負けるな知的中高年◆本ときどき花のちコンピュータ

「知の崩壊」とかいって、いつの間にか世の中すっかり溶けてしまった。
「知」の復権に知的中高年よ、立ち上がれ!

北国の孤高の詩人は極北の星の彼方に太陽や花を夢見る

2004年12月31日 | 詞花日暦
あゝ常に極光の彼方への思慕に戦きつゝ
夜半の太陽を夢みる……
――吉田一穂(詩人)

 孤高の詩人という呼称にふさわしい人がいる。文学賞も文化勲章も無縁、おおくは清貧にあり、ごくわずかのかぎられた読者しか持たない。だが、凡俗にまみれず、冬の暗い天に光る天狼のように輝きを放つ詩人。強いて一人を上げるとすれば、まず吉田一穂を指差すことになろう。
 北海道・積丹の寒村(古平)に生まれ、少年期を過ごした。オホーツク海の暗い冬の海は空との境もなく、雪混じりの北風が吹きすさぶ。ある冬のさなかに訪れたとき、南国生まれの筆者にはまるで世の果てに思えた。大正十五年、二十八歳で刊行した第一詩集『海の聖母』は、引用のような叙情と象徴の入り混じる詩語が鏤められた。
 やがてそれは、「掌に消える北斗の印。/……然れども開かねばならない。この内部の花は」といった世界観を経て、「新月が消えてゆく…/半眼微笑の石仏たち」へいたる。年の終わりの深更、詩人が描いた一筆の絵「半眼微笑」を壁に留め、スクリャービンの交響曲ハ短調『神聖な詩』を響かせて、新たな年を迎えるとしようか。

コンピュータは知性の拡大と同時に肉体を拡張した

2004年12月30日 | 詞花日暦
現在、コンピュータは個人の肉体的な存在を
拡張するだろうという考えを採用している
――T・シェリー(批評家)

 サイバーパンクの旗手といわれたW・ギブスンの「記憶屋ジェニー」は、新しい感性の魅力的な表現にあふれていた。キアヌ・リーブス主演の映画『JM』の原作で知っている人もおおいだろう。頭に埋め込んだシリコンチップに膨大なデータを記憶して運ぶ主人公が登場する。
 新しい感性というのは、科学技術のありうる未来が鮮烈に描かれているから。コンピュータは人間の知性を拡大する機能と同時に、肉体的な存在を拡張する働きがある。すでに頭脳が司る記憶をハードディスクやチップが引き受け、ユビキタスから生き身の人間の一部機械化であるヒューマノイドまで近い。
 同じギブスン作『ニューロマンサー』の主人公ケイスは、「肉体は抜け殻で、心はどこか別の場所にある」。肉体を持たない人の心や精神は、疎外感と孤独に捉われている。とすれば、技術進化の果てにある近未来は人間を表現した世界として新鮮だが、けっして魅力的とはかぎらない。ただし、世界は確実にそちらへ向かっている。

月山の黒い森には異形の神々と人の擬死や再生がある

2004年12月29日 | 詞花日暦
その黒い森に……異界のメッセージ
ともいうべきものが放たれている
――久保田展弘(宗教思想家)

 冬の季節の山形では、どこからも雪に被われた月山が目に入る。海岸線から屹立した鳥海山の姿にくらべると、広がりのあるたおやかな稜線である。その下に「黒い森」があり、異形の神々と人々の「擬死と再生」が息づいているとは想像もつかない。
 月山一帯には、怪異な相貌を持つ蜂子皇子の像がある羽黒山、巨岩の割れ目から湯が湧き出るご神体の湯殿山、捕陀落や竜神の棲む池がある月山が連なっている。この出羽三山は神仏混交の霊地であり、修験道の呪法と修業の場である。久保田展弘によると、「宇宙マンダラ」でもある。
 平安・鎌倉に栄えた熊野や吉野と一線を画した出羽三山は、「土着の山岳信仰に基礎を置く」土着修験。「神信仰と習合して現在・過去・未来にわたって救済を果たそうとする仏教の世界観」があると久保田は書く。生命の誕生から死をへて浄土へいたる輪廻転生をこの山岳修業は生き身の人に体験させ、人が自然と生きる力を与える。雪に埋もれるきびしい北国だけに、生命力や再生への願いは強い。

日本酒とワインの効用はきわめて類似している

2004年12月28日 | 詞花日暦
日本酒とワインとは、他のどの酒とも
違った特徴と働きを持っている
――吉田健一(作家・批評家)

 美食家で鳴らした吉田健一は、父・吉田茂に代表される家門のせいか、概して他家からの到来ものや高名な食べ物について書くことがおおい。まちがっても、東北の田舎料理や東南アジアの屋台料理が登場することはない。それでもオルソドックスの料理と味覚については的確である。
 酒についての一家言にはうなずかされた。それは日本酒とワインについて語ったことである。ウイスキーやブランデーのような蒸留酒とは異なり、世界でも代表的なふたつの醸造酒が持つ特長について語った。
 たとえばウイスキーやブランデーなら、食後の酒と決まっている。当然、食前には別の酒が用意される。これに対し、日本酒とワインは食前から食後まで一貫して味わえる酒だという。食前、食中、食後のそれぞれの段階で、日本酒とワインはちがった味を醸すふしぎな働きを持つのだ。酒飲みはとっくに承知のことだろうが、まだの人は一度試すといい。時の流れとともに、日本酒とワインの味が別の顔をして立ち上がってくる。

いまもつづくわいせつ裁判は国家権力のむだ使いである

2004年12月27日 | 詞花日暦
嫌いな人は見にいかない。
自由にまかせておけば足りることである
――内田剛弘(弁護士)

『愛のコリーダ』の脚本とスチール写真が、昭和五十二年八月、東京地方検察庁に起訴された。被告は脚本の著者・大島渚、出版者の竹村健一。罪状はわいせつ文書図画販売など。同年十二月に第一回公判が東京地裁で始まり、二年後の十月、無罪が確定した。が、五十五年三月には、検察官側が東京高裁に控訴。同年七月に公判が始まり、五十七年六月、七回目の公判で控訴が却下された。
 主任弁護人の内田剛弘は、プライバシー保護法、サリドマイド訴訟などで知られた気鋭の社会派弁護士。東京高裁での控訴棄却後、「無罪が確定するまでの満七年の間……いかに莫大な時間と努力と費用をかけたことか」と内田は書いた。
 筆者は高裁の裁判をすべて傍聴し、記録を一冊の本『わいせつの終焉』にまとめるお手伝いをした。憲法一七五条を盾に起訴をつづける「警察・検察当局の恣意的取締り」は、表立って目につかないが、いまも進行中と内田はいう。「風俗警察・検察ひいては裁判」は、国家権力によるとてつもないむだを繰り返している。

ケイタイは若者の奇妙なコミュニケーションを浮き彫りにした

2004年12月26日 | 詞花日暦
心の奥の寂しさを埋めたくて、
誰かと一緒にいたい
――岩下久美子(ライター)

 よほどビジネスで時間を争う現場にいないかぎり、中高年にとって、携帯電話は高い通信費になる。概して一通話数百円になる通話料は、愚にもつかない情報交換に使われることがおおい。しかし、若い世代はさらに高額な通信費を払って、ケイタイを使っている。
 三十歳までの若者の七七%が「必需品」と見なし、「ケイタイとはいつも一心同体」である。岩下久美子によると、彼らがケイタイを使っている理由は、「心の奥の寂しさを埋めたくて、誰かと一緒にいたい。自分をわかって欲しい」からという。
 他方、ケイタイを多用するのは、けっして傷つかない通信手段でもあるため。お互いの領域に立ち入らず、傷つきそうならさっさとホールドボタンを押す。常に留守番電話にしておき、話す相手を選別する手もよく使う。彼らは面と向かい、歩み寄り、人間関係が築けない。「つき合い方はあくまで軽く、短く」がいい若者は、この便利な文明の利器によって育てられている。

目の不自由な人のためにつくられた美術館がある

2004年12月25日 | 詞花日暦
目の不自由な人も
ロダンを見る権利がある
――村山亜土(ギャラリー・TOM代表)

 海外の美術館では、目の不自由な人が作品に触ってもいいシステムがある。ボランティアの専門家も付いている。日本では雨後の竹の子のように美術館ができたが、作品をガラスで封じ込め、指一本触れさせない。
 東京・渋谷のギャラリー・TOMは、例外的な存在。ロダンやマイヨールなど、誰もが触っていい。「目の不自由な人もロダンを見る権利がある」という主旨で始まった。全国の盲学校から作品を募り、子供たちの作品も展示する。
 先天的全盲の人の作品があった。陶器や素焼きでつくった彫刻は、一様に色が黒い。鳥を描いた作品は、ほとんどが異様に大きい口を開け、何かを叫んでいる。声からの連想だが、羽ばたく姿はない。塔のテーマでは、ガウディの作品のように、どれも塔から枝が生え、奔放なイメージに満ちている。ギャラリー主人・村山亜土は「一般の子供たちをワクにはめる教育とちがって、彼らには固定観念がない。どちらが自由だと思いますか」という。ちなみに村山亜土は、演出家で名を残した村山知義の一子である。

SF作家が描く奇妙な人間関係は現実になりつつある

2004年12月24日 | 詞花日暦
科学という果樹園は巨大な怪物になり、
一枚の地図もなく、道もわからない
――A・アシモフ(SF作家)

 SF作家・科学者のアイザック・アシモフが『はだかの太陽』で描いた未来人は、高度な科学技術で新たな通信手段をつくり出した。自分の姿を三次元画像にし、遠く離れた相手の部屋へ伝送する。まるでその場にいるような姿をして、相手と接し、会話をする。
 その結果、未来人は奇妙な状態に陥った。人間同士が生き身の姿で会うことになぜか嫌悪を感じ始め、映像とちがう現実の人間がそばに近づくと、いわれない恐怖感に襲われる。裸の太陽という自然すら厭うようになる。
 けっしてSFの夢物語ではない。伝送量の多い光ファイバ、三次元映像を容易にするホログラフィ技術が完成している現在、そう遠くない現実である。携帯電話を多用する若者たちも、すでに面と向かい合うことを避けつつある。現代科学がもたらす方向には地図も道もないと書いたアシモフは、その一面を作品で警告した。アメリカで発達したSFはアメリカ人の良心だと、筆者はひそかに思っている。

植物のカタカナ表記「イ」「ナ」「モ」はだれにも判読できない

2004年12月23日 | 詞花日暦
常に感じ、常に楽しみつつ、
豊かな表記を試みるのが良識というもの
――塚本邦雄(歌人)

 塚本邦雄が引用のように書くのは、草木の名称の表記について。ことの起こりは、植物や動物の名がかな書きに決められ以来。たしかに新聞や本で、カタカナ表記の植物名を読むにつけ、とまどうことがおおい。一読ではわかりにくく、読み返すわずらわしさに悩まされる。
 バラはまだいい。でも薔薇と書くと、花弁の重層する華麗さが思われる。ヒガンバナもいいかもしれない。が、彼岸花だと、咲き乱れる季節が一挙に甦る。アジサイよりも紫陽花の方が花の色まで匂い立つ。一文字の「イ」や「ナ」や「モ」はどうだろう。「イ」は藺、「ナ」は菜、「モ」は藻でなければ、見当も付かない。
 塚本は意地悪な例を上げてみせた。「リュウグウノオトヒメノモトユイノキリハズシ」。ざっと読んで理解できるだろうか。「竜宮の乙姫の元結の切り外し」。古典に登場する「焼くや藻塩の」の藻のことらしい。これほどひどい例はざらにないが、やはり植物の名はかなや漢字混じり、ときには漢字にルビを振るのが「良識」だろう。わかりやすさと同時に文字を読む楽しさが増える。

草木はむかしから逆立ちした人間に譬えられた

2004年12月22日 | 詞花日暦
私は草木の栄枯盛衰を観て、
人生なるものを解し得た
――牧野富太郎(植物学者)

 高知の酒造家に生まれた牧野富太郎は、小学校中退後、家産を食いつぶしながら、植物の採集と分類に没頭した。独学が認められ、のちに東京大学で助手や非常勤講師になったが、学歴のない彼はそれ以上許されなかった。アカデミズムに追放された彼は、世俗の出世に関係なく、いまでもおおくの人々に役立つ「植物図鑑」などの業績を残した。
 その牧野が「花は誠に美麗で、かつ趣味にとんだ生殖器である」と書いた。奇矯ないい方だが、西欧でも中国でも、古くから植物は逆立ちした人間に譬えられた。ただし、これは極論。雄しべ雌しべを囲む花弁など、人でいえば、髪や顔や衣装といった身体の表情に近い。花は特定の器官より、性を表す美しい装いというべきではないか。
 だから彼は、人々が咲き誇る花々を見れば、「あの優しい自然の美に打たれ、和やかな心にならぬものはあるまい」と書いた。草木を愛することで、「人間愛」を養うことができるとも追記した。草木や花々は、邪な人間に慈悲の心や思いやりを与えてくれる。

日本美学の基礎を築いた利休の思想は短命であった

2004年12月21日 | 詞花日暦
美を生活の友とする尋常な趣味生活が
ほとんど不可能になって了まった
――小林秀雄(批評家)

 茶道の歴史に不案内としながら、小林秀雄は茶器類にふれ、「利休の健全な思想は意外に短命なものだったのではあるまいか」と書いた。千利休の時代には、美しい器物を見ることと使用することが一体になっていたが、そんな「美を生活の友とする」時代は早々に消えてしまったという。
 言われてみれば、そんな気がする。一例が美術館。手の届かぬ作品をただ眺め回るだけの鑑賞は、美とも生活とも関係ない「夢遊病者染みた機械的運動」と語る小林の言い分もわかる。美とはもはや、生活のために創られていないとも。たしかに、人々はゴッホのひまわりを自宅に飾り、利休自作の茶杓を日常に使うことはできない。
 だが、人々の周辺には心すれば数おおくの美は存在する。歴史的評価や権威とは無縁の、美しい作品や用具や自然がつくり出されている。もし小林の指摘のように消えてしまったものがあるとすれば、生活に美を必要とする近代人の心である。美術館に収納される作品だけを美とする生活者の荒廃した意識が、幅をきかせたせいである。

幻の花である京丸牡丹には後日譚がつづいている

2004年12月20日 | 詞花日暦
いろ紅にして黄を帯たる花とある。
シャクナゲであろう
――柳田國男(民俗学者)

 天竜川支流の山中にある幻の京丸牡丹について、柳田國男は石楠花だろうと推測した。静岡在住の弁護士・市川勝は、この石楠花説を「山中に石楠花多し」と書いた吉田東伍(『地名辞典』)から、折口信夫、柳田國男、岡野弘彦(『花幾年』)へ至る線上に形成されたという。
 いずれも実地調査した結果でないから、市川は四十年のキャリアを持つ地元営林署の職員にたずねた。「京丸ボタンは、これだと特定できる花木はない。だから植物学上、存在しない」。それにも屈せず、市川は同職員に頼み、岩岳山の急勾配をあえぎ登った。
 山頂付近で見たのは「ピンクの花の咲きみだれる樹木」の群生だった。「あそこに京丸ボタンが」といわれたのは、この地に咲く天然記念物「アカヤシオ」である。時を置いて、「シロヤシオ」も咲く。繚乱と咲くこのあでやかな花が、地元では幻の正体だろうと語られている。むろん京丸牡丹の不在証明にはならない。謎はときとして解けないがいいのかもしれない。

高さ二間の巨木に巨大な花をつける幻の牡丹がある

2004年12月19日 | 詞花日暦
京丸牡丹は見事開花した
世にも美しき伝説である
――阿部寒林(俳人)

 静岡県の北部、天竜川と大井川に挟まれた奥深い山中に、京丸牡丹が語られて久しい。天保十四年、柳沢里恭の随筆は、谷間をへだててふた抱えの巨木と紅色の花を伝えた。『遠山奇談』は、高さ二間の巨木と遠見にも菅笠ほどに見える白い花を語った。
 阿部寒林は材木商という仕事柄、山林の持ち主・藤原忠教に会う機会があった。そのときには話題にもならなかったが、のちに藤原の牡丹実見談を「旅と伝説」誌上の伝聞で知った。ここでも番傘ほどの白い大花が、本家から谷越しに眺められたとある。やはり寒林の知人で、北穂高小屋主人・小山義治による牡丹探索の紀行にも触れている。「岩岳山の頂上真下に咲く花で……大正年間に咲いたが、折悪しく忠教氏は東京で遊学のため不在して見られず、その後は未だ開花しない」と。
 植物学者・牧野富太郎は、「京丸の牡丹というものは無論真生の牡丹ではなく……疑いもなくモクレン科のホオノキである」と書く。幻はその後も謎のままであった。

開放された奴隷は自由を捨ててふたたび農園に帰ることがある

2004年12月18日 | 詞花日暦
女性は男性へ向けて性急な異議を唱え、
自分達は自由で男性と平等だと主張する
――P・レアージュ(作家)

 ポーリーヌ・レアージュという女性名は、フランスのエロチシズム文学『O嬢の物語』の作者として有名。実際はフランスの高名な男性批評家の仮名である。わざわざ女性名を選んだのには、それなりの理由があった。
 レアージュの本の序文にこんな逸話がある。さる農園主が奴隷達を開放した。が、やがて彼らは農園に戻り、奴隷の方がいいと告げる。平等と不平等はけっして単純に割り切れない相関関係にある、そうレアージュは語ろうとした。とりわけ男女関係の場合において。
 一般的に愚かな男は力を誇示して、女性を支配しがち。たしかに肉体的には主人であるが、それは同伴者たる女が望むかぎりという条件付である。実際は、ひざまずき、哀願する女が命令を与え、「女の支配力は表向きの力の失墜と関数関係をなして増大する」とレアージュはいう。いずれ女が支配者なんだから、平等などと主張しないでおきましょうよというのだ。さて女性名の影に隠れた男の作者は、ふたたび舞いもどってきた奴隷のように、女が男に隷属するのも悪くないんだよといいたいのだろうか。ジェンダーの平等はそれほど単純に割り切れない。

食材の改良はときに本来の味を見捨てることがある

2004年12月17日 | 詞花日暦
私にとってヤマイモほど
なつかしいものはない
――檀一雄(作家)

 寒い季節になると、山芋掘りが始まる。ここでいう山芋は、砂地で大量に栽培されるヤマイモではない。山間に自生したほんものの自然薯である。身近に自然がある人にも、都市圏の消費者にも、いまでは遠い記憶になった。檀一雄は少年の日を振り返り、「なつかしい」と書いている。
 筆者にも経験がある。山芋らしい蔓に残った枯葉に紛らわしいものがあった。ハート型の形状が鋭角になった葉のものは山芋そっくりだが、苦労して掘り出すと堅くて食べられない。山中の石や木の根に邪魔されて曲がった自然薯は、姿のまま掘り出すのにいろんな小道具が必要だった。
 懐かしいのは、やはり栽培ものと比較にならない濃厚な味である。檀は麦飯にトロロ汁でないと「完全なうまさがお腹の底に沈みこまない」という。が、だし汁を加えながら擂鉢で摺ったトロロ汁は、もうそれだけで何ものにも変えがたい。油で揚げる、吸い物に入れるといった食べ方も、粘りの強い自然薯ならでは。山芋掘りの季節になると、本来の味を見捨てた大量消費用食材に馴らされた貧しい食生活をしきりに思いやる。