負けるな知的中高年◆本ときどき花のちコンピュータ

「知の崩壊」とかいって、いつの間にか世の中すっかり溶けてしまった。
「知」の復権に知的中高年よ、立ち上がれ!

ついに1万2千円($100))のパソコンが登場する

2006年10月31日 | Weblog
このブログでいつか$300で提供される「VWPC」について書いた。VWとはフォルクスワーゲンのことで、多くの人々が安価で入手できる国民的PCを意味していた。しかしこのプロジェクトは大手企業など、さまざまな妨害によって破綻してしまう。

ところが来年辺りから、なんと$100のPCが登場する。OSはLinux、プロセッサは500MHz、DRAMは128MB、Flash Memoryは500MB、モノクロとカラーのデュアルモードモニタといったスペック。手許のPCとくらべると、どの程度のものか想像がつくだろう。けっしておもちゃではない。

企画の母体は非営利法人One Laptop per Child (OLPC)。中心になっているのは、MITメディア・ラブでおなじみ、日本にも翻訳された『Being Digital』の著者Nicholas Negroponteである。さらに興味深いのは、PCの歴史をかじった人ならよく知っているSeymour PapertやAlan Kayの先駆的アーキテクチャが用いられる。

販売対象はとりあえず、中国、インド、ブラジル、アルゼンチン、エジプト、ナイジェリア、タイなどで、政府が一括して購入し、学校の生徒たちに配布する。コンピュータ・リテラシーに遅れ勝ちな子供たちにPC利用を促すのが目的である。

さてIT立国を唱える日本政府、このプロジェクトに乗るだろうか? やはり国内企業優先、ユーザー無視だろうな。学校ではまだPCが十分行き渡っていないというのに……。

3人の子供に与えらた木の話について

2006年10月30日 | Weblog
藤の花を調べていたとき、幸田露伴が藤について書いた文章は知っていた。そのときは知らなかったが、娘の幸田文が藤を巡って父親との間で起きたことを書いた文章をあとで読んだ。露伴はあまり読まれないが、文の本はかなり読む人がいるらしく、文庫本で簡単に入手できる。

その中にまだ小さいころの子供3人に木を与えた話があった。子供とは長女、次女(文)、弟の3人である。与えられた木は不平等がないように、同じ種類の木をそれぞれに植えた。子供たちは、蜜柑、柿、桜、椿という自分の木の持ち主になったのだ。

花も実も持ち主が自由にしていいが、そのかわり条件が与えられた。害虫に注意すること、施肥をしてくれる植木屋さんにおじぎをすること。都市住まいではなかなかできないことだが、いい話である。

「植物学の父」牧野富太郎は、「草木に愛を持つことによって人間愛を養うことができる」と書き、慈悲心や思いやりの心を養ったという。3人の子供の父親の思いも同じだったろう。殺伐な事件の多い現在、親にも子にも、植物を愛し、花々を愛でることが欠けているのかもしれない。

見ぬ世の人を友とするぞ、こよなうなぐさむわざなる

2006年10月29日 | Weblog
歳のせいかなあとときどき思っていた。40代の後半辺りから本好きな友人や後輩に「古い本」を読むようによく話す自分がいた。50代になって新刊本をあまり購入しなくなった。なにより手許に「古い本」がたくさんあり、それだけで読書の物理的時間がふさがってしまう。

何だか若い頃によく聞いた台詞だなあ、よくあるパターンだなあと感じながら、村上春樹や宮部みゆきなどを10ページ読んでつまらなければやめてしまった。それじゃあ時代遅れだよといわれそうだったが、現代に対する問題意識は本を読まなくても十分考えるメディアや機会はあった。

古い本とは俗にいう「古典」、堅苦しく、古めかしい本である。考えたら、古典といわれる本をきちんと熟読することが少なかった。歳のせいか、読み始めると、それぞれがいかに新しいかということも、数百年に亘って生き延びてきた理由も発見した。読書の比重を移したことに反省はなかった。

「ひとり灯のもとに文をひろげ、見ぬ世の人を友とするぞ、こよなうなぐさむわざなる」「いにしへに変わらぬなどといふ事もあれど……昔の人の詠めるは、さらに同じものにあらず……姿もきよげに、あはれも深くみゆ」。いまでは齢を重ねた功徳だと思うことが多い。

川をさかのぼる楽しい旅が尽きない

2006年10月28日 | Weblog
いつからか川が好きだった。たぶん、中学時代の理科で習った川が年齢を重ね、たとえば「壮年期」などというように姿を変えていくことが下地になったかもしれない。あるとき西は長野・静岡県から東は東北まで地図上で分水嶺をなぞった。ほぼ一本の線が描き出された。ネックは大きな湖の存在だった。

これをもとに暇をみては、河口から源流まで川を辿る旅を試みた。途中からカメラマンとふたりになった。あれからいくつ川を巡っただろうか。たぶん最初の川は静岡の安倍川だった。いつも新幹線でこの川を渡るとき、山すそに消えていく川の姿が気になっていたせいだった。

この川の河口近くから分流する藁科川もさかのぼった。源流は滝だった。長野の塩尻には、分水嶺で水がどちらに行こうかとたゆたっているところがあった。姫川の源は湿地になっていた。源流だけでなく、河口に至る長い道のりに人々の生活と古い歴史や文化が、それぞれ残っている。人々の生活が川とともにあり、独自の文化を伝えている。同時に国の行政によって、川が様変わりしている光景も多い。

残念なのは、カメラマンも私も時間ができるのはなぜか夏の季節になる。春や秋が少なく、まして冬は皆無に近い。源流が雪に閉ざされ、川も私たちも冬眠に入ってしまう。現役を退いたらと思いつつ、いまでもときおり地図を開き、川をさかのぼっている。楽しい旅である。

電子ブックの「かたりべ」を試してみた

2006年10月27日 | Weblog
テープコーダーが普及してから、お話や小説の朗読をテープで提供する例があった。いまではCDでも入手できるのだろう。秀逸だったのは、宮沢賢治の童話を東北弁で読んだCDだったが、誰かに貸して以来、行方不明。なにより文字を追う読書とちがう味わいがあった。

できるものなら、疲れ果てた夜など、自分で読みたい本を誰かがそばで朗読してくれたらと思うことがある。折りよくそんなソフト「電子かたりべ」が、アルファシステムズからとりあえず無料で提供された。これは以前にも触れたボイジャー社の「T-time」で読める電子ブックなら、自動的に音声で読み上げてくれる。

早速インストールして、今読みかけの本を試みた。たしかに快調に読み上げてくれる。電子合成音の声がいささか気になるが、以前の合成音とくらべれば、それほど聞きづらいわけではない。音声の調整もできるようである。将来はもっと人の声に近くなるだろうし、男女のさまざまな音声が用意されるかもしれない。

ソフトのインストールがちょっと面倒なのと、ソフトの容量が意外に大きいのが難点だろうか。「T-time」で読む電子ブックはすぐ入手できるし、あるいはすでにPCで読んでいる人もいるだろうから、一度、試してみるといい。語り部ロボットを枕元において、ちょっと命令すると本を朗読する近未来を夢見ながら、ときおり耳を傾けている。

「ケータイで読む小説が大ブーム」とか

2006年10月25日 | Weblog
最近の日経BP社が伝える情報では、10代の若者たちの間で、ケータイで読む小説の伸びが著しいらしい。この小説はエンタテインメントコンテンツのなかに含まれるもので、これまで音楽を筆頭にゲームなどが主流だったが、小説・マンガも、06年に前年比9倍の540億円に達すると見込まれているとか。

ただしその小説は、わたしたち中高年が想定する種類のものではなく、一般の素人が書いた「等身大の物語」だという。プロの作家のものや古典的な作品ではないらしい。俗にいう「ライトノベル」の類だろうか。 かつていわれた若者の文字離れは、けっして巷間に語られたように起きていたわけではなかった。

問題は作品の内容とその質である。何が読まれなくなり、何が好まれて読まれているのか、質してみる必要がある。そうしないと、「大ブーム」といって、一概に喜んでばかりはいられない。素人が書いた等身大という表現から見ると、きわめて即物的なことばによる作品かもしれない。古いことばが死に瀕しているのかもしれない。

DELL社の製品を買う意欲が殺がれていく

2006年10月24日 | Weblog
少し前、予備に購入したDELLのノートPCに問題が発生中。安かったのと一見頑丈そうな外観から購入したのだが、配達されたときにキーパッドの「C」が浮き上がっていた。少し使った段階で見事に剥がれてしまい、メーカーに送り返してキーボードを交換した。ところがすぐにまた「S」のパッドが浮き上がる。使っていると、いまにもぽろりと剥がれてしまいそう。全体的にキーパッドの固着にあやうい感じがある。

難儀なことである。パソコンとの出会いは運・不運というが、これだけ続くと、うんざりである。「Ctrl」キーと併用して、「C]のコピー、「S」の保存、「V]のペーストと多用するキーであることが、関係するのだろうか。作業中のデータを他のPCに移し、サイトから連絡先を探し、メール交換し、荷物に梱包し、送ったらしばらくは待たされ、帰って来たら、またしても「V」のパッドが浮き上がっていない保証はない。

DELLのPC販売は、インターネットなどによるBTO(Build to Order)方式。つまりオーダーメードによる生産で、ユーザーに製品を直接手渡す。購入者は現物に触れずに注文することが多い。キーボードがこれほど柔弱な作りなど、想像もしない。いったん信用が落ちると、凋落は早い。最近、HP社に追い抜かれ、売り上げが落ちているDELL、一体どうなっているの? できるものなら、私のPCがレアケースであってほしい。

牧野植物図鑑の「誤植」の追加情報

2006年10月23日 | Weblog
昨日のブログを書いたのが日曜日であったため、今日になって出版社・北隆館に問い合わせてみました。担当者の答えは「単なる誤植」とあっさり認めていました。念のためにお知らせしておきます。
何十年もこうした誤植を放置しておく神経がわかりませんが、そのおかげで、いろんな誤解が生じるわけで、罪作りなものです。
なお権威あるべき本の「誤植」については、これまでいくつかの本が出版され、とんでもない誤植例を報告しています。お読みになってみると興味深いと思います。手近なところでは、インターネットでWikipedia辺りを見るだけでも、その片鱗が覗かれます。

牧野図鑑の「誤植」に対する推理について

2006年10月22日 | Weblog
昨日の記事に対するYUJI(U-2)様のコメントをいただきました。ありがとうございます。本来ならそのスレッドとして以下のコメントを記載すべきですが、たしかコメント欄に文字量の制限があったように思い、またコメント欄の文字が小さくて読みづらいこともあり、長たらしい文章をブログ本体として以下に掲載します。

私は問題の図鑑にも、牧野富太郎博士にも、ましてYUJI(U-2)様にも、なんらの他意はありません。牧野博士の業績や生涯、あるいはYUJI(U-2)様のブログから推測される自然に対する態度に尊敬すら感じています。事実をしっかり見極めたい、ただそれだけの発想からですので、誤解のないようにお願いします。

なるほどおしゃるように辞書や図鑑の誤植はあまり聞いたことがない、というより本来ならあってはならないですね。仮にあっても版を重ねる段階で必ず修正していきます。そうした図鑑の外的条件である「権威」から見れば、簡単に「誤植」というのは、性急かもしれません。

しかしそれはあくまでも一般論としての外的理由ではないでしょうか。もし必要ならこの側面から論じてもいいですが、それより第一に問うべきは、内的理由、つまり誤植と思われる文章が、文章として意味をなしているかどうかということではないでしょうか。

問題の文章、菊は「古く唐(今の中共)より渡米したものであるが、今は国華とされている」ですが――私には、618年~907年の中国、唐の時代になぜ菊がアメリカに渡らなければならないのか意味が理解できません。

この唐の時代は、1454年ー1512年に生きたイタリア人アメリーゴ・ヴェスプッチによって発見されたアメリカ、メイフラワー号による移民のあった1620年頃のアメリカ、独立宣言をした1776年のアメリカよりも遥かまえです。そんなアメリカに菊が「渡米」するという意味は何でしょうか。もしかして私の知らないアメリカと菊の秘話があったのでしょうか。

これと関連して気になるのは、YUJI(U-2)様が「当時の時代背景を考えますと、当時の日本もアメリカ状態そのものだったのではないでしょうか」とお書きになっていることです。当時の時代とおしゃるのは、問題の『学生版牧野日本植物図鑑』が「新制高校生をスタンダードとして簡潔明解につとめた」「コンサイス型」として出版された年、「二十四年三月十日頃」だと思われます。この年、牧野富太郎は88歳の高齢でした。

つまり占領下にあった戦後日本を「アメリカ状態」とお考えになったようですが、それが、菊が「古く唐(今の中共)より渡米した」ということとどういう関係にあるのか、表現の意味がよくわからないのです。この点も、もう少しわかりやすくご教示いただければ幸いです。

ついでに些少なことのようですが、同書の昭和四十二年二月に書かれた「新訂の序」をご覧になってください。半ば辺りの「必然的に」の前に一字の空白があると思います。これは「必然的に」以降のパラグラフが、明らかにここで改行されるべきものを、改行されないまま放置された痕跡です。

意味もなく一字分の空白が残されているのは、文字の誤植とは違いますが、出版社あるいは編集者あるいは校閲者としては、どうしても見逃せない間違いの部類に入ります。長い間、本を作ってきた私自身の経験からも、校正段階でこれに気付けば、必ず改行に修正するか、改行でなければ、意味のない一字分の空白を埋めてしまいます。些細なことですが、このわずかな傍証を見ても、どこか散漫なところがあったのではないかと思われて仕方がありません。

かきのもと・もってのほか・阿房宮の誘惑

2006年10月21日 | Weblog
このブログにコメントを寄せていただいたYUJI様とのやりとりで、ふしぎなことがあったのでご報告までに。発端はYUJI様のブログに引用された、菊は「古く唐(今の中共)より渡米したものであるが、今は国華とされている」でした。出典は『学生版牧野植物圖鑑』昭和二十四年三月、新訂、口語訳、昭和 四十二年、北隆館とのことです。

お気付きのように、「渡米」に使われた「米」が「渡来」の「来」の誤植です。わたしも同書の最新版(平成16年版)を参照してみましたが、小さな文字をルーペでのぞき込んでも「米」としか見えません。牧野博士の旧版植物図鑑を現代表記に直した出版社サイドの誤植でしょう。あれだけ有名な図鑑が長い間、誤記のままであったこと自体が驚きです。

YUJI様のブログには、「食用菊は新潟の『かきのもと』、山形『もってのほか』、青森~岩手の『阿房宮』など、独自の品種があり、生産が盛んと聞いております」とも書かれていました。生まれて初めて聞くなまえで、なまえのふしぎさ、その由来に興味を掻き立てられました。なまえを聞くだけで、食べたくなってきます。

ついでですが、図鑑にある「国華」は、鎌倉時代(承久年間)、菊を愛した後鳥羽上皇が決めたとされています。いまの天皇家の紋章です。これをきっかけに、菊の花が生きた薬草から別の存在へ変わって生き始めました。・・・もう菊の花にも花疲れ。これでおしまいに。

紫苑・春紫苑・姫紫苑・姫女苑たちの誘惑

2006年10月20日 | Weblog
花のなまえは紛らわしい。漢名・和名・洋名・標準名・別名・総称名・学名などがあって、一定の基準に応じた名を区別して正確にいい分けることなどほぼありえない。和名ひとつを取ってみても、古く中国から来た漢字の名称があり、日本で勝手に国字にした名があり、欧米から帰化した花にあとで付けた真新しいカタカナもある。

たとえばこの秋に姿を見せる「紫苑」。枕草子にもこの文字で表記されているが、本家の漢字でいえば「紫菀」が正しく、和名「紫苑」は誤記である。のちに北米から帰化した紫苑に類似する花には、「春紫苑」「姫紫苑」「姫女苑」と和名が付けられている。これらを知った上で正確に使い分けるのは、かなり花好きの人だろう。

「紫苑」はキク科の多年草で、シベリア、中国大陸北部、モンゴル、朝鮮などに分布。背の高い茎が、今頃、小菊に似た淡紫色の花頭をたくさんつける。「春紫苑」は春に白い花をつけるもので、こちらは北米産の帰化植物である。「姫紫苑」は白色の小さな花を秋につける。紛らわしい名の「姫女苑」(ヒメジョオン)は、やはり北米から明治期に帰化した植物で、夏に白い花を咲かせ、姫紫苑にちなんだ和名である。

やれやれこのお姫様方、気紛れな名を装って、春、夏、秋と男どもを惑わせる。花と女性は謎だらけといいたいが、それぞれ違った個性を持っている。その個性を十把一からげで見られ、語られたら、女性だって怒るだろう。花だって怒るだろうから、やはり花は正確に見てやりたい(写真は紫苑、他は植物図鑑で参照ください。かなり違った花です)

女に対する男の身勝手について

2006年10月19日 | Weblog
伊藤左千夫の『野菊の墓』で思い出した。私があのような物語を好きになれない理由の根っ子には「男の身勝手」がある。男の行動は、まずはじめに花を差し出して、女性の共感を引き出すが、その後は何かことが発生するまで、あちこち余所見ばかり。民子が死んで初めて、お墓に参り、野菊で飾るくらいが関の山である。

同じようなことを高村光太郎の『千恵子抄』にも感じた。千恵子が好きな絵を描けないとき、心の病に突き進むまで苦しんでいるとき、光太郎は大したことを千恵子にしてやることがない。彼女が亡くなったあとになって、詩を書き、悲しさに浸る。ことばの花を千恵子の墓に飾ったのと同じである。

男とは女に対して、結局は身勝手なのである。そんな悲しい作品をかつて女性自身が好んで読んだのは、どんな心境だったのだろうか。ぜひ女性に訊いてみたい。男は自分の身勝手を再確認することになるから、あんな女々しい話など読めるかと嘯くことになる。私は男として恥ずかしいが、それに気付くのはずっと後になってからである。

「うるさく人の作りなす」菊の花について

2006年10月18日 | Weblog
菊の花について書いた幸田露伴は、「菊つくりの菊には俗趣の厭ふべき匂(におい)が有る」と書いていた。菊の愛好家にはひんしゅくを買いそうだが、わたしもかねてそう思うことが多く、好んで菊の品評会とか、まして菊人形の展示会などに出かけることはなかった。

江戸や明治になぜあれだけ流行したのか、本郷の菊坂とか団子坂などに代表される菊花や菊人形に大勢の人々が押し寄せたのも、ほとんど想像外である。江戸時代の三代目尾上菊五郎が愛用した「斧(よき)、琴、菊」の文様を染めた浴衣や菊五郎格子なども関係があるのだろうか。もし菊の愛好家がいるなら、教えてもらいたい。

ちなみに元禄八年の『花壇地錦抄』に書かれた菊の一覧表を数えてみたが、二百を越える秋菊の名が羅列されていた。本家の中国よりはるかに多い種類が育成され、その数の多さが当時の人々にさえ揶揄されるしまつだった。江戸末期の国学者・橘曙覧の和歌に、「秋のきくおのずからなる華は見でうるさく人の作りなすかな」。

うるさく作られた花よりも、おのずからなる自生の花がいい。

野菊の墓にはとうてい心酔できない男の感性

2006年10月17日 | Weblog
菊の花といえば、多くの人が「野菊の墓」(伊藤左千夫)を思い出すようである。矢切の渡しに近い千葉県の田舎を舞台に、まだ十代半ばの若者に起きた儚い恋物語である。最近の若者にとってどうだか知らないが、中高年世代には必ず小説や映画でお馴染みだろう。

個人的なことで恐縮だが、どうも私はあの手の作品が苦手だった。多分、情感に乏しい雑駁な性格のせいだろう。皆に倣って読んだことはあるが、ふたりが山畑に綿を採りに遠出する光景で憶えているのは、少年が摘んで少女に渡す野菊よりもっと別な植物だった。

陰暦の九月十三日というから、ちょうど今頃の季節だろう。「綿の花」「水蕎麦蓼」「都草」「蕎麦の花」「竜胆」「春蘭」といった小さく地味な花々であり、「あけび」「野葡萄」といった野生の木の実だった。野菊はそれほどありふれた花だったせいか、好みが合わなかったせいか。

初恋の淡い恋心よりも、食い気のほうが先走って、つい果物に目がいったようである。少年にとって自然とは、往々にしてそんなものだった。私だったら、野菊を摘んで渡し、君のようだなんてとてもいえない。あけびや野葡萄を摘んで渡し、おいしそうに食べる顔を見ることのほうがどれだけうれしいことか。

そんなこんなで、女性に好かれない生涯を送っているのだが……。

幸田露伴が試みた菊花酒の味わい方

2006年10月16日 | Weblog
昨日のブログでおわかりのように、岩手県に住み、自営で農業に挑戦しているagricoさんが、菊酒づくりに挑戦してみるとコメントをいただいた。彼の地に足のついたブログをわたしは愛読している。東京のド真ん中に住む不自由さに浸かっている身のとっては、ありがたいことである。

菊酒のことをインターネットで検索していたとき、幸田露伴の短いエッセイに菊酒があるのに気付いた。露伴全集はわたしにとって全巻を読んだ珍しい例であるが、そのときの記憶はいっさい残っていない。菊があまり好きでない花だったせいだろうか。

その中に「今はもう自分は一株の甘菊をも有たぬが、秋更けて酒うまき時、今はたゞ料理菊でもない抛つたらかし咲かせの白き小菊の一二輪を咬んで一盞を呻(あお)ると、苦い、苦い、それでも清香歯牙に浸み腸胃に透つて、味外の味に淡い悦びを覚える」と書かれていた。

あれほど世事に長け、いろんなことに通じた作家だったから、この程度の試みがあっていい。菊酒を作る前に菊の花を口中で噛み、その上で酒をふくむ方法だって、菊酒の片鱗を味わう方法であるだろう。agricoさんの報告を待つ楽しみがふえた。