂踏
写真:不動明王剣
御賓頭盧様にお願いし、八十八カ所もめぐってきました。成田山のご本尊はお不動様なのですね。毎月28日には蚤の市が開かれるそうです。
写真:浮島公園
元は神社の境内だったようで、奥に浮島神社があるのですが、ずいぶんさびれて見えます。結構以前から神社の管理者がいなくなって、市営の公園になったという感じです。
写真:川越まつりの山車の保管所
すごい高さがありますが、電線にかからないようにルートが決まっているのでしょうね。
写真:川越城本丸御殿
写真:道灌まんじゅう
写真:中ノ門堀跡
写真:手打ちそば百丈
川越城は天守はありませんが大きなお城で、県庁前にあるこのお蕎麦屋さんの場所も城内だったようです。県庁前には築城主の太田道灌像があります。川越城についてWikipediaから引用します。
概要
武蔵野台地の北東端に位置する平山城。1848年(嘉永元年)に建られた本丸御殿の一部が現存する(埼玉県有形文化財)。かつての城は、現在の初雁公園から川越市役所に至る広さであった。大半は失われ、二の丸跡は川越市立博物館・川越市立美術館、三の丸跡は埼玉県立川越高等学校となっているが、高校の南に、小高い丘の「富士見櫓」跡(埼玉県指定史跡)が残り、頂に御嶽神社と浅間神社が建っている。川越城には天守はなく、宇都宮城の清明台櫓と同様に、城の中で一番高い所にあった富士見櫓が天守の代わりをしていた。富士見櫓は三層と考えられている。
中世から近世にかけて改築がなされ規模を大きく変えた。藩政時代には、酒井忠勝・松平信綱(知恵伊豆)や柳沢吉保など、幕府の要職についた歴代藩主が多く、幕閣の老中数7名は全国でも最多の藩の1つであり、江戸時代中期までは「老中の居城」であった(中期以降は親藩)。
歴史・沿革
室町幕府より関東の押さえとしておかれた鎌倉府は、鎌倉公方足利氏と、その補佐役である関東管領上杉氏との内部対立が生じ、1454年に公方が管領を殺害するに至り、関東を戦乱の世とした享徳の乱が勃発、鎌倉府は壊滅し、公方は古河に拠点を構え、関東を二分した(古河公方)。 武蔵国は上杉氏と古河公方の対立の最前線となったため、足利氏の勢力(古河城や関宿城・忍城など)に対抗する上杉氏の本拠地として、1457年(長禄元年)、扇谷上杉氏の上杉持朝は、家宰の太田道真、太田道灌父子に川越城(河越城)の築城を命じ、自ら城主となった。また、南方の下総国との国境に江戸城も築城させ、道灌が江戸城主となった。さらに、両城を軍事道路(後の川越街道)で結び、古河公方への防衛線を構築した。
写真:菓子屋横丁
写真:なんだかわからないハシビロコウ
写真:川越まつり会館
写真:時の鐘
札ノ辻あたりは歩道も狭いので、観光客があふれている感じでした。小江戸川越は情緒があって観光にはいい街なのですが、道が狭くて人と車の住みわけが課題のようです。
この日は一日奇麗な青空でしたが、夕方になって風が冷たくなりました。
写真:出世稲荷神社
大正浪漫通りを通り、出世稲荷神社を最後にお参りし、境内をお借りしてウォーキング後のストレッチを行います。
その後東武線川越市駅まで歩きました。森林公園から来るFライナーはそこそこ混んでいたのですが、皆どうにか席を見つけて中目黒まで座って帰ることが出来ました。
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