負けるな知的中高年◆本ときどき花のちコンピュータ

「知の崩壊」とかいって、いつの間にか世の中すっかり溶けてしまった。
「知」の復権に知的中高年よ、立ち上がれ!

イギリスのアマチュアリズムは日本の「素人」とはちがう

2005年01月31日 | 詞花日暦
イギリスにはアマチュアリズムの
伝統というものがあるんです
――丸谷才一(作家)

 対談で丸谷才一がきかれた。あなたには「異論」といわれるものに喜んで肩入れする傾向がありそうですね。肩入れするどころではない、彼自身も積極的に「異論」を唱えている。忠臣蔵について書いた本などを読んでいる読者にはおなじみであろう。「異論」にこだわる理由のひとつに、「イギリスの伝統」である「アマチュアリズム」があることを丸谷は語っている。
 日本の「素人」とは意味がちがう。たとえばと彼が例に上げるのはシャーロック・ホームズ。一流の知識人が趣味として探偵をし、それで収入を得ているわけではない。ダーウィンも財産があるために、進化論や博物学をアマチュアとして研究したという。
 アマチュアは、プロの約束事にも、時代のイデオロギーにも、アカデミズムにも捉われず、自由に「異論」を展開できるというわけだ。この意見には筆者も大賛成。ただし、単純な思いつきを下手な文章で人前にさらすことを容認しているわけではない。アマチュアリズムが受け入れられる背後には、専門家以上の発想や思考や文章力を鍛えた努力があるのを忘れないでおきたい。

甲州の古寺の石碑には「蕎麦切発祥の地」と書かれている

2005年01月30日 | 詞花日暦
街暮らしの憩い不足を
補うには、ソバ屋が効く
――杉浦日向子(漫画家)

 ソ連といってもソバ好き連の略称。この蕎麦愛好会はソバ好きというより「ソバ屋好き」だと杉浦日向子は書く。「豊かな時間、実りある時間をいかに醸し出せるか、ソバ屋探訪には、その鍵が隠されています」。筆者も東京都内の百を越す蕎麦屋を食べ歩いた。それにしても数年来、静かな蕎麦ブームである。
 落ち延びる武田勝頼一行が目指した天目山栖雲寺の石碑に「蕎麦切発祥の地」とある。かつて蕎麦は蕎麦がきという団子で食されたのに対し、細く切られたものが蕎麦切。元禄年間、尾張藩士の天野信景による随想録に「蕎麦切は甲州よりはじまる」と書かれた。
 天目山に登る日川の渓谷は深い。山肌の痩せた地には蕎麦しか育たない。それもわずかな収穫量。蕎麦切にして見た目の量をふやした。それほど蕎麦は貧しい食料の代表格である。蕎麦や蕎麦屋の愛好家たちは、飽食の時代といわれる現代生活で消えうせた食の貧しさを追体験し、人本来の姿を蕎麦の向こうに見ているのだろうか。

笛吹川の支流には琴川、鼓川の優美な名をもつ支流がある

2005年01月29日 | 詞花日暦
お屋形様には先祖代々
恨みはあっても恩はない
――深沢七郎(作家)

 笛吹川は甲府盆地を北東から流れ下る。支流に琴川、鼓川を持つ優雅な名にそぐわず、暴れ川だった。深沢七郎の『笛吹川』は、その土手に六代にわたって張り付く貧しい人々の生きざまを淡々と描いた。戦国時代の叙事詩の簡潔さがかえって不気味さを秘める。
 作品の最後、笛吹川を渡って東の天目山へ落ちゆく武田信玄の子・勝頼一行が通り過ぎる。貧しい村人たちの幾世代にもわたる時の流れで、初めて歴史が眼のあたりに大きく動いた。わずか数十名の一行に「先祖代々お屋形様のお世話になって」と追従する若者たちがいた。子供を奪われる老婆は「恨みはあっても恩はない」と、笛吹川の貧しい土手に連れ帰ろうとする。
 勝頼一行は甲府盆地のさらに北東、険しい日川の渓谷を登って、天童山景徳院に首洗い塚や墓石を残した。支配者たちの歴史は語り継がれるが、川筋の無名の人々には、歴史は奪われるものでしかなかった。深沢の異才は、地に這う視点から歴史のおぞましさを浮かび上がらせる。

高知の奥深い山中に男と女の原風景が展開された

2005年01月28日 | 詞花日暦
心のやさしいええ人じゃ、女は
そういうものが一番ほしいんじゃ
――宮本常一(民俗学者)

 日本各地を旅し、名もない人々の生活を記録した宮本常一が、昭和三十五年、世に問うた『忘れられた日本人』は秀逸な庶民生活誌だった。とりわけ高知県の奥深い山中で盲目の老人から聞き出した「土佐源氏」は、日本の男と女が生きる祖型を浮き上がらせる。
 貧しい家に生まれた老人は、若い頃、牛の売買を行う博労になった。八十年の人生は「人をだますことと、おなごをかまう事ですぎてしもうた」。世間では信用のない職業だったが、みごとにおおくの艶福に恵まれた。親方のお古の後家から、官林を取り仕切る役人の奥方、庄屋で県会議員の令夫人といった「身分の高い」女性まで多彩である。
 官吏夫人のときは、別れたあと「気の抜けたように暮らした」。議員夫人のときは、人間のくずでも役立つことがあればというと、彼女は嬉し涙を流した。「おなごにかまう」この男の美点は、ただひとつ、誠心誠意、やさしい心でどの女性にも接したことだった。倫理や社会制度と無縁の日本人がここにいた。

大衆好尚の三幅対はホラーとポルノと推理小説である

2005年01月27日 | 詞花日暦
怪談と艶話……茶前酒後落ちゆくさきは
必ずやここに集まる
――日夏耿之介(評論家・詩人)

 日夏耿之介は大正時代に発表した『黒衣聖母』などで、高踏的な詩人として知られている。一方、文学の正史が取り上げなかった古今東西にわたる神秘・怪異・幻想文学に深い理解を示し、数おおくの評論を残した。その指摘は、たとえば幸田露伴の「対髑髏」などには「知性の弄戯」があって、怪談の興を減じていると的確である。
 つまり、怪談や艶話は知性とは無縁、あくまで人間の本能や怪異への篤信に根ざすのがいいといいたげである。かつての知性に根ざした文学が読まれなくなった昨今、「浮世話の二大テーマ」はこの知性を排除し、感覚に頼ったホラー小説や官能小説に集約している。書店に山積みになった小説には、この種のものの数が圧倒的におおい。
 ついでに日夏は、「これに犯罪探偵譚を加えれば、まさしく大衆好尚の三幅対が出来上がる」とも付け加えた。高踏派詩人の高みから見晴るかす恐怖小説、官能小説、推理小説は、知の崩落現象によって起きた小説隆盛のありようでもある。

いつの時代も性革命は人の生理をあからさまにした

2005年01月26日 | 詞花日暦
ことばと行為には長い間、乖離があった。
私は小説『彼女』で両者の結合を試みた
――匿名作家(米の高名な小説家)

 未成年の頃に読んだコレットの『青い麦』は、海辺で繰り広げられる少年と年上の女性の微妙な心理を描いていた。ひそかに心躍るものがあったが、少しのちに読んだ『チャタレー夫人の恋人』は、ものの見方が一変するような読書経験をもたらした。性に対する視界が大きく開けた。
 一九六○年代のアメリカを席捲した「性革命」は、それまでの米社会が厳格な性倫理と法規によって成り立っていたことを物語っていた。その呪縛が、夫婦や隣人という小さなコミュニティから破られていく様子をゲイ・タリーズは『汝の隣人の妻』で描いた。当時のベストセラーで、性の深く広い世界を垣間見た。
 七○年代、やはりベストセラーになった『彼女』とそれにつづく一連の作品にも驚いた。それまでことばと行為の間にあった思わせぶりな垣根を、小説としてみごとに取り払っていた。いたずらに感覚を刺激するだけのことばではない。紛れもない人の行為の本質を暴き出し、男女とは何かを淡々と表現することばの連なりだった。

英国海軍大将は暗号の日記で好色本について書き残した

2005年01月25日 | 詞花日暦
十七世紀英国には……ポルノグラフィは
なかったと多くの人が考えてきた
――D・フォクソン(書誌研究家)

 奇特な研究家がいるものだ。匿名詩人のことを調べるため、大英博物館の図書館で古い新聞と格闘していたフォクソンは、「デイリー・アドバタイザー」紙の広告欄に英訳本『ヴィーナスの学校』の発売が告知されているのを見つけた。一七四四年八月二十五日付の新聞である。
 これをさかのぼり、十七世紀の英国にはポルノグラフィがなかったとする通説がくつがえることになった。ただし同じ十七世紀、政府の要職(海軍大臣)につくサミュエル・ピープスの高名な『日記』には、彼がこの本をこっそり購入し、一読後、燃やした事実を書き残している。暗号で書かれた彼の日記が出版されたのは、ずっとのちのことである。
 ピープスが本屋で見つけた『ヴィーナスの学校』は、裁判で焚書され、破棄されたフランス語原本『娘たちの学校』のオランダ製海賊版である。同じ本が貸本屋の手でルイ十四世の宮廷に勤める女官達に渡り、回し読みされていた。秘密文学は、文学史の正史の裏側でいつの時代も密かに読まれたようである。

一七世紀にもわいせつ本の告発と裁判があった

2005年01月24日 | 詞花日暦
白い狼同様、名のみ高くして
人の目に触れることがなかった
――パスカル・ピア(書誌学者)

 たった一冊の本も数奇な運命をたどる。一六五五年、ルイ十四世時代が始まったばかりのパリ、わずか二百部印刷された『娘たちの学校』は、刊行直後、司直の捜査と裁判にさらされた。印刷人、製本屋、ふたりの作者の有罪が宣告され、本はセーヌ川に浮かぶサン・ルイ島で焼き捨てられた。
「初版本はほとんど散失した。国立図書館もアルスナール図書館も所蔵していない」とパスカル・ピアは書いている。すこしのち、オランダで海賊版が流布するが、これもやがて消え去る。それから二百年余、二十世紀の初めに往時の裁判記録が発見され、本の存在がふたたび甦った。しかし初版本はどこにもない。
 むろん好事家はいた。オランダ版をもとにした版本が、二世紀に亘る時の流れの闇にときおり浮上しては消えた。海賊版をもとに、少部数の特装本をつくった愛好家もいた。そんな奇矯な書籍が歴史にはあることを知っておいてもいい。歴史の昼と夜の世界に呪れては消える秘密文学の特質を遺憾なく表している。

明治末に起きた暗黒裁判の冤罪がいまも語り継がれている

2005年01月23日 | 詞花日暦
私は私自身を欺かずに
生を終わればよい
――管野須賀子(社会主義運動家)

 明治四十四年一月下旬、東京は雪が積もっていた。大審院の最高法廷で死刑を宣告された十二名の遺骸が、雪の中を火葬場に運ばれた。裁判は歴史に大きな汚点を残す「大逆事件」である。天皇暗殺を企てたとされる被告たちは二十四名にのぼり、ほとんどが冤罪だった。
 二十五日早朝に処刑された管野須賀子は、地方紙の記者などを経て上京、荒畑寒村との「結婚」、幸徳秋水との同棲生活の中で社会主義運動に没入していった。赤旗事件、「平民社」の活動など、当時の政府・官権の圧制に異議を唱え、行動をつづけた。
 判決を受けて法廷を出るとき、背後を振り返って「皆さん左様なら」と叫んだ。獄中手記には「私は私自身を欺かずに生を終わればよい」と書いた。毀誉褒貶にまみれた彼女の短い生涯だが、一筋に自らの考えと行動を貫いた。それから百年近いいまでも、彼女が眠る東京・新宿の正春寺では、毎年この季節、暗黒裁判の冤罪を語る人々の会合が開かれている。

本のデジタル化はTVゲームのRPGから始まった

2005年01月22日 | 詞花日暦
RPGとは……変換された文学、    
すなわち「電子文学」として位置づけられる
――榎木正樹(評論家)

 RPGとはロール・プレーイング・ゲームのこと。以前から子供や若者たちをとりこにしている『ドラゴンクエスト』から『ファイナルファンタジー』まで、数おおくのゲームがそう。プレイヤーは特定の役(ロール)になり、プログラムされた物語のなかでさまざまなドラマを体験する。
 RPGの発端には、一九六○年代、カウンターカルチャーに再発見されたトールキンの『指輪物語』がある。「細部まで徹底した世界設定の方法と等身大の英雄譚として神話を再構成していくシステム」が、コンピュータ・プログラムに適合した。
 最近、インターネット・ゲームの世界を描いた川端祐人の小説『SOUP』にも、トールキンやル・グイン(『ゲド戦記』)が登場する。榎木正樹が指摘するのは、RPGがコンピュータ・メディアに変換された文学であること。ゲームのわかりやすい視覚性、展開するスピード、効果サウンドなどを考えると、本の文字を追う読書のけだるさをきらい、ゲームに熱中する若者たちの気持ちがよくわかる。だが、ここでは想像する人の能力は育たない。

物理学者中谷宇吉郎は荒唐無稽な物語を愛読した

2005年01月21日 | 詞花日暦
思い切った非科学的な教育が
自然に対する驚異の念を深める
――中谷宇吉郎(物理学者)

 石川県の雪国に育った中谷宇吉郎は、子供のころ、最初に熱中したのが『西遊記』だったという。「画の多い字が一杯並んで、字づらが薄黒く見えるような頁が、何か変化と神秘の国の扉のように」幼い彼をそそった。現代の若い読者とは正反対である。
 中谷を魅了したのは、「放恣な幻想がその翼をかつて奔放に虚空を翔けまわっている」ふしぎさ。今日の科学的思考では、容易に認めがたい迷信や怪異の荒唐無稽な物語である。だが中谷は、ほんとうの科学は純真な「驚異」から出発すべきだと書いている。「不思議を解決するばかりが科学ではなく、平凡な世界の中に不思議を感ずる」ことも科学の重要な要素であると。だから、幼い日の奔放で荒唐無稽な夢を子供から取り上げない方がいい。
 凡庸な科学知識を振り回し、原子や分子などと日常茶飯に口にすると、逆に物質の神秘に対する驚異の念を薄くする悪影響を与えるのではないか、とも語っている。

道元の禅風を守る別の寺が永平寺の近くにある

2005年01月20日 | 詞花日暦
山中に宝慶寺を開山して、
如浄・道元の禅風をひとり守る
――司馬遼太郎(作家)

 一乗谷を過ぎ、福井県大野市に入ると、東の方向に雪を冠した両白山が美しい。雪原の盆地を走って、宝慶寺に着く。ふもとから深い雪に足をとられ、森閑とした山を登る。二十四歳で入宋した道元が、師・如浄に巡り会うのは二十六歳。その弟子に寂円がいた。二十八歳で道元が日本に帰った翌年、彼は如浄の死を見取ったあと、道元を追う。「以降、寂円は道元が死ぬまで随伴して離れなかった」。
 帰国後十六年、道元は永平寺を建てた。しかし寂円は、師の跡を継いだ人々が道元の思想を受け継がず、禅より栄達を第一にしたと見る。師の禅風を護るため、永平寺から離れた山中に宝慶寺を建てた。
 雪に埋もれた四脚山門と本堂が見える。人の気配はない。司馬によると、この寺に寂円が大切にした道元の肖像画がある。暮れなずむ夕刻まで待ったが、目的は果たさなかった。寂円が慕った厳しい道元の顔は、雪に沈んだ山間の寺の風情だけでも偲ぶことができる。

パソコンは一を知って十を知らない智恵のない機械である

2005年01月19日 | 詞花日暦
パソコンは何もわからねえ
あれはバカの塊です
――柳家小三治(噺家)

 発端はデジカメだった。柳家小三治は思い立って買ってみたが、付属品をやたら買い足さねばならなかった。パソコンもそのひとつ。画像を保存し、加工するのにしかたなく買い込んだ。すると今度はやれソフト、やれ何だとお金のかかること。その上、操作もめんどうくさい。
 マウスを一度クリックすると、二度じゃなきゃあだめ。なんで二度なんだ。あげく、画面にあなたは操作をまちがえたと出る。出るだけで、どうしろなんて何も教えてくれない。人間は一を知って十を知るが、パソコンは一を知ったら一しか知らない。つまり知恵がない。
 子供はさっさとパソコンを憶える。一を知って十を知る知恵がないから、取っ付きやすい。その調子で試験に受かって、東大に合格する。親は満足だが、子供の頭はパソコンになっている。世のなかに出て、問題に直面しても、どう生きていいか知恵が出てこない。「バカの塊」がお偉い人になって、世の中ダメにしていると小三治はいいたいようである。

アイコンやマウスは終戦直後に若い通信技術者が考案した

2005年01月18日 | 詞花日暦
スクリーン上にシンボルが描かれ、
ノブやレバーで多様な情報を操作する
――D・エンゲルバート(技術者)

 一九四五年、二十歳の米軍レーダー技術者だったエンゲルバートは、フィリピンで終戦を迎えた。つれづれに考えたのが、ディスプレー上のシンボルやレバーで動かすコンピュータ。その概念図が今日使われているパソコンのもとになった。シンボルはアイコン、ノブやレバーがマウスである。彼の着想が普及するには、およそ三十年の歳月を要した。
 もうひとつ、一九六二年にエンゲルバートが発表した「人類の知を拡大するための概念図」では、人々のさまざまな考えをひとつの場所にまとめ、必要な人が必要な情報を取り出す。さらにそれを読むことで、自分の考えを膨らませる。紙メディアが主流の当時、画期的な考えであった。
 彼の構想は、一九六八年から稼動した最初期のインターネット「アルパネット」としてスタートした。一挙に花開いたのは九○年代から。ここでも三十余年の年月がかかっている。もっともいまのインターネットは「知の拡大」よりも、ビジネス拡大の色合いが濃い。

新しい技術が普及するには三十年の歳月を必要とする

2005年01月17日 | 詞花日暦
変革スピードが遅いのは、技術自体が
変革を行うわけではないからだ
――P・L・サッフォ(技術コラムニスト)

 パソコンが登場した一九八○年代、紙のなくなる日が近いといわれた。九○年代初め、インターネットを始めた筆者は、ファックスやプリンタを捨てた。それから十年、予想は外れて、世上の紙使用量は増加し、ファックスもプリンタも健在。仕方なく再登場願っている。
 筆者の深慮を欠いた性格もあるが、技術が一挙に人々の生活を変えないことに無知であった。サッフォによると、変革は三十年パターンで行われる。たとえば無線機の出現から放送産業の誕生まで三十年。印刷機でも人工衛星でも、「あらゆる分野の革新」に適用できるという。
 なぜそれほど年月がかかるのか。技術は、一般の人々がどう生活に組み込むかのオプションにすぎないからである。人間の気まぐれな期待と心変りが、早急に変革を受け入れない要因になる。短期のインパクトを過大評価し、期待に添わないと、今度は長期の効果を過小評価する。これをサッフォは「巨視的近視(マクロマイオピア)」といった。技術の変革は、とりわけ日本で人間の気まぐれな気分の問題であるようだ。