目黒区北部地区 すこやか歩こう会

東横線中目黒駅周辺を拠点に活動するウォーキングクラブです。みんなで歩くと楽しいですよ!時々遠出もしています!!

呑川緑道・池上梅園コース 約5.0km

2025-03-03 15:33:07 | 東京都目黒区、大田区
2月23日のウォーキングは二週連続で梅園が目的地となっています。


呑川本流緑道自転車置き場

カタバミ


緑道を下流に向かって南下してゆきます。都立大学の駅に近い場所は自転車置き場として活用されています。水道施設のようでなんだかわからない場所はGoogleマップでも説明がありません。社会インフラを支える場所でターゲットにならないよう表示しないのでしょうね。


保護されたソメイヨシノ
呑川が暗渠になり桜が植えられたのは20世紀の東京オリンピックの時だから半世紀以上たっています。老化が早いソメイヨシノは傷んだ木も多くなってきます。


コウバイとハクバイ

東京科学大学
東京工業大学は東京医科歯科大学と統合して東京科学大学になったのですね。医学と工学の堺は大きくあるのでしょうが、医療機器の高度化などで協業も重要なのでしょう。


ここから開渠に
目黒区の南のはずれで九品仏川と合流し呑川本流は開渠となります。


呑川緑道
洗足池
 北千束の清水窪湧水などを主な水源とする都内屈指の広さを有する淡水池のある公園です。江戸時代、歌川広重の名所江戸百景『千束の池袈裟懸松』にも描かれた水辺の景観の面影を今も残しています。春は桜でにぎわい、秋には紅葉を満喫することができます。生物に目を向ければ、冬は渡り鳥の楽園となり、夏には水辺を飛び交うトンボなどの姿も見られます。

多摩川の排水口(中原幹線取水施設)
 呑川は、豪雨の際に流れ込む雨水により増水し、下流域では度重なる浸水被害が発生していました。この対策として、呑川の増水した雨水をバイパスして速やかに多摩川へ放流するため、中原街道の地下に下水「道の中原幹線を昭和57年(1982年)に整備しました。中原幹線の完成によって、呑川の水位上昇はかなりおさえられ、下流域で水があふれることはなくなりました。
(資料提供:呑川の会)

アオサギ
 アオサギは、水田、川、湿地、河口などにすむ留鳥です。灰青色の大きなサギで、高い松林などをねぐらにします。「グワー、グワー」と鳴き、深い水深まで歩きながら獲物をさがし、くちばしでとらえます。呑川では、同じ領域で魚を狙うコサギが近づくと、アオサギが追い返す光景がよく見られます。

コサギ
 コサギは、平地の川、水田、湿地、河口、入江などにすむ留鳥です。全身が白い中型のサギで、松林などをねぐらにします。浅い水の中で、石の下や水草の陰から魚などをとらえます。呑川にはボラなどの魚がすむ深みがあるため、コサギ等の野鳥がやってきます。




石橋供養塔
大田区文化財
石橋供養塔
 安永三年(一七七四)に、雪ヶ谷村の浄心ら六名の者が本願主となって、石橋の安泰を祈って建てられた供養塔である。
 石橋は現存しないが、呑川を渡って中原街道を通るため、当時すでに石橋がかけられていたことがわかる。
 正面に「南無妙法蓮華経」と題目が刻まれ、側面に村内の日蓮宗円長寺の住職日善の署名と花押が刻まれている。このように日蓮宗の色彩を帯びているのは、雪ヶ谷村の寺院がいずれも同宗であったという地域的な特色によるものである。
 石橋供養塔は、他の民間信仰供養塔と兼ねたものが多いが、この塔は石橋の無事と通行人の安全という交通安全だけを目的として建てられたものであり、貴重である。
  昭和五十一年二月二十五日指定
  大田区教育委員会



南雪谷周辺
このあたりはソメイヨシノが植えられています。


ホトケノザ

新幹線の高架

呑川緑道
カワセミは、川、池、湖沼などにすむ留鳥で、コバルト色の背面と橙色の腹部をもった小さな美しい鳥です。「チー」と鳴き、水面上の木の枝や木杭、石などにたたずみ、低空を飛んで水中の魚を狙います。川がきれいになってエサの魚が増えたこともあり、よく見られるようになりました。

ゴイサギは、川、池、湖沼などにすむ留鳥または漂鳥で、頭と背中が黒く、つばさと体が灰色のずんぐりしたサギです。この写真は幼鳥のゴイサギで羽が茶色ですが成長すると色が変わります。夜行性で、昼間は松林や杉林をねぐらとしています。ゆっくりはばたきながら 「クワッ」と鳴くため、その鳴き声から「夜ガラス」といわれています。夕方は岸に立ち、近づいた魚をくちばしで直接とらえます。

(資料提供:呑川の会)



仲池児童公園
まもなくゴールということでこちらの公園をお借りしてストレッチをし先を急ぎます。


カワイ音楽教室
音楽教室という割には「自業自得」「身から出た錆」「口は禍の元」「負け犬の遠吠え」「暇ほど毒な物はない」などお習字がシュール。


池上梅園
この日のゴールで、65歳以上は入場無料なので皆さん梅を見に行きました。池上本門寺に隣接していますが、もとは個人所有の邸宅が庭を残すことを条件に東京都に寄贈され、現在は大田区立の公園となっています。こちらの六分咲きといった感じですが、青空に紅白の梅が映えています。


すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。


すこやか歩こう会活動スケジュール
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烏山川緑道コース 約6.0km

2025-03-02 12:55:14 | 東京都目黒区、世田谷区
歩いてから少し時間が経ってしまいましたが、2月15日のウォーキングの様子です。


目黒川緑道
目黒区内を流れる目黒川は大部分が開渠なのですが、玉川通りから上流側の世田谷区堺までの短い区間だけ緑道になっています。


ロウバイ
今年はロウバイの咲き始めも遅くて短かったように思うのですが、まだ所々で見ることができます。


スイセン

カワヅザクラ

コサギ

三宿通りのもつ焼き屋さん
日当たりの良い場所ではカワヅザクラが咲き始めています。



烏山川緑道
烏山川緑道のご案内

 烏山川緑道は、昭和40年代まで烏山用水と呼ばれる清流でしたが、戦後、市街化が進んで川の水が汚れ、豪雨があると溢水被害が生じるようになりました。また下水道幹線に利用するため埋め立てて、上部を緑道に整備しました。
 その後、舗装が傷むなど老朽化し、ゴミを捨てる人が出る状況になったため、まちづくり協議会の要望を基に沿道の人たちとの話し合いを重ねて、太子堂2、3丁目の区間を地元の小学生の描いた絵と太子堂中学のプールの溢れた水を再利用した「せせらぎと絵陶板のある緑道」として再整備し、平成2年3月に完成させました。
 現在の烏山川緑道は、船橋7丁目から北沢川との合流する池尻4丁目まで全長約6. 9Km が整備され、町会・自治会、市民グループの管理協力を得たみなさまの遊歩道として利用されているほか、震災時には避難路として防災の役割を担っています。

  世田谷区みどりとみず政策担当部
  公園緑地課世田谷公園管理事務所



幸せの黄色い世田谷線


クリニックの看板が大きく目立っていてコックさんの看板と合わないと思ってよく見るとそこはカフェでした。


猫のかつはし

烏山川緑道
 昭和40~50年代、世田谷区の大半の中小河川は表面を埋めたてられ、下水道幹線として利用されるようになりました。緑道はその上部の有効利用と災害時の避難路の確保を主な目的として整備され、今日に至っています。
 烏山川緑道は昭和49年3月に開園し、現在、全長約7.0kmに及び、世田谷区船橋7丁目から三宿1丁目まで続いています。
 区役所周辺地区(青葉橋~若林橋:環7 通り)では、鳥山川緑道が防災緑地網の幹線として位置づけられています。災害時には避難路となったり、またいざというときには消防車も通行できるように整備をしています。



石の柵
説明板の「いざというときには消防車も通行できるように」の部分を「へぇ!」と思いながら読んだので、この柵があったら消防車通れないじゃんと思ったのです。よくよく見るとこの柵は取り外せるようになっていました。


ハクバイ



世田谷城跡
吉良氏と世田谷城

 世田谷城は、清和源氏・足利氏の一族である吉良氏の居城として知られています。
 貞治5年(1366)、吉良治家によって築城されたといわれていますが、定かではありません。永和2年(1376)に吉良治家が鎌倉八幡宮にあてた文書から、おそくとも14世紀後半にはこの地に吉良氏が領地をもっていたことがわかっています。
 応永33年(1426)には「世田谷吉良殿」などと称され、足利将軍家の御一家として諸侯から一目置かれる存在でした。また、15世紀後半には江戸城の太田道灌と同盟関係を結び、武蔵国の中心勢力として繁栄します。
 その後、吉良頼康の代には、小田原北条氏と縁戚関係をもつようになりますが、天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原攻めによる北条氏の没落に伴い、吉良氏は上総国生実(現千葉市)に逃れ、世田谷城は廃城になりました。
 その後しばらくして、当地は彦根藩井伊家の所領となりますが、城内にあったとされる吉良氏の小庵、弘徳院は豪徳寺の前身といわれています。

城郭構造

 世田谷城は目黒川の支流、鳥山川が大きく蛇行する地点の北側、三方を川に囲まれ、南側に突き出した台地上に築かれています。また、城北方をとおる滝坂道と東方の鎌倉道が交差する交通の要衝にあたっています。
 城郭の構造としては中央に位置する郭(A)は南北約120m、東西約60mほどの広さで、本来は南北に開口していたと考えられる台形の土塁に囲まれています。
 世田谷城址公園には、土塁と堀の一部が残されています。
 世田谷城の範囲については諸説あり、規模は判然としませんが、現時点では、この郭 (A)を中心として複雑に展開する8ヵ所以上の郭や土塁・堀で構成され、郭(A)~(G)周辺を非常時の「詰城」、北側の豪徳寺部分を「吉良氏館」と推定し、このふたつが一体となって「世田谷城」を構成していると考えられています。



豪徳寺

宮の坂駅

世田谷八幡宮の土俵
青葉橋で烏山川緑道と別れ、世田谷城址公園でトイレ休憩を取り、城山通りを北西に向かい世田谷八幡宮に至ります。八幡様境内を北に抜け今度は世田谷線沿いに北へ向かいます。


羽根木公園

コウバイとハクバイ

ハクバイとロウバイ

コウバイ
小田急線豪徳寺駅は世田谷線山下駅と乗換駅になっており、山下駅近くに北沢川緑道があります。緑道を今度は下流へ向かい子育てステーション梅丘付近の場所があるところでストレッチをして解散となりました。
羽根木公園へ向かい六分咲きの梅を見ながら公園を通り過ぎさらに北へ。その先に井の頭線東松原駅があるので井の頭線に乗って渋谷マークシティのライオンで反省会のおいしいビールを楽しみました。


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神田川遡上(水道橋~西早稲田)コース 約6.2Km

2025-02-22 15:15:33 | 東京都文京区、豊島区、新宿区
このコースは先日下見の報告をしたばかりなので今回は短めです。興味がある方は下見の様子も見てみてください


水道橋駅東口
神田川遡上の一回目は隅田川に注ぐ柳橋から仙台掘りを通り水道橋まで。二回目は日本橋川を隅田川からさかのぼり、分岐点である水道橋まで歩いてきました。この日は水道橋から江戸の水道としての役割を感じられる部分を歩きます。


東京ドームホテル

ハローワーク飯田橋
水道橋駅から外堀通りを西へ、日本橋川との分岐点がわかる小石川橋近くでストレッチをした後、さらに西へ。


江戸川公園
神田川は飯田橋交差点から北へ向かうため、我々もそれに沿って目白通りを歩きます。公園の名前の由来はWikipediaから引用します。
かつては平川と呼ばれ、現在の飯田橋付近から現在の日本橋川を通って日比谷入江に流れていたが、江戸幕府による度重なる普請と瀬替えが行われ、現在の流路となった。
江戸市中への上水が引かれてからは上流を神田上水、下流を江戸川と呼び、さらに開削された神田山から下流は神田川と呼ばれるようになった。明治になり神田上水が廃止されてからは上流も神田川と呼ばれるようになり、昭和の河川法改正によって全て神田川の呼称で統一された。

別称
神田川の中流域の中でも今日の都電荒川線早稲田停留場付近(関口の石堰があった)から飯田橋駅付近(日本橋川と分かれる)まで約2.1キロメートルの区間は「江戸川」と呼ばれていた。この部分も1970年8月に「神田川」に名称が統一されることとなったため、これに由来する地名の多くは1966年までにその名を消したが、江戸川橋駅及びその由来である橋梁、文京区立江戸川公園などにその名をとどめている。なお、明治末頃まで、石切橋から隆慶橋間の両岸は、東京市内屈指の桜の名所と言われた。


神田川に統一されることになったのが1970年でかぐや姫が神田川を発表したのが1973年。名称の統一などで神田川が話題となっていた時期なのかもしれませんね。




肥後細川庭園
それほど寒くない快晴に恵まれて、庭園にも多くの人が散策に来ていました。


高田氷川神社


目白不動
さらに西へ進んで曙橋から目白不動へ寄り道。すこやか歩こう会では一月に目黒不動と三軒茶屋の目青不動、今月目白不動と江戸五色不動のうち三色不動制覇になります。


学習院 旧正門
目白通りと明治通りの交差点付近で神田川と別れ、戸山公園をお借りしてストレッチをして解散となりました。


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【下見】第二十二回めぐろウォーキングマーチ将軍お鷹狩りウォーク

2025-02-08 13:25:47 | 東京都港区
令和7年11月3日に実施されるお鷹狩りウォーク。ショートコースのスタート会場を仮押さえしてもらったので、思い描いているコースを芝公園から白金まで下見してみました。これまでのお鷹狩りで歩いたところを含め、改めて下見をすると再発見とか気づきもあっていいコースが作れる気がする下見となりました。


芝公園集会広場
この十年で考えると芝公園多目的運動広場を二度ショートコースのスタート会場として使用させていただいています。それ以前に一度だけ芝公園を使用したことがあり、集会広場ではなかったように記憶しているのですが記憶違いで集会広場だったのかなぁ?理事の中でも覚えている人がどれだけいるかというくらい以前の話です。
増上寺と寛永寺は江戸城の旗門を守るため現在の位置に広大な寺域を持っていました。明治維新後寛永寺の寺域の多くは上野公園になり、増上寺の寺域は芝公園となっています。
最終的には目黒ウォーキング協会の理事会での決定を待ちますが、集会広場がお鷹狩りショートコースのスタート会場、ロングコースのトイレ休憩場所になる予定です。


地蔵尊

時計塔
時計塔について日本専門新聞協会のサイトから引用します。
芝公園のもみじ谷のモニュメント「複眼的報道の塔」
~時代を見すえ悠久の時を刻むソーラー電波時計~

 平成16年10月、25年後の後進に夢を託して建立したものです。
 塔の基礎部分には当協会の歴史と伝統を次の世代に伝えるため、各加盟社発行の記念紙に記念品を添えて収納しています。
 この塔は当協会が昭和22年2月、第一新聞協会として設立以来、57年の半世紀以上にわたり、不偏不党・厳正中立の報道姿勢を堅持しながら、産業・経済・教育・文化・社会の各専門分野において、日々研鑽に努め、指導紙・啓発紙として努力してきた実績の「証」(あかし)です。
 また、これからも協会並びに協会加盟社が報道人として未来永劫の発展を期し、その羅針盤としての、役割を果たすための「灯」(あかし)としての二つの意味合いを込めています。当時の石原東京都知事をはじめ、都議会議長、建設局長等の協力と支援を得て、都立公園では130年と最も古く、由緒ある芝公園内に、ソーラー三面電波時計付き「複眼的報道の塔」を建立・寄贈したものです。





もみじの滝
もみじの滝
もみじの滝は、日本人初のランドスケープデザイナー長岡安平の設計により1905年(明治38年)に築造されました。
深山幽谷の趣が残る崖線を利用した滝が設けられており、自然の地形を生かした設計を好んだ安平の設計思想が現れています。
幾度かの改修を経た今も当時の面影を感じさせる景観を楽しむ ことができます。

御成門、増上寺の前を通りプリンス芝公園から赤羽橋に出るルートを考えていて試しに歩いたもみじ谷でしが、たまには真下から東京タワーを望むこちらのコースもいいかなという気がしています。


聖坂
赤羽橋から桜田通りを歩いて慶応の先から聖坂に入ります。南東側の歩道を歩く予定で、以前より歩きやすくなっている印象でした。


蟻鱒鳶ル(アリマストンビル)
タモリ倶楽部でも紹介されたこのビルは昨年遂に完成したそうで、再開発で取り壊しも検討される中、東へ10メートル曳家して残ることになったとのこと。お鷹狩りで目にすることができるのは今回が最後でしょう。


済海寺


亀塚公園
古墳と言われているけど実証するものがないという古墳。見どころにしたいけどトイレの数があるわけでもなく難しいかな。









三田台公園
縄文時代の人びとは、高輪の台地の下に広がる海から多くの貝をとってきて食べました。貝ばかりでなく、魚やけものを食べたあとの骨や、家の中のごみ、こわれた土器や石器のかけら、炉からかき出した灰やもえさしの炭などもいっしょにすてられました。こうして貝塚ができあがったのです。ですから、貝塚を調べると、当時の人びとの食べていた食物の内容や、生活のありさまがよくわかります。ここにある貝層は、伊皿子貝塚のなかで厚く貝がつもった部分を、接着剤で接合してはぎとり、保存したものです。黒くしまのように横に走っている層は木炭の層、ねずみ色になった貝は火で焼けて変色した貝です。カキばかりが集まっている部分、アカガイに似たかたちをしているハイガイが集まっている所など、貝層はいろいろな部分からできています。さまざまな層が、何枚もかさなり合って堆積しているありさまは、縄文時代の人びとの日日の生活のつみかさねを無言で示してくれます。

東山貝塚公園と同じ竪穴式住居があり、貝塚の展示もあるので見どころにしたいところですがこちらも難しいかな。


伊皿子



證誠寺


二本榎の碑


承教寺


東京消防庁高輪消防署二本榎消防署出張所
東京都選定歴史的建造物
東京消防庁高輪消防署二本榎出張所
  所在地 港区高輪2-6-17
  設計者 越智 操
  建築年 昭和8年(1933)

 明治41年7月1日、第二消防署二本榎派出所として発足、昭和8年12月28日に現庁舎が竣工した。
 建物は、鉄筋コンクリート造りの地上3階建てで、海抜約25メートルの位置にあり、当時は周囲に高い建物もなく、東京湾を眼下に眺望できた。
 1階の腰壁は御影石(花崗岩)の切り出し積みで、ひさしや窓台は左官洗い出し仕上げとなっている。また、外壁はクリーム色の磁器タイルで覆われ、玄関部分はすべて御影石で造られており、扉は木製となっている。
 3階の円形講堂は8本の梁(はり)が中心に集まり、10個の窓部アーチと一体になった独特の意匠である。
 第一次世界大戰後の近代的なドイツ表現主義という建築様式で、曲線と曲面をモチーフとした力強く流れるような躍動感のあるデザインを特徴としている。
 3階から上は円筒形の望楼(ぼうろう)となっており、昭和46年まで火災の見張りに使用されていた。

  東京都


個人的に好きな建物で、この先の明治学院の建物も趣があり清正公を通るより坂もきつくないので、こちらをお勧めしようと思っています。この先港区立郷土歴史館(旧国立公衆衛生院)でトイレ休憩をとれると思うので下見はここまで。来年度このコースを歩く意味は蟻鱒鳶ル(アリマストンビル)が一番かなぁ。


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荏原七福神コース 約6.9Km

2025-02-05 11:20:09 | 東京都品川区
二月の一週目は各地の七福神を訪れる企画をしています。今回は大井町から西小山まで立会川沿いを遡上する荏原七福神。下見の様子と合わせてお楽しみください。


大井蔵王大権現神社(福禄寿)
大井町駅に集合し、立会川緑道でストレッチ。こちらの神社は駅近で川沿いにありました。


東光寺(毘沙門天)
立会川は暗渠で緑道になっている部分と、立会道路として車道になっている部分があり、大井町からしばらくは道路となっています。立会道路沿いに西へ向かい、東光寺。毘沙門天像はご本尊の脇仏とのこと。お姿を見ることはできませんでした。


ニコン本社/イノベーションセンター

横須賀線

伊藤博文公墓所
ニコン本社から立会道路を離れ、一本南側の道は光学通りとなっています。西へ行くと西大井駅近くの踏切、上に新幹線が通っています。少し先に公募所。お屋敷があった場所とのことです。


如来寺(布袋尊)

布袋尊像

大仏殿

紅梅と明王堂
如来寺は大きく見どころいっぱい、個人でゆっくり訪れたいお寺です。今回は七福神巡りなのでさらっと見学して早々に退散しました。


伊藤小学校
初代内閣総理大臣の名前が字名となり、小学校の名前として残っています。


上明神天祖神社(弁財天)
蛇窪神社として年明けからテレビに何度か登場しているためかものすごい混みよう。遥拝で済ませ次へ。


蛇窪村
蛇窪村
現在の二葉、豊町、戸越、西大井の一部は、江戸時代初期までは蛇窪村と呼ばれていました。
鎌倉時代、この地に生息していた白蛇が、地元の人の夢枕に現れ、お告げにより弁天社を建立されました。
現在、この地に暮らす人々や町会、商店街、企業などが手を結び、「スネークタウン」として街おこしを行っています。



冨士見台児童センター
センターの隣、原っぱ公園をお借りしてトイレ休憩。


立会川緑道
第二京浜を越えると幅の広い緑道になります。近くにある源氏前公園のちょっと立ち寄り。


大井町線

法蓮寺(恵比寿)

旗の台商店街
旗の台も源氏にゆかりがある地名。



摩耶寺(寿老人)
品川区指定有形文化財
 木造摩耶夫人立像
  住所:荏原7丁目6番9号
  指定日:昭和61年年3月14日
   (彫刻番号14)

 摩耶夫人とは、釈迦の生母のことである。本像は、高さ三六・九センチメートルの小型のもので、誕生仏を前に配し、飛雲の台座にのる立像である。極彩色を施し、頭に冠をいただく人形様式の極めて精巧な彫刻で、製作年代は像内の墨書から延宝六年(一六七八)であり、製作主は本寺の日明と推定される。
 本像は、高さ六一センチの厨子に納められており、摩耶堂に安置されている。保存状態は極めて良好で、江戸時代初期の人形彫刻の古い遺例として貴重なものである。
 摩耶寺は日蓮宗の寺で仏母山と号し、建立は寛文七年 (一六六七)、開山は立法院日了といわれている。
平成17年3月31日
 品川区教育委員会




小山八幡神社(大黒天)

江戸見坂上の風景
八幡様は江戸見坂の名の通り、東に開けた高台にあります。これで七福神巡り終了。ストレッチをしてから西小山駅まで歩き解散となりました。


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