負けるな知的中高年◆本ときどき花のちコンピュータ

「知の崩壊」とかいって、いつの間にか世の中すっかり溶けてしまった。
「知」の復権に知的中高年よ、立ち上がれ!

予定のほぼ1年近く経ち、このブログは今日で終了します

2005年06月05日 | 詞花日暦
ホタルたちはしばらくのあいだ気ままに光を放ち
……ほぼ完璧に同期して集団で光のパルスを放つ
――マーク・ブキャナン(物理学者)

 6月の声を聞いて、当初予定していた一年間がほぼ経とうとしています。いたずらに伸ばすのも意味がなく、この辺で終了とします。なおご参考までにいくつかのご報告とお礼を添えておきます。

1)1年前にスタートした時点で、NTTのブログは約3万から23万に増加した。
2)不気味な「集団の光パルス」でなければいいが。
3)当ブログのアクセスIPは、毎日平均90台であった。100を超えることはたまにしかなかった。
4)逐一ご挨拶しないが、閲覧していただいた少数の方々にお礼を申し上げたい。
5)コメントなどをわざわざいただいた人々には、さらに深謝を捧げたい。
6)楽しい思いや参考になる意見がありがたかった。
7)このブログはしばらくこのままの状態で置き、コメントがあれば返事を書く。
8)コメントがとだえ、アクセスが減少した時点で消去する。
9)コメントをいただいた方々は、必要なコメントを保存されますよう。

 堅苦しい話題が多く、日々、恐縮していました。いずれどこかでお目にかかることがあるかもしれませんが、皆様、ご壮健にお過ごしになられますよう。(菅原)

「愚」に徹しきれない私は無私の「美」の宣教者でありたい

2005年06月05日 | 詞花日暦
本来の愚に帰れ、そしてその愚を守れ
「分け入っても分け入っても青い山」
――種田山頭火(俳人)

 山頭火がまだ十代のはじめのころだった。彼の出生地、山口県防府市から瀬戸内海を隔てた至近の松山に生れた正岡子規は、旧来の連句は文学ではない、発句(俳句)こそ文学であると説き、写生による俳句革新を提唱した。
 二十代の山頭火は、早稲田大学を退学し、生家の酒造業に精を出しながら、ときおり句作を行った。三十代のはじめには、荻原井泉水が主催する句誌に投稿して入選した。三十二歳のとき、防府市に井泉水を招いて句会を開いた。この年、井泉水は俳句の季語廃止を宣言している。
 四十代と五十代の山頭火は、ひたすら放浪の旅にあった。禅門に入って、出家得度した直後だから、袈裟に身を包み、一鉢一笠の行乞放浪である。このとき、有名な「分け入っても分け入っても青い山」を発表、本格的に俳句へ復帰する。出身地の山陽道はもちろん、近くの九州一円、さらに関西、関東、東北へ足跡を残している。
 ***
 五十代のはじめに「私は労れた」と書いた。袈裟の影に隠れ、嘘の経文を読み、托鉢に技巧を弄する行乞に耐え切れなくなっていた。
 一方で日本は中国に侵略し、戦争の時代がはじまっていた。「征服の時代である、闘争の時代である。……人と人とが血みどろになって掴み合うている」。無能無力、時代錯誤的性情の自分は、ラッパを吹くほどの意力もない。
 山頭火はひたすら「私」にこもり、「時代錯誤的生活」に沈潜する。「空」の世界、「遊化」の寂光土に精進するほかないと結論付ける。「本来の愚に帰れ、そしてその愚を守れ」と自らにいいきかせる。
 句作と放浪生活は、好きなものを好きといい、きらいなものをきらいという幸福を貫いた。五十八歳、心臓麻痺でひっそりと死んだ。「端的に死にたい」という希望通りだった。

こうした若者がいまでも少数は残っているのを知ってほしい

2005年06月04日 | 詞花日暦
知識で憶えるのではなく、身体で憶える
古今東西、どんなに科学が進んでも、
モノをつくる仕事とはそうしたものでしょう
――小川三夫(宮大工)

 高校生が修学旅行で京都や奈良に行く。法隆寺の塔や東大寺の大仏を見る。その美しさに打たれ、自分もつくってみたいと思う人は少しはいるだろう。しかし卒業と同時にその希望を実行に移す人は、ほとんどいない。
 小川三夫は栃木県の高校を卒業した三月、奈良の県庁に行き、塔をつくる仕事を世話してほしいと頼んだ。のちの師になる西岡常一の名も知らなかったが、紹介されてはじめて会った。おり悪しく、法隆寺の大修理が終わったばかりで仕事がない。棟梁は言下に断る。何度たずねても、宮大工なんて食っていけないし、きびしい修行が必要だと突っぱねた。
 小川青年はへこたれない。「塔を構成する部材の一つひとつが大きい。しかもそれが壮大で美しい建造物の姿に仕上がっている。千三百年もまえ、道具もないのによくこれだけのものを建立したという驚き、つくり上げた無名の人々のこころに動かされた」。
 ***
 奈良を後にした小川は、塔と多少は関係あるだろうと思い、雪の深い長野県飯山で仏壇づくりに一年を費やした。あとの二年は兵庫や島根で図面書きの仕事をして待ちつづけた。
 三年たったとき、西岡常一から声がかかった。法隆寺の三重塔が工事を再開するという。はじめは一番下っ端の弟子である。師匠はなにも教えてくれない。仕事は真剣勝負だから、師匠に教えるひまなどない。朝、昼、晩、師匠や兄弟子の食事づくりばかりがつづいた。
 「大切なのは、師匠と仕事の現場を同じくすること。自分で見ながら盗んでいくしかない。知識で憶えるのではなく、身体で憶える。古今東西、どんなに科学が進んでも、モノをつくる仕事とはそうしたものでしょう」。
 いまではいくつもの塔や寺院を手がけ、弟子を抱える身になった。仏や神が住まう塔づくりは、仏や神への祈り。自分の手と頭を使ってしか、人間の祈りはつくりだせないと小川は語っている。

実業で成功する人は芸術家の夢はほどほどにしか採用しない

2005年06月03日 | 詞花日暦
言い度い事を言い、したい事をして、
もちろんそれが出来る人は沢山あるには違いないが、
しかし不幸にもそういうタイプの人は大概落伍している
――小林一三(事業家)

 小林一三は明治二十六年に「十等手代として」三井銀行に入社して以来、阪急電鉄、宝塚少女歌劇、東宝映画などを手がけた。その足跡から見ると、堅実な銀行員ふうのワクをはみ出し、やりたいことを奔放に実行した印象がある。そんな彼が、いいたいことをいい、したいことをする人間は、大概ビジネスの世界から落伍するという。予想外のことばではないか。
 しかしこれが小林一三の本音であり、事業手法だった。宝塚少女歌劇の前身少女唱歌隊をつくったのは、大阪三越で評判だった少年音楽隊の先例を模倣し、少女に限ったのは男女共修を「危険である」と考えただけである。まさに本人もいう「イージーゴーイング」からの出発にすぎない。
 ***
 宝塚少女歌劇の指導を依頼したのは、グループ企業三井物産の重役令嬢の夫君・安藤弘だった。彼はオペラに対する野心を持ち、十五、六歳の女の子だけでなく男性も一緒に養成すべきだと主張していた。
 一三は「安藤先生の野心は、ややもすれば理想に走って」と考え、安藤の「芸術家として燃ゆるがごとき信念」を退けてしまった。したいことをしようとした青年の夢を実業家・小林一三はもののみごとに拒絶したのである。
 のちの一三は書いた。「これは宝塚の失敗であったかもしれないが、営利会社の経営者としては、恐らくこの程度で満足することの安全なるに如かずとあきらめて居ったのである」。
 これを実業家・小林一三の英知とでもいうべきなのだろう。けっして落伍することなく、七十九歳でもまだ事業の夢を追った彼は、「言い度い事を言い、したい事を」するのとは別種の経営者だった。戦前の財閥という強固な基盤をもった時代の経営者だったせいだろうか。

「神性」が示される山を求める旅はフランスにもあった

2005年06月02日 | 詞花日暦
「至高点」という思想が、このような
風変りな冒険小説の形で開花した
――澁澤龍彦(仏文学者)

 ルネ・ドーマルといえば、仏文学の専門家が知っている程度で、日本語に訳されるなど稀代のこと。まして文学離れの現代人が読むことは想像だにできない。『類推の山』を書いた彼は、二十世紀初頭、シュルレアリスム運動の影響下に生き、一九四四年、三十六歳で死んだ。
 物語は、登山家、画家、言語学者、詩人など総勢八名が「類推の山」を目指し、海を渡る旅。ここでいう山は、天と地を結び、永遠の世界に通じ、「神性が人間に掲示される」通路。日本の補陀落渡海にきわめて類似している。そういえば、作中でインドの須弥山に言及しいている。
 作者は類似した山に旧約聖書のシナイ山、新約聖書のゴルゴタの丘などをあげるが、いまは力を失った平凡なものになっている。彼が求めるのは、まだ誰も知らない「宇宙が未知の眺望をもってその頂から見渡せる類推の山」である。旅の結末は書かずにおこう。山での神秘な体験はギリシャ以来のもの、近代人が技術や実用主義で見失ったものだという。

美しい『火垂るの墓』は野坂昭如の重荷になった

2005年06月01日 | 詞花日暦
逃げすぎたことのやましさが、
胸の底に澱の如くよどみ、おりにふれて湧き上がる
――野坂昭如(作家)

 昭和二十年六月五日、神戸大空襲で野坂は家と養父母を失った。まだ十四歳の少年だった彼は、このとき自分が「逃げすぎた」とあとで告白した。逃げたうしろめたさが、のちまでずっと尾を引いていた。
 そのひとつは、まだ一歳六カ月の妹を餓死させたことだった。
 家と両親を失った彼は、阪急夙川駅から六甲山へ約十五分、満池谷にある遠縁の家に身を寄せた。ニテコ池と呼ばれた貯水池の下だった。焼け跡から食料などを大八車で運ぶとき、小川には蛍が飛び交っていた。
 幼い妹の世話は、父や母のようにはできない。泣き出すと夜中でもおぶって表を歩き、ときに汗としらみでまだらになった肌を海水浴でいやした。夜には蚊帳のなかに蛍を放ち、妹の気を紛らわせてやった。のちの小説『火垂るの墓』の光景だった。
 ***
 だが野坂は、この文章にはずいぶん嘘がまじっているという。
 石を並べたカマドでおかゆを炊く。おかゆをよそうとき、米粒を自分の茶碗に取り、妹には重湯の部分だけやる。それも匙で彼女の口に運ぶとき、熱を冷ましながらつい自分の口に入れてしまう。菜園から盗んだトマトを妹にと思いながら、つい自分の口におさめてしまう。
 ほかのことはなんでもした。おしめの洗濯も気にならない。ただ食欲のまえにはすべての愛もやさしさも色を失った。せめてあの小説に出てくる兄のように、妹をかわいがってあげればよかったとあとになって思う。無残な骨と皮の死にざまがくやまれる。
「ぼくはあんなにやさしくはなかった」と書き、自分を哀れな戦災孤児に仕立て、妹思いの兄のように書いた嘘が、野坂にはのちのちまで重荷になる。育ち盛りの食欲に負け、美しい話にした逃避が、いつもやましさとして湧き上がってくる。