ようやく何の懸念もなく歩ける季節となり22名の参加がありました。
ノウゼンカズラ
集合は中目黒GT。ウォーキング塾期間中はこちらが集合場所になるのですがそれ以外の中目黒集合は目黒川船入場になっています。今回は蛇崩川沿いに歩くので集合は中目黒GT、目黒銀座児童遊園に移動してストレッチをして出発です。ノウゼンカズラの花の時期は長いですね。
ハナツクバネウツギ
フヨウ
アサガオ
アオイ
キバナコスモス
ヒガンバナ
ムラサキシキブ
シモツケソウ
ハギ
カンナ
蛇崩川は暗渠で緑道になっていてさまざまな植物が植えられて、この時期でも多くの花を見ることが出来ます。
駒繋神社
末社の稲荷神社
源頼朝が馬を繋いだ松があったということで駒繋神社。下馬の地名の由来と芦毛塚の記事を神社のサイトから引用します。
源頼朝公が、奥州藤原氏征伐にあたり大軍を率いて多摩川の矢口を渡り、今の目黒区と世田谷区の境の道を渋谷に向って進む途中、乗馬にて沢を渡ったところ、馬が何かに驚いて暴れだし、沢の深みに落ちて死んでしまいました。この場所は、砂利場といわれ赤色の山砂利が出るところでした。そのため、馬を引き上げようとしても砂利が崩れて引き上げられず、馬が死んでしまったので、沢の岸辺近くに葬り塚を作り、馬が芦毛であったため芦毛塚と名付けられました。
その時に源頼朝公が「これから先、この地に来たときは、必ず馬から下りて沢は引いて渡れ」と厳命し、この沢を「馬引きの沢」と名付けました。(この沢は、蛇崩川で砂崩川とも書かれ、現在の蛇崩川緑道になっています。)
出陣にあたって総大将の馬の死は不吉である、程近い「子の明神(当社)」にて祈願をされては、と農家の姥の進言にしたがい「子の明神」で戦勝祈願をして奥州に向いました。
奥州攻めを終えて鎌倉への帰途、再びこの地に立ち寄った源頼朝公は、「子の明神」に額づいて戦勝の報告をし、芦毛塚では、馬の供養をされました。また「子の明神」で祈願することを進めてくれた農家の姥は、すでに亡くなっていると聞き、いたく悲しまれ、この地を姥ケ谷と名付けられました。
この源頼朝公の古事により駒繋神社付近一帯を「下馬引沢村」(馬から下りて沢は引いて渡る村)と呼ぶようになり、大正14年町制がしかれたため、引沢村が取れて下馬になりました。
また、芦毛塚は、もともと祠でしたが昭和44年8月24日に下馬史跡保存会の第一事業として、「芦毛塚の碑」が建設されました。
下馬史跡保存会刊 「しもうま」より一部引用
アオイ
キャロットタワー
蛇崩川緑道をさかのぼってゆくと三軒茶屋で玉川通りと交差します。そのあたりから撮ったキャロットタワー。飛行機で渋谷上空を飛ぶ際にこのビルは良い目印となります。
じんこ製麺所
三軒茶屋でお気に入りの武蔵野うどんの店「じんこ」。ここに製麺所があることに初めて気づきました。
小泉公園
小泉公園のタカトオコヒガン桜
ジュウガツザクラやシキザクラが秋に花をつけることは知っていますが、タカトオコヒガン桜の秋の花は始めて見たように思います。新宿御苑でも咲いているのかなぁ?
弦巻通りの向こうにキャロットタワー
こうやってみても地図で確認しても弦巻通りは三軒茶屋まで一直線です。給水塔からの本管が通る水道道路なんだと思います。
水道管をイメージさせるベンチ
駒沢給水所配水塔(双子の給水塔)
ヒガンバナ
世田谷区のサイトから引用します。
明治末期から大正初期にかけての東京市(当時)周辺は、人口の増加につれて安全な飲料水の確保が必要となり、上水道布設事業が相次ぎました。特に人口増加の著しい豊多摩郡渋谷町(現渋谷区)では早くから具体化が進み、東京市の水道事業推進の重鎮であった東京帝国大学の中島鋭治博士に依頼して、町営上水道布設の計画に着手、大正6年には実地調整を基に、取水地に多摩川河畔の砧村(現鎌田)を、中継の給水所に駒沢を選び、計画を取りまとめて認可を申請、大正9年に内務大臣、大正10年には大蔵大臣の認可を得、ここに世田谷を横断する大規模な水道工事が、国家事業並みの扱いで大正10年5月に着工となりました。
中島博士の計画は、砧村に浄水所を設けて清潔な水を作り、送水ポンプの力で駒沢給水所に設置した給水塔に押し上げた後、自然重力で渋谷町へ送水するという斬新な仕組みでした。工事は順調に進み関東大震災を挟んで大正13年3月に全工事が完了しました。
そして、給水所の中に西欧の中世風の趣きを持ち、独特な意匠を施した2基の巨大塔が姿を現しました。高さ30メートルの塔屋には王冠を連想させる装飾電球が付けられ、軽やかな特徴あるトラス橋で両塔が結ばれているこの独特な設計は二度のヨーロッパ出張で得た中島博士の卓越した土木建築デザイン感覚によるものであります。かつて、江戸川乱歩が怪人二十面相のアジトのモデルにしたというのもうなずけます。同時期砧浄水所(現鎌田)には、緩速ろ過池の横、青い西洋瓦葺き屋根の上に、愛らしい四角錐の小塔を載せたユニークな送水ポンプ室が竣工しています。なお昭和2年、ここ給水所には渋谷町上水道布設記念碑も造られました。
その後、関東大震災後の渋谷町の人口急増により、昭和6~昭和7年にかけて取水場所の作り変えや、ろ過池の増設など大規模な拡張工事が行われました。その際砧の浄水所には取水ポンプ室、駒沢の給水所には送水ポンプ室が新たに建造されましたが、いずれも優れたデザイン性に富み、昭和の名建造物といわれています。昭和7年10月、周辺郡部が東京市に併合されるのに伴い、渋谷町水道も東京市水道局に移管されて、その名は消えました。
戦後、東京都の水道局となってから、水道技術革新により浄水所は高度浄水施設への転換と給水所の地下埋設大型化が進み、大正・昭和初期の水道の姿を留めるものが極めて少なくなりつつある現在、数少ない例外とも言えるのが、駒沢給水塔を頂点とした多摩川河畔と駒沢の渋谷町水道遺産の数々ではないでしょうか。豊かな緑の樹林の中に聳え立つ双塔の偉容は、人々に近代水道文明の歴史を語りかけているよう思えてなりません。
平成14年、都水道局は老朽化の激しい布設記念碑の大掛かりな補修作業と併せ、塔屋の装飾球の復元やトラス橋の全面塗装替えでイメージを一新しました。殊に塔屋の夜間点灯は、復元後今日まで、世田谷区民に貴重な近代化遺産をアピールする恰好の風物詩となっています。平成24年度には、土木学会選奨土木遺産として、駒沢給水所(配水塔・配水ポンプ所)が都内で唯一認定されました。
また、水道の歴史的遺産として、地域の風景と共に給水塔を残していくために「駒沢給水塔風景資産保存会」、通称「コマQ」が平成14年から活動しています。
給水施設隣に立つマンションの公開空地をお借りしてストレッチをして解散。有志は渋谷に出て山家で焼き鳥とビールを楽しみました。桜新町からの田園都市線は満員電車状態。コロナ以降こんなに混んだ電車に乗るのは久しぶりでした。
すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。
すこやか歩こう会活動スケジュール
参加を希望される方はご一報ください。
ノウゼンカズラ
集合は中目黒GT。ウォーキング塾期間中はこちらが集合場所になるのですがそれ以外の中目黒集合は目黒川船入場になっています。今回は蛇崩川沿いに歩くので集合は中目黒GT、目黒銀座児童遊園に移動してストレッチをして出発です。ノウゼンカズラの花の時期は長いですね。
ハナツクバネウツギ
フヨウ
アサガオ
アオイ
キバナコスモス
ヒガンバナ
ムラサキシキブ
シモツケソウ
ハギ
カンナ
蛇崩川は暗渠で緑道になっていてさまざまな植物が植えられて、この時期でも多くの花を見ることが出来ます。
駒繋神社
末社の稲荷神社
源頼朝が馬を繋いだ松があったということで駒繋神社。下馬の地名の由来と芦毛塚の記事を神社のサイトから引用します。
源頼朝公が、奥州藤原氏征伐にあたり大軍を率いて多摩川の矢口を渡り、今の目黒区と世田谷区の境の道を渋谷に向って進む途中、乗馬にて沢を渡ったところ、馬が何かに驚いて暴れだし、沢の深みに落ちて死んでしまいました。この場所は、砂利場といわれ赤色の山砂利が出るところでした。そのため、馬を引き上げようとしても砂利が崩れて引き上げられず、馬が死んでしまったので、沢の岸辺近くに葬り塚を作り、馬が芦毛であったため芦毛塚と名付けられました。
その時に源頼朝公が「これから先、この地に来たときは、必ず馬から下りて沢は引いて渡れ」と厳命し、この沢を「馬引きの沢」と名付けました。(この沢は、蛇崩川で砂崩川とも書かれ、現在の蛇崩川緑道になっています。)
出陣にあたって総大将の馬の死は不吉である、程近い「子の明神(当社)」にて祈願をされては、と農家の姥の進言にしたがい「子の明神」で戦勝祈願をして奥州に向いました。
奥州攻めを終えて鎌倉への帰途、再びこの地に立ち寄った源頼朝公は、「子の明神」に額づいて戦勝の報告をし、芦毛塚では、馬の供養をされました。また「子の明神」で祈願することを進めてくれた農家の姥は、すでに亡くなっていると聞き、いたく悲しまれ、この地を姥ケ谷と名付けられました。
この源頼朝公の古事により駒繋神社付近一帯を「下馬引沢村」(馬から下りて沢は引いて渡る村)と呼ぶようになり、大正14年町制がしかれたため、引沢村が取れて下馬になりました。
また、芦毛塚は、もともと祠でしたが昭和44年8月24日に下馬史跡保存会の第一事業として、「芦毛塚の碑」が建設されました。
下馬史跡保存会刊 「しもうま」より一部引用
アオイ
キャロットタワー
蛇崩川緑道をさかのぼってゆくと三軒茶屋で玉川通りと交差します。そのあたりから撮ったキャロットタワー。飛行機で渋谷上空を飛ぶ際にこのビルは良い目印となります。
じんこ製麺所
三軒茶屋でお気に入りの武蔵野うどんの店「じんこ」。ここに製麺所があることに初めて気づきました。
小泉公園
小泉公園のタカトオコヒガン桜
ジュウガツザクラやシキザクラが秋に花をつけることは知っていますが、タカトオコヒガン桜の秋の花は始めて見たように思います。新宿御苑でも咲いているのかなぁ?
弦巻通りの向こうにキャロットタワー
こうやってみても地図で確認しても弦巻通りは三軒茶屋まで一直線です。給水塔からの本管が通る水道道路なんだと思います。
水道管をイメージさせるベンチ
駒沢給水所配水塔(双子の給水塔)
ヒガンバナ
世田谷区のサイトから引用します。
明治末期から大正初期にかけての東京市(当時)周辺は、人口の増加につれて安全な飲料水の確保が必要となり、上水道布設事業が相次ぎました。特に人口増加の著しい豊多摩郡渋谷町(現渋谷区)では早くから具体化が進み、東京市の水道事業推進の重鎮であった東京帝国大学の中島鋭治博士に依頼して、町営上水道布設の計画に着手、大正6年には実地調整を基に、取水地に多摩川河畔の砧村(現鎌田)を、中継の給水所に駒沢を選び、計画を取りまとめて認可を申請、大正9年に内務大臣、大正10年には大蔵大臣の認可を得、ここに世田谷を横断する大規模な水道工事が、国家事業並みの扱いで大正10年5月に着工となりました。
中島博士の計画は、砧村に浄水所を設けて清潔な水を作り、送水ポンプの力で駒沢給水所に設置した給水塔に押し上げた後、自然重力で渋谷町へ送水するという斬新な仕組みでした。工事は順調に進み関東大震災を挟んで大正13年3月に全工事が完了しました。
そして、給水所の中に西欧の中世風の趣きを持ち、独特な意匠を施した2基の巨大塔が姿を現しました。高さ30メートルの塔屋には王冠を連想させる装飾電球が付けられ、軽やかな特徴あるトラス橋で両塔が結ばれているこの独特な設計は二度のヨーロッパ出張で得た中島博士の卓越した土木建築デザイン感覚によるものであります。かつて、江戸川乱歩が怪人二十面相のアジトのモデルにしたというのもうなずけます。同時期砧浄水所(現鎌田)には、緩速ろ過池の横、青い西洋瓦葺き屋根の上に、愛らしい四角錐の小塔を載せたユニークな送水ポンプ室が竣工しています。なお昭和2年、ここ給水所には渋谷町上水道布設記念碑も造られました。
その後、関東大震災後の渋谷町の人口急増により、昭和6~昭和7年にかけて取水場所の作り変えや、ろ過池の増設など大規模な拡張工事が行われました。その際砧の浄水所には取水ポンプ室、駒沢の給水所には送水ポンプ室が新たに建造されましたが、いずれも優れたデザイン性に富み、昭和の名建造物といわれています。昭和7年10月、周辺郡部が東京市に併合されるのに伴い、渋谷町水道も東京市水道局に移管されて、その名は消えました。
戦後、東京都の水道局となってから、水道技術革新により浄水所は高度浄水施設への転換と給水所の地下埋設大型化が進み、大正・昭和初期の水道の姿を留めるものが極めて少なくなりつつある現在、数少ない例外とも言えるのが、駒沢給水塔を頂点とした多摩川河畔と駒沢の渋谷町水道遺産の数々ではないでしょうか。豊かな緑の樹林の中に聳え立つ双塔の偉容は、人々に近代水道文明の歴史を語りかけているよう思えてなりません。
平成14年、都水道局は老朽化の激しい布設記念碑の大掛かりな補修作業と併せ、塔屋の装飾球の復元やトラス橋の全面塗装替えでイメージを一新しました。殊に塔屋の夜間点灯は、復元後今日まで、世田谷区民に貴重な近代化遺産をアピールする恰好の風物詩となっています。平成24年度には、土木学会選奨土木遺産として、駒沢給水所(配水塔・配水ポンプ所)が都内で唯一認定されました。
また、水道の歴史的遺産として、地域の風景と共に給水塔を残していくために「駒沢給水塔風景資産保存会」、通称「コマQ」が平成14年から活動しています。
給水施設隣に立つマンションの公開空地をお借りしてストレッチをして解散。有志は渋谷に出て山家で焼き鳥とビールを楽しみました。桜新町からの田園都市線は満員電車状態。コロナ以降こんなに混んだ電車に乗るのは久しぶりでした。
すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。
すこやか歩こう会活動スケジュール
参加を希望される方はご一報ください。