かなり前に呑川を都立大学から下り、東京湾にそそぐ河口まで歩いたことがあるので、このコースは初めてではないのですが、梅園をゴールにしたのは初代企画委員の頃以来となるので十数年ぶりのことです。前回の記憶があるのは私だけかな。
川沿いをずっと歩いてゆくので風景自体はそれほど変わりません。今日は花の写真を中心にご紹介したいと思います。
写真:ひな祭りイベント
集合場所は都立大学駅裏の呑川緑道。いつもストレッチでお借りしている場所はひな祭りイベントをやっていて使えませんでした。
写真:桜森児童遊園
呑川緑道を下流に向かい、住宅街に入ったところにある桜森児童遊園をお借りしてストレッチをしました。いきなり現れた年配の集団に、通行人がちょっとびっくりしているような様子が印象的でした。普段の児童遊園の平均年齢と比べると十倍くらいになっていたでしょう。
写真:呑川緑道
写真:自転車置き場
呑川緑道へ戻り下流に向かいます。「稲荷橋置場」の看板には、桜森稲荷神社そばの橋の名前なんだと納得しました。
写真:オウバイ
写真:早咲きのサクラ
早咲きのサクラは名札がついていないのでわかりませんが、オオカンザクラでしょうか?エドヒガンのような色合いでした。
写真:目黒十一中
写真:コウバイ
写真:カンヒザクラ
写真:花壇
写真:アセビ
知らないうちにアセビが咲いていました。
写真:東京工業大学
写真:大井町線(上)と目黒線(下)
写真:支流遊歩道
写真:緑が丘三丁目
写真:呑川
写真:東京工業大学
「九品仏川緑道」の看板があり、この先に緑道があるのですが、九品仏川の合流点はもう少し下流で、目黒線の線路の先になります。呑川が緑が丘三丁目と大岡山二丁目の境になっており、東京工業大学は十一中と隣接する一部のキャンパスを除き、ほとんどが大岡山に所在します。東京工業大学開学の地は先週歩いた蔵前で、東急電鉄が沿線価値を高めるために誘致して、この地に移転してきました。その後学芸大学、都立大学の移転などがあり、東急電鉄の思惑通りの展開となっています。
写真:大田区の児童公園
写真:しだれ梅
写真:カワヅザクラ
写真:白梅と紅梅
写真:清流の復活
現在呑川、目黒川、渋谷川に水が流れているのは「清流の復活」事業のおかげです。事業についてWikipediaから引用します。
昭島市内にある多摩川上流水再生センターにおいて高度二次処理を施して再生した下水を送水し、小平監視所(玉川上水駅近傍)直下にて玉川上水へ、またやや東方地点(東大和市駅近傍)から野火止用水へと放流している。 前者の水はさらに境橋地点(武蔵境駅北方)で分水し、一部を千川上水へも流している。 これらの上水/用水はいずれも、1970年代までには生活排水で汚れてしまったり、水を失って空堀化してしまっており、当事業の実施によってはじめて水辺としての地位を回復できたものである。“清流復活”以前の経緯については各上水/用水の項目を参照されたい。
野火止用水の再生水はそのまま埼玉県へ越境し、暗渠を経て新河岸川へと合流するが、玉川上水と千川上水については暗渠に入った先で水を回収の上、前者は神田川、後者は善福寺川へと放流し、両河川の渇水対策に役立られている。
城南三河川清流復活事業
上記とは別に「城南三河川清流復活事業」として、落合水再生センターで処理した再生水を、渋谷川(古川)、目黒川、呑川へと送水・放流している。これらの都市河川は、その源流・支流のほとんどが(暗渠化された上で)下水道へと転用されているため、常時水量に乏しく、場所によってはほとんど涸れ川のような状態となっていた。これを補うためのものである。この事業以降、アユの生息も確認され、水辺に親しむ気運が高まってきたという。
この事業実施前の荒れた状態を知っているので、今の状況はとてもありがたいと思います。汚い川にはごみを捨てる人が多かったのですが、今はそのような状況も改善されました。
写真:石橋供養塔
大田区文化財
石橋供養碑
安永三年(1774)に、雪ヶ谷村の浄心ら六名の者が本願主となって、石橋の安泰を祈って建てられた供養塔である。
石橋は現存しないが、呑川を渡って中原街道を通るため、当時すでに石橋がかけられていたことがわかる。
正面に「南無妙法蓮華経」と題目が刻まれ、側面に村内の日蓮宗円長寺の住職日善の署名と花押が刻まれている。このように日蓮宗の色彩を帯びているのは、雪ヶ谷村の寺院がいずれも同宗であったという地域的な特色によるものである。
石橋供養塔は、他の民間信仰供養塔と兼ねたものが多いが、この塔は石橋の無事と通行人の安全という交通安全だけを目的として建てられたものであり、貴重である。
昭和五十一年二月二十五日
大田区教育委員会
写真:池上線
写真:池上線土手のフキノトウ
池上線の開業は1922年で、1926年開業の東横線より歴史があります。しかし何か虐げられた印象が残るのは、相互乗り入れをしていないからなのでしょうか?東急五反田駅は相互乗り入れを想定して作られたのですが、ご破算になった過去があるようです。虐げられた印象についてWikipediaから「池上線(曲)」のページを引用します。
西島三重子のセカンドシングルである。
東急池上線を舞台に、別れる男女の悲哀を、当時の昭和の風情も織り交ぜながら歌っている。
この歌詞に池上線の車両の古さや状態の悪さを思わせる箇所があり、東急がそれらを否定するコメントを出す事態となった。ただ、当時の池上線を走っていた車両はほとんどが戦前製のデハ3450形を始めとした旧型車の初代3000系で、車体の更新工事は始まっていたものの、製造から40年以上が経過したものがあったことは確かである。
その後2007年(平成19年)には「池上線開通80周年」企画の一環として「池上線の名前を全国に広めた」ということで特別列車「名曲池上線号」が運転され、この曲を歌った西島三重子も乗車してイベントが行われた。
2012年11月7日にはアンサーソングの『池上線ふたたび』をリリースした。
写真:ボケ
写真:呑川
写真:アロエ
写真:ナノハナ
写真:農地
写真:新幹線の鉄橋
映画「シンゴジラ」でゴジラは上陸して呑川を遡るのですが、どのあたりまでさかのぼったんだろう?新幹線が通るあたりに広大な農地が残っていました。
写真:道々橋
国道一号線の手前に現れたこの道は旧道の雰囲気を感じさせる道だったので、旧東海道かなぁと思い写真に撮って調べてみました。「丸子道」という古道だそうです。徳川家康が江戸に入ったのは現在の中原街道といわれており、これより北側になります。第二京浜と呼ばれる国道一号線はまっすぐで、このあたりではあまり旧道を意識せずに作られたものなのかもしれません。
写真:仲池児童公園
ゴールの少し手前のこちらをお借りして整理体操のストレッチを行いました。
写真:池上梅園
今日歩いて見て初めてこの梅園の崖は呑川が削ったものと気が付きました。梅はちょうど見頃でいい香りが漂っていて、こちらで解散となりました。
写真:大坊本行寺
写真:多宝塔
確認したいことがあったので梅園には入らず、いつもの飲み仲間と本門寺へ向かいます。
写真:本殿仁王像阿形
写真:本殿仁王像吽形
池上駅から本門寺へお参りすると、加藤清正が普請したという階段があり、仁王門があって大堂でお参りしておしまいというパターンでしたが、その奥に本殿があることを先日のテレビ放送で知りました。本殿にはアントニオ猪木をモデルとした仁王像があることを知り、それを見に来たのですが阿形か吽形がどちらの像がそうなのかわからなくなり両方写真に撮ってきました。帰ってから調べてみると猪木をモデルとして作成されたのは吽形の方でした。仁王像の作者がアントニオ猪木のファンで、猪木をモデルとしたいと話したところ、「師匠(力道山)の門前を守る役割ならぜひともやらせていただきたい」と快諾を得て実現したという話でした。
写真:五重塔(重要文化財)
写真:力道山墓所
力道山のお墓があることは知っていたのですが、テレビ放送を見て興味を持ち、初めて訪れました。
写真:大野伴睦墓所
虎に目をひかれてこのお墓にたどり着きましたが、なぜここに虎が置かれているのか明確な説明は見つかりませんでした。大野伴睦という政治家の名前は知っていましたが、豪快な人物だったようですね。Wikipediaからいくつか引用します。
概要
典型的な党人政治家として知られ、「伴ちゃん」の愛称で親しまれた。また、「政治は義理と人情だ」「猿は木から落ちても猿だが、代議士は選挙に落ちればただの人だ」等の名言を残した。
東海道新幹線岐阜羽島駅
産経新聞の『戦後史開封』によると、岐阜県は岐阜市または大垣市への新幹線駅設置を要望するが、その場合、新幹線路線を大幅に迂回させなくてはならないため、建設予算や名古屋駅以西の所要時間が増える関係上、日本国有鉄道(国鉄)は難色を示した。これに地元は激しく反発し、一時国鉄は岐阜県内での測量ができない状態になった。そこで国鉄が大野に斡旋を依頼し、結局、新幹線路線を迂回させることの無い岐阜羽島駅の設置となった。これは大野自身が地元の利権に絡んで国鉄に圧力をかけたわけではなく、むしろ地元の利益よりも新幹線の速達性を優先した結果であった。岐阜羽島駅が今日、政治利権の権化とされるのは、地元の利益の代弁を装い、地元の利益誘導をでっちあげたことに由来する。なお、国鉄樽見線(現在の樽見鉄道樽見線)の建設にも関わり、セメント工場を誘致したのも彼の働きかけだということは意外に知られていない。
人物像
酒豪としても知られ、「酒は飲む以上わけがわからなくなるまで飲むべきだ」という名言がある。
写真:徳川吉宗側室の墓所
Wikipediaから引用します。
深徳院(しんとくいん)
吉宗の側室となり、正徳元年(1711年)12月21日に家重を生んだ。正徳3年(1713年)にも懐妊したが、同年10月24日[1]、赤坂の紀州藩邸において難産のため母子ともに死去した。享年26。戒名は深徳院妙順日喜大姉。墓所は池上本門寺。
宝暦13年(1763年)4月16日、従二位が追贈された。
ちょうど良い時間となったので先週大いに楽しんだ串カツ田中へ行こうと、池上店に飛び込みました。先週ハイボールに限られていたチンチロリンが生ビールにも拡大されておりラッキー。串揚げがなかなか出てこないという落ちがありましたが、串揚げとビールプラスハイボールを大いに楽しみました。
すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。
すこやか歩こう会活動スケジュール
川沿いをずっと歩いてゆくので風景自体はそれほど変わりません。今日は花の写真を中心にご紹介したいと思います。
写真:ひな祭りイベント
集合場所は都立大学駅裏の呑川緑道。いつもストレッチでお借りしている場所はひな祭りイベントをやっていて使えませんでした。
写真:桜森児童遊園
呑川緑道を下流に向かい、住宅街に入ったところにある桜森児童遊園をお借りしてストレッチをしました。いきなり現れた年配の集団に、通行人がちょっとびっくりしているような様子が印象的でした。普段の児童遊園の平均年齢と比べると十倍くらいになっていたでしょう。
写真:呑川緑道
写真:自転車置き場
呑川緑道へ戻り下流に向かいます。「稲荷橋置場」の看板には、桜森稲荷神社そばの橋の名前なんだと納得しました。
写真:オウバイ
写真:早咲きのサクラ
早咲きのサクラは名札がついていないのでわかりませんが、オオカンザクラでしょうか?エドヒガンのような色合いでした。
写真:目黒十一中
写真:コウバイ
写真:カンヒザクラ
写真:花壇
写真:アセビ
知らないうちにアセビが咲いていました。
写真:東京工業大学
写真:大井町線(上)と目黒線(下)
写真:支流遊歩道
写真:緑が丘三丁目
写真:呑川
写真:東京工業大学
「九品仏川緑道」の看板があり、この先に緑道があるのですが、九品仏川の合流点はもう少し下流で、目黒線の線路の先になります。呑川が緑が丘三丁目と大岡山二丁目の境になっており、東京工業大学は十一中と隣接する一部のキャンパスを除き、ほとんどが大岡山に所在します。東京工業大学開学の地は先週歩いた蔵前で、東急電鉄が沿線価値を高めるために誘致して、この地に移転してきました。その後学芸大学、都立大学の移転などがあり、東急電鉄の思惑通りの展開となっています。
写真:大田区の児童公園
写真:しだれ梅
写真:カワヅザクラ
写真:白梅と紅梅
写真:清流の復活
現在呑川、目黒川、渋谷川に水が流れているのは「清流の復活」事業のおかげです。事業についてWikipediaから引用します。
昭島市内にある多摩川上流水再生センターにおいて高度二次処理を施して再生した下水を送水し、小平監視所(玉川上水駅近傍)直下にて玉川上水へ、またやや東方地点(東大和市駅近傍)から野火止用水へと放流している。 前者の水はさらに境橋地点(武蔵境駅北方)で分水し、一部を千川上水へも流している。 これらの上水/用水はいずれも、1970年代までには生活排水で汚れてしまったり、水を失って空堀化してしまっており、当事業の実施によってはじめて水辺としての地位を回復できたものである。“清流復活”以前の経緯については各上水/用水の項目を参照されたい。
野火止用水の再生水はそのまま埼玉県へ越境し、暗渠を経て新河岸川へと合流するが、玉川上水と千川上水については暗渠に入った先で水を回収の上、前者は神田川、後者は善福寺川へと放流し、両河川の渇水対策に役立られている。
城南三河川清流復活事業
上記とは別に「城南三河川清流復活事業」として、落合水再生センターで処理した再生水を、渋谷川(古川)、目黒川、呑川へと送水・放流している。これらの都市河川は、その源流・支流のほとんどが(暗渠化された上で)下水道へと転用されているため、常時水量に乏しく、場所によってはほとんど涸れ川のような状態となっていた。これを補うためのものである。この事業以降、アユの生息も確認され、水辺に親しむ気運が高まってきたという。
この事業実施前の荒れた状態を知っているので、今の状況はとてもありがたいと思います。汚い川にはごみを捨てる人が多かったのですが、今はそのような状況も改善されました。
写真:石橋供養塔
大田区文化財
石橋供養碑
安永三年(1774)に、雪ヶ谷村の浄心ら六名の者が本願主となって、石橋の安泰を祈って建てられた供養塔である。
石橋は現存しないが、呑川を渡って中原街道を通るため、当時すでに石橋がかけられていたことがわかる。
正面に「南無妙法蓮華経」と題目が刻まれ、側面に村内の日蓮宗円長寺の住職日善の署名と花押が刻まれている。このように日蓮宗の色彩を帯びているのは、雪ヶ谷村の寺院がいずれも同宗であったという地域的な特色によるものである。
石橋供養塔は、他の民間信仰供養塔と兼ねたものが多いが、この塔は石橋の無事と通行人の安全という交通安全だけを目的として建てられたものであり、貴重である。
昭和五十一年二月二十五日
大田区教育委員会
写真:池上線
写真:池上線土手のフキノトウ
池上線の開業は1922年で、1926年開業の東横線より歴史があります。しかし何か虐げられた印象が残るのは、相互乗り入れをしていないからなのでしょうか?東急五反田駅は相互乗り入れを想定して作られたのですが、ご破算になった過去があるようです。虐げられた印象についてWikipediaから「池上線(曲)」のページを引用します。
西島三重子のセカンドシングルである。
東急池上線を舞台に、別れる男女の悲哀を、当時の昭和の風情も織り交ぜながら歌っている。
この歌詞に池上線の車両の古さや状態の悪さを思わせる箇所があり、東急がそれらを否定するコメントを出す事態となった。ただ、当時の池上線を走っていた車両はほとんどが戦前製のデハ3450形を始めとした旧型車の初代3000系で、車体の更新工事は始まっていたものの、製造から40年以上が経過したものがあったことは確かである。
その後2007年(平成19年)には「池上線開通80周年」企画の一環として「池上線の名前を全国に広めた」ということで特別列車「名曲池上線号」が運転され、この曲を歌った西島三重子も乗車してイベントが行われた。
2012年11月7日にはアンサーソングの『池上線ふたたび』をリリースした。
写真:ボケ
写真:呑川
写真:アロエ
写真:ナノハナ
写真:農地
写真:新幹線の鉄橋
映画「シンゴジラ」でゴジラは上陸して呑川を遡るのですが、どのあたりまでさかのぼったんだろう?新幹線が通るあたりに広大な農地が残っていました。
写真:道々橋
国道一号線の手前に現れたこの道は旧道の雰囲気を感じさせる道だったので、旧東海道かなぁと思い写真に撮って調べてみました。「丸子道」という古道だそうです。徳川家康が江戸に入ったのは現在の中原街道といわれており、これより北側になります。第二京浜と呼ばれる国道一号線はまっすぐで、このあたりではあまり旧道を意識せずに作られたものなのかもしれません。
写真:仲池児童公園
ゴールの少し手前のこちらをお借りして整理体操のストレッチを行いました。
写真:池上梅園
今日歩いて見て初めてこの梅園の崖は呑川が削ったものと気が付きました。梅はちょうど見頃でいい香りが漂っていて、こちらで解散となりました。
写真:大坊本行寺
写真:多宝塔
確認したいことがあったので梅園には入らず、いつもの飲み仲間と本門寺へ向かいます。
写真:本殿仁王像阿形
写真:本殿仁王像吽形
池上駅から本門寺へお参りすると、加藤清正が普請したという階段があり、仁王門があって大堂でお参りしておしまいというパターンでしたが、その奥に本殿があることを先日のテレビ放送で知りました。本殿にはアントニオ猪木をモデルとした仁王像があることを知り、それを見に来たのですが阿形か吽形がどちらの像がそうなのかわからなくなり両方写真に撮ってきました。帰ってから調べてみると猪木をモデルとして作成されたのは吽形の方でした。仁王像の作者がアントニオ猪木のファンで、猪木をモデルとしたいと話したところ、「師匠(力道山)の門前を守る役割ならぜひともやらせていただきたい」と快諾を得て実現したという話でした。
写真:五重塔(重要文化財)
写真:力道山墓所
力道山のお墓があることは知っていたのですが、テレビ放送を見て興味を持ち、初めて訪れました。
写真:大野伴睦墓所
虎に目をひかれてこのお墓にたどり着きましたが、なぜここに虎が置かれているのか明確な説明は見つかりませんでした。大野伴睦という政治家の名前は知っていましたが、豪快な人物だったようですね。Wikipediaからいくつか引用します。
概要
典型的な党人政治家として知られ、「伴ちゃん」の愛称で親しまれた。また、「政治は義理と人情だ」「猿は木から落ちても猿だが、代議士は選挙に落ちればただの人だ」等の名言を残した。
東海道新幹線岐阜羽島駅
産経新聞の『戦後史開封』によると、岐阜県は岐阜市または大垣市への新幹線駅設置を要望するが、その場合、新幹線路線を大幅に迂回させなくてはならないため、建設予算や名古屋駅以西の所要時間が増える関係上、日本国有鉄道(国鉄)は難色を示した。これに地元は激しく反発し、一時国鉄は岐阜県内での測量ができない状態になった。そこで国鉄が大野に斡旋を依頼し、結局、新幹線路線を迂回させることの無い岐阜羽島駅の設置となった。これは大野自身が地元の利権に絡んで国鉄に圧力をかけたわけではなく、むしろ地元の利益よりも新幹線の速達性を優先した結果であった。岐阜羽島駅が今日、政治利権の権化とされるのは、地元の利益の代弁を装い、地元の利益誘導をでっちあげたことに由来する。なお、国鉄樽見線(現在の樽見鉄道樽見線)の建設にも関わり、セメント工場を誘致したのも彼の働きかけだということは意外に知られていない。
人物像
酒豪としても知られ、「酒は飲む以上わけがわからなくなるまで飲むべきだ」という名言がある。
写真:徳川吉宗側室の墓所
Wikipediaから引用します。
深徳院(しんとくいん)
吉宗の側室となり、正徳元年(1711年)12月21日に家重を生んだ。正徳3年(1713年)にも懐妊したが、同年10月24日[1]、赤坂の紀州藩邸において難産のため母子ともに死去した。享年26。戒名は深徳院妙順日喜大姉。墓所は池上本門寺。
宝暦13年(1763年)4月16日、従二位が追贈された。
ちょうど良い時間となったので先週大いに楽しんだ串カツ田中へ行こうと、池上店に飛び込みました。先週ハイボールに限られていたチンチロリンが生ビールにも拡大されておりラッキー。串揚げがなかなか出てこないという落ちがありましたが、串揚げとビールプラスハイボールを大いに楽しみました。
すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。
すこやか歩こう会活動スケジュール
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