負けるな知的中高年◆本ときどき花のちコンピュータ

「知の崩壊」とかいって、いつの間にか世の中すっかり溶けてしまった。
「知」の復権に知的中高年よ、立ち上がれ!

ひとりのプロジェクトから日本独自のカメラは始まった

2005年03月31日 | 詞花日暦
一番安い市販カメラの四分の一で
売れるカメラを作れといわれた
――米谷美久(技術者)

 昭和三十一年、工学部機械科を卒業した米谷美久は、写真好きの趣味を生かそうと思い、カメラメーカーに入社した。当時、同社は国産最高級二眼レフカメラなどで地歩を固めていた。入社したばかりの米谷は、安価な市販カメラの四分の一で売れる新製品開発を命じられる。
 しかも、たったひとりのプロジェクトだった。戦後の技術のおおくは海外の先進技術を模倣することで成り立っていた。「時代が代わろうとしている時期」に立ち会った彼は、挑戦意欲を掻き立てられる。オモチャはつくらない、レンズや設計で妥協しない、苦節の二年間がつづく。
 ハーフサイズでフィルムが使える利点も加わって、昭和三十四年に発売した新製品は、月に一万台のヒット商品になった。「自分でほしいカメラをつくろうとした気持ちが、好結果に結びついた」と米谷は述懐している。日本がカメラで世界を制覇する発端である。モノづくりの方向を失ったいまの技術は、模倣から脱却し、つくりたいものをつくる発想が必要なようである。

十二年間もノーモデルチェンジの記録を残した車があった

2005年03月30日 | 詞花日暦
戦後十年間の混乱期は、野心と挑戦と
試行錯誤の入り乱れた時代であった
――柳田邦男(ノンフィクション作家)

 昭和三十年代に一世を風靡した「スバル三六○」。テントウ虫に似た軽自動車である。発端は通産省による「国民車」構想だった。同じ敗戦国・西ドイツでフォルクスワーゲン(日本語訳は「国民車」)による自動車産業隆盛に目をつけ、なまえも含めてそっくり真似る発想だった。
 お役所仕事だけに尻すぼみだったが、ここで示された軽乗用車の仕様は、かつて飛行機メーカーだった富士重工業に新たな野心をもたらした。世界のどこにもミニカーの技術定説がなく、決定的製品もまだなかった。
 試行錯誤がつづいた。開発スタッフは、横向きに配置されたリアエンジン、一○インチ径の軽量タイヤ、外板やガラス素材開発などを重ねた。デザイナーは世間の流行や自分の観念的アイデアにこだわらなかった。昭和三十三年にやっと完成したスバル三六○は、十二年間、ノーモデルチェンジの記録を樹立する。戦後の混乱期を経た三十年代は、模倣から抜け出し、日本独自の発想が開花し始める技術ルネサンスの最初期だった。

アメリカの極秘戦力に電磁波爆弾(EMP)がある

2005年03月29日 | 詞花日暦
どんな人口密集地の上空で爆発しても
被害はヒロシマの五十倍になるだろう
――J・J・ナンス(作家)

 平成十五年一月、米の新聞や雑誌が詳しく書いた。三月には、イラク戦でも使用かと日本でも報道された。高出力マイクロ波照射弾(HPM)や「E爆弾」呼ばれる電磁波爆弾(EMP)である。後者は、数年にわたって開発されているアメリカの極秘プログラムともいわれる。
 いずれも、マイクロ波や電磁波で電子部品の中核である電子回路を破壊し、通信を含むあらゆる社会インフラに決定的なダメージを与える。半導体や情報工学をベースにした現代の産業や社会は、その弱点を攻撃され、機能麻痺に陥る可能性がきわめて大きい。
 核爆発を伴わない電磁波爆弾は、すでに湾岸戦争で使用したと密かに語られている。問題は核爆発を利用した場合。ナンスが描いた『メデューサの嵐』は、まさにこちらのケースである。飛行機を舞台にスリルとサスペンスに満ちたエンターテイメント小説だが、イラク側の放送施設を麻痺させた現実を考えると、けっして楽しんでばかりはいられない。

海上に目指す島はけっしてたどりつけない場所である

2005年03月28日 | 詞花日暦
私たちは、点としての島に
めぐりあうことができない
――有田忠郎(詩人)

 島という存在は、いつもふしぎな思いをさせないだろうか? 海によって隔てられているだけなのに、人々にとって奇妙な経験と感慨をもたらさないだろうか。
「島について」という散文詩を書いた詩人がいた。彼によると、旅人は「広大な空間に打たれた微小な点」に似ている島に近づき、いったん上陸するが、そこにはすでに点としての島はない。島はどこで始まり、どこで終わるかわからないという。島に住む漁民はどうか。狭い路地から直ぐに海へ開ける空間は、「塩と砂と風の王国」に委ねられ、彼らの祈りを誘っているように見える。旅人にも島の住人にも、たどり着くべきものはいつも海の彼方にしかないようだ。
 だから島を離れて帰路についた詩人は、ふたたび彼方に島の姿を認め、島の正体は「接近と遠ざかりしか許されぬもの、無限に遠い黄金郷なのだろうか」と書いた。詩人ならではの感興と思うだろうか。島とは本来そうしたのである。なにも島にかぎることはない。人々が求めてたどり着こうとするものは、けっして到達できない「黄金郷」なのだろう。

地図づくりの楽しみは男だけのひそやかな独壇場である

2005年03月27日 | 詞花日暦
地図作りの歴史には、奇妙な
島がたくさん出て来る
――M・ハーベイ(ジャーナリスト)

 もしクレオパトラに軍用地図を見るようにいったら……のあとは省略しよう。鼻の高低とはちがう奇抜なオチをいまではおおくの人が知っている。空間の把握や位置感覚を司る右脳の発達した男性にくらべ、女性は地図を読むのが苦手だといわれる。
 だから、地図づくりは男の独壇場である。地図を必要とした大航海時代の旅が、必然的に男の仕事だったこともある。地図の目的は、未知の世界を空間情報として正確に把握し、共有すること。しかし古地図を見ると、奇妙な怪物や島がいたる所に描かれている。
 半獣身が住む島、鳥がなる木の島、男や女だけが住む島などの例をハーベイは上げている。ホメロスはひとつ目巨人の島、人が豚に変えられる島、日本でも西鶴が女護島を書いた。不確かな場所だからではない。男は地図を描く際に空想をたくましくし、夢を紡ぐ。地図が苦手な女性に内緒で、二通りの地図づくりの楽しみを味わっている。

石の声に耳を傾けて城の石垣を築いた人たちがいる

2005年03月26日 | 詞花日暦
石の声が聞こえてくる
石が私に向かって、ものを言うてくるんです――粟田万喜三(石工)


 琵琶湖の西岸、坂本の町は比叡山の山すそで、延暦寺の僧房が建ち、日吉神社がある。湖に向かう斜面に家々が建つせいか、石垣がおおい。どこにでもある光景だが、よく見ると、やや様子がちがう。
 坂本一帯には、古くから石積みの古式技法を伝える一族が住んだ。「穴太衆」(あのうしゅう)と呼ばれる。四、五世紀に百済から帰化人が持ち込んだか、中国に渡った僧が仏教とともに伝えたか。はじめは民家の石垣や近くの延暦寺、日吉神社の石垣を築いた。
 ある日、日吉神社をたずねた秀吉がその技術の高さに着目し、信長の安土城建立に穴太衆を推挙したという。それまでの城は土塁かその一部に石を使う程度だった。日本ではじめて石垣の築城が穴太衆によって完成した。八代将軍が築城を禁止するまで、全国で穴太衆が活躍する。以降は衰退の一途をたどり、いまでは城の修復や民家・神社の石垣を手がけるだけ。

 たったひとり生き残った穴太衆の十三代目・粟田万喜三から技法の特徴を聞いた。
 まず形の不ぞろいな石が使われる。加工しない自然の石、野面(のづら)石が主役だ。その石も上側が下側より心持ち前にせり出すように積み重ねる。石の三分の一くらい奥の部分に重力がかかるようにすることで、雨水が石垣の間に入らず、堅牢さを保つ。敵が石垣を登るのも、弓状に反った線が防いでくれる。
 技術は口伝で遺された。「早く石の声を聞きて据え付けよ」という。粟田万喜三は石と会話しながら仕事を進める。現場には不ぞろいの野面石が無数に散乱する。「おれはあすこに座りたい、おれはあっちがいいと石がいう。そいつが座るところが見つからないと、もうちょっと辛抱しとれよと話かける。うまいところへはまると、自分ひとりで石垣を支えているような顔をしている」。
 適材適所はいつも辛抱強く石の声を聞いてはじめて可能になるという。野性的な野面石の声に耳を傾けないと、堅牢な石垣も城も完成しない。

浮世絵に登場するビードロは医学部勤務の技師が再興した

2005年03月25日 | 詞花日暦
一筋縄ではいきません。片手間で
作れるものではありませんでした
――小川勝男(ガラス細工師)

 九州の福岡では、空港でもデパートでも売っている。細く長い吹き口から空気を送ると、「ポッペン」と音を鳴らすガラス細工である。ビードロ、シャンポン、チャンポンなどと呼ばれる。江戸時代、歌麿の浮世絵にも登場した。いまではなつかしい九州の土産品である。
 伝来は長崎経由で中国から。かつては日本のどこでも見られたが、江戸末期から姿を消した。再興したのは、昭和初期から九大医学部に勤務する小川勝男。生化学の実験に用いるガラス製品をつくっていた。実際につくり始めると、一筋縄ではいかなかったという。
 思い立ってから十数年、昭和四十六年に本格的に取り組んだ。素材に硬質ガラスを選び、吹きガラス工法で膨らませる。先端の音を出す薄膜の部分がむずかしい。音の良し悪しがここで決まる。「飽きもせずよく同じものをつくっていると誰もふしぎに思う。やればやるだけ克服すべき奥深さがあるから」。モノづくりを忘れた日本人は、この奥深さを忘れた。

広島は建築家・丹下健三を決定づけた場所だった

2005年03月24日 | 詞花日暦
装飾的なものを一切取り払いながらも、
凛とした美しさを持つその設計に、
私はすっかりほれ込んでしまった――丹下健三(建築家)


 愛媛県立今治中学時代の健三少年は、数学や幾何がやや得意な普通の生徒だった。進学した旧制広島高校も「理科」だった。当時、旧制高校の学生は、酒を飲みながら議論に熱中した。話題は、哲学、文学、芸術、女性と相場が決まっていた。健三は途中で理科に疑問を持ち、文科への転向を考える。
 思いとどまらせたのは、偶然に見たル・コルビジェの設計図と模型写真だった。「装飾的なものを一切取り払いながらも、凛とした美しさを持つその設計」に圧倒された。建築は理科の人間が進む分野だが、同時に芸術とも関係することに思いいたる。広島は建築家・丹下健三を決定づけた場所だった。
 それから十余年後の昭和二十年八月、すでに東大工学部の大学院に籍を置いた丹下は、父親の訃報に接して愛媛県今治へ向かった。途中、広島を通るとき、車中に新型爆弾の話が伝わった。建築家への道を決めた第二のふるさとは、青春の思い出とともに壊滅していた。今治もほぼ全滅で、実家は跡形もない。父の死を追うように母親も亡くなっていた。
 翌年、助教授になった丹下は、のちに磯崎新、黒川紀章などを輩出する研究室を持った。建設省の前身だった戦災復興院から、破壊された都市の復興計画を立てる委託があった。磯崎は率先して広島を選んだ。原爆症にかかるかもしれない、もう草木も生えないだろうといわれたが、「たとえわが身が朽ちるも」の思いで広島行きを志願した。その成果は、広島市が主催するコンペで全国二百件の応募を勝ち抜き、一等に選ばれた都市づくり計画である。
 原爆資料館、集会広場、公会堂、公園、市の中心を走る百メートル道路、それにあの鉄骨むき出しのままの産業奨励館(原爆ドーム)など、すべて丹下のプランである。「いま世界には、平和を脅かすような問題が再び集積しつつある」。平和の祈念は素朴だと笑われるかもしれないが、丹下には建築家として自分を生んだ広島に「凛とした美しさ」という祈りをこめた。

日本人は仲間内だけで仲よくするのが得意である

2005年03月23日 | 詞花日暦
家庭での教育や義務教育の段階で、
自分の意見を言える教育をすること
――白川英樹(ノーベル化学賞受賞者)

 平成十四年は、三年連続の日本人によるノーベル賞ダブル受賞にわいた。田中耕一の生体高分子も小柴昌俊のニュートリノもわからないまま、いつものように日本中が大騒ぎをした。大江健三郎以来、六年ぶりの白川英樹(化学賞)のときもそうだった。が、それもこれも私たち凡人はもうすっかり忘れている。
 こうした現象は日本人の国民性による。創造性を育み、伸ばし、自ら評価する風土や精神が、ほとんど欠落しているせいである。「仲間うちで仲よくやっていくことは上手だけれども、……厳しく人を評価するのをなるべく避けて通ろうとする」と白川秀樹博士は書いていた。
 この悪癖を解消するには、仲間内だけでことをすませず、グループでもいいから外との風通しよくしなさいと博士は追記する。村意識、島国根性を抜け出す手段を講じなさいというのだ。くわえて、子供時代からまちがっていてもいいから、自分の意見がいえる教育のたいせつさを語った。白川博士は中学の文集にプラスチックの研究がしたいと、しっかり自己主張をしている。村意識も自己主張のなさも絶望的に変わることのない日本人の国民性である。

谷崎潤一郎の処女作は「帝国文学」で没にされた

2005年03月22日 | 詞花日暦
十八九歳から二十四五歳に至る六、七年間は、
実に暗澹たる危惧の時代
――谷崎潤一郎(作家)

 おおくの読者は谷崎潤一郎を「花々しく文壇に出た一人である」と思いがちだが、若い時期、人並みの不安を味わっていた。一つは天分、二つは文壇への手づる、三つは原稿料で食っていけるかだった。東京帝大への進学時には、創作家になる「悲壮な覚悟」を決めて国文科を選んだ。
 最初に書いた「誕生」は東京帝大の「帝国文学」でみごとに没になった。次作「一日」も「早稲田文学」に握りつぶされた。谷崎の自信はぐらついたが、「唯一の光明」は永井荷風の登場だった。この人に認めてもらいたいと、「夢のような空想に耽った」。
 明治四十二年九月、授業料未納で東京帝大を退学したのち、十一月に出た「新思潮」三号にやっと「刺青」が載った。それを片手につかんで荷風のあとを追う。レストランで対談中の荷風に勇を鼓して近づき、雑誌を手渡して、逃げるように退散した。いまでは大文豪と呼ばれる作家も、二十代前後にはきわめて凡庸な経験をしていた。というより、作品をつくるには、いつも暗い危惧と不安の方が大きいのである。

素朴な灯火用具とともに古い日本の美しさは消えた

2005年03月21日 | 詞花日暦
軟らかい明かりに心が和み、炎の
息をする音や波動が伝わってくる
――金箱正美(日本のあかり博物館館長)

 一般の人々が使ってきた灯火用具を金箱正美が収集し始めたのは、敗戦直後だった。「新しいものがつくられると、古いもの、効率の悪いものが徐々に忘れられる。明かりの民具はその最たるものだった」。
 照明の最初期は、樹脂を含んだ松の根株と自然石を組み合わせた「肥松鉢(ひでまつ)」。ついで植物油を染ませた灯芯を燃やす「しそく」。徒然草に登場するが、平安から江戸まで長い。灯心と灯油を乗せた受け皿が登場すると、周辺に台や囲いを付けた。光源がろうそくになっても同じ。さまざまな燭台や行灯が工夫され、提灯が普及する。石油を使う灯火用具は、もう日本のものではないという。
「ときおり電気を消して、昔の灯火用具を暗い部屋に灯し、静かに酒を飲みます。原初の自然の炎と明かりが、同じ自然の一部である自分と調和し、揺らめく陰影とともに心の安らぎを与えてくれます」。そんな民具を集めた博物館は、北斎の絵で有名な長野県小布施にある。

黄金の美しさは明るい光の下で見るとわからない

2005年03月20日 | 詞花日暦
陰翳のうちに美を発見し、やがては
美の目的に添うように陰翳を利用する
――谷崎潤一郎(作家)

 北国の古い民家に住むと、考え抜かれた住生活の極致を見る思いがする。庇が深く、室内はほのかに暗い。夏の暑い時期は深い庇が太陽光をさえぎり、冬の寒い季節は低くなった太陽の光が室内に達する。四季に生きる日本人の知恵である。
 それでも、直立した壁の欧風建築にくらべると暗い。金沢の奥深い座敷で金蒔絵や加賀友禅を見て驚いた。白日の下では絢爛豪華、悪くいえば金ぴかで浮薄にさえ見えるものが、まるでちがう姿で浮かび上がっていた。谷崎潤一郎が『陰翳礼讃』で「私は黄金と云うものがあれほど沈痛な美しさを見せる時はない」と書いたそのままである。
 日本独特の生活環境から生み出された美は、欧米風の住空間へ移行して、日本人の日常から追放された。よほどの数奇者でもなければ、室内に影を醸し、失わる日本美を楽しむ人はいない。たまに蛍光灯を消し、心休まる陰翳の美学を味わってはどうだろうか。日本人が捨て去ったものの美しさが見えてくる。

お彼岸の落日を利用して浄土を再現する寺がある

2005年03月19日 | 詞花日暦
阿弥陀三尊立像の配置と印を結ぶ手は、
左右が逆になっている
――浄土寺パンフレット

 太陽が真西に沈む春分の日を選んで、兵庫県の加古川をさかのぼり、小野市・極楽山浄土寺にたどり着いた。播東平野は水田が広がっているが、東寄りの小高い丘に寺はあった。鎌倉時代初期、源平の戦禍で焼失した奈良東大寺の再建拠点として建立されたという。
 堂宇は西側を背にして国宝「浄土堂」。堂内中央に阿弥陀如来像、右に勢至菩薩、左が観世音菩薩。通常の配置と左右が逆で、印を結ぶ手も逆になる。圧巻は西側の蔀戸を開け、夕日の光芒が差し込むいっとき。このお彼岸の一日、真西に沈む太陽の光が堂内と仏を金色に染め上げる。さながら落日を見て浄土を祈る心(日観想)が、目前に菩薩来迎図を再現した光景である。
 仏像の配置などが逆になっているのはなぜか。おそらく仏前に座す人々が、おのずから菩薩来迎と一体になる錯覚を誘うためではないか。太陽の運行を正確に掌握し、信仰の場に取り入れたのと同じように、人の心理も計算に入れていたのかもしれない。

仏教徒が漁業、キリスト教徒が農業という島がある

2005年03月18日 | 詞花日暦
ほどもなくパアテルは見えまさむ。
さらにまた他の燭をたてまつれ。
――北原白秋(歌人)

 九州では他の土地では見られないふしぎな光景に出会う。隠れキリシタンゆかりの地がその最たるものである。天草や五島列島で、落日の海と青い空に映えた小さな教会や墓地の十字架を見ると、明治四十年、北原白秋、与謝野鉄幹、吉井勇などを魅了した異国情緒が、いまも色濃く旅人を引き付ける。
 佐賀県呼子から十二キロ、玄界灘の馬渡島もその例である。周囲十四キロ、平地のすくない地勢に約六百人の人口。漁業と農業の島民はほぼ半数ずつで構成されている。海に近い漁業の「本村」は仏教徒。小高い山間で農業を行う「新村」はキリスト教徒である。「新村」の村人はいまでも美しい天主堂のミサに出席し、墓地には十字架が建つ。
 彼らの祖先は、十八世紀末の寛政年間に長崎から移住したと聞く。以来、明治の初年まで約百年間、「風蔭」と呼ばれる窪地に小さな田畑を耕し、仏教徒たちから隠れて密かに法灯を守った。隠れキリシタンの光景に打たれるのは、異国情緒ではない。信仰を持続しつづけた日本人の強靭な思いである。

老いはことばと知性を消し去る無残な仕打ちだった

2005年03月17日 | 詞花日暦
運命がすべてを奪おうとも、
この愛だけは永遠に奪われない
――リチャード・エア(舞台・映画監督)

 アイリス・マードックといっても、いまの若い読者にはなじみが薄い。イギリスの戦後を代表するこの作家は、『網の中』『鐘』などが一九六○年代の日本にも紹介された。それから三十数年後の一九九九年、彼女はアルツハイマー病で他界した。
 二○○三年に公開された映画『アイリス』は、彼女がヒロインになった作品である。晩年を『恋に落ちたシェークスピア』のジュディー・デンチが演じ、ドラマは記憶やことばを失っっていくアイリスとその悲惨な病状を見守る夫との激しい闘いである。
 夫君のジョン・ベイリーは、最近、翻訳された本で「アルツハイマーは、ひそかに忍び寄る霧のようにすべてを消し去る」と書いている。ことばと知性で成り立った栄光の日々が徐々に消えていく光景は、人の老いの無残さをひしひしと感じさせる。人と人の知性とはそれだけのものかもしれない。だが、夫君の愛は「永久に奪われない」とこの映画の脚本家は書いていた。それにしても最近は物忘れが多くなった。