負けるな知的中高年◆本ときどき花のちコンピュータ

「知の崩壊」とかいって、いつの間にか世の中すっかり溶けてしまった。
「知」の復権に知的中高年よ、立ち上がれ!

春がくれば芽を出す木の根をわざわざ切る人々がいる

2005年03月16日 | 詞花日暦
我々は自然の季節をよしとするのに、
経済の季節には耐えようとしません
――J・コジンスキー(作家・脚本家)

 好きなシャーリー・マクレーンが登場するので、DVDで映画『チャンス』を見た。主人公チャンスは幼い頃から舘に住みつく庭師。TVを観るだけで読み書きもできない。よくいえば純真無垢、悪くいえば知恵遅れのこの紳士を巡って、世俗の人々が揺れ動く。
 偶然、館の主人のつてで、チャンスは大統領に会う機会があった。景気の低迷に助言を求められる。「根が切られない限り、常に庭では心配いりません……春がくれば芽が出ます」と答える。こんな素朴なひとことが、政界からジャーナリズムまで、神のお告げのように駆け巡る。
 映画は、俗世界の愚かさ、政治や経済や管理社会のばかさかげんを声高に批判しない。無垢の人間のすばらしさをことあげもしない。映像は静けさに満ち、残酷な死も熱い恋も坦々と過ぎる。まるで春の陽だまりのように心がゆるむ。庭木の根を切ってしまうことのおおい日本のリーダーたちに向けた鬱積を忘れ、ひとときをのどかに過ごすことができる。

タルコフスキーの映像は陰影と時間のモンタージュである

2005年03月15日 | 詞花日暦
付け加えておくが、子供たちは
私の映画をよくわかってくれる
――タルコフスキー(映画監督)

 学生の頃、なぜか『僕の村は戦場だった』のパンフレット翻訳を配給会社に頼まれた。ありがちな戦争映画と思い込んだ筆者は内容に触発されず、映画も観ずに終わった。タルコフスキーに再会したのは二十年近くもあと。最晩年の『サクリファイス』『ノスタルジア』から逆に全作を観ることになった。
 彼の映画はむずかしい、暗いといわれる。緩やかなカメラの動き、時系列で進まないストーリー、単調な木々や野の自然の風景、雨の滴りや水の流れ、わだかまる霧、どれも観る人の気持ちを停滞させる。しかし、もしそれらのシーンに身を任せると、この映画作家ならではの美しさに魅了される。
 一見複雑でわかりにくい映像は「陰影と時間のモンタージュ」。観る人に新たな心象風景を突きつけてくる。ソ連で育ち、イタリアに亡命した彼のテーマ、「世界の終末」と人間の拠りどころはきわめて現代的な課題。ロシア人特有の自然に対する思いが日本人にも共通するだけに、むしろ共感を呼び覚ます映像美にあふれている。

『マトリックス』に類似したドイツ・ニューシネマがある

2005年03月14日 | 詞花日暦
おれたちは作られたもの。
どうせこの世から、抜け出せない
――ジゼフ・ルスナック(映画監督)

 CGなどの特殊映像でさんざんの話題になった『マトリックス』も、移り気な人々の記憶から消えがちになった。観客に媚びて鬼面人を驚かす第二部、無残な結果に終わった第三部のせいもある。ここでは、人工現実をテーマにしたもう一つの映画に触れよう。二○○○年に公開された『13F』。監督はドイツ・ニューシネマのJ・ルスナック。原作は邦訳『模造世界』。
 映画は一九三七年のロスに始まる。登場人物のひとりフラーが開発した人工現実の世界で、現在のロスのビル十三階にあるコンピュータで再現されている。現在のロスに生きる人物をもとにしてつくられた固体ユニットが生存し、彼らは電子回路の集合体に過ぎない。
 ふたつの世界と住人たちによる戦いは、『マトリックス』に類似する。ちがいは映画の最後に三つめの現実が用意され、なぜ人工現実なのかの解答が提示される。仮構世界の限界を見せるシーンも登場する。結末は製作者エメリッヒらしいハッピーエンドだが、『マトリックス』の物量作戦とはちがった、落ち着いたCG映像に返って好感が持てる。

鏡花を新派の作家と誤解する人々は少なくなった

2005年03月13日 | 詞花日暦
鏡花ファンにとっては夢にも
考えつかなかった事態が出来した
――生田耕作(フランス文学者)

 泉鏡花生前の単行本を蒐集する熱狂的なファンがいた。小村雪岱、橋口五葉、鏑木清方などの画家による美しい挿画入りの刊本が、愛書家を魅了した。京都大学の先生をしていた生田耕作は、戦前からのコレクターとして知られていた。彼が惚れ込んだのは、『歌行灯』『婦系図』『日本橋』のような「花柳もの」が中心。
 そんな彼がある時期、とある出版社から刊行された『鏡花選集』目録を見て一驚した。「花柳文学」系列の作品が、きれいさっぱり切り捨てられている。代わりに「怪奇物」「幻想物」が、「片々たる小品」まで寄せ集められていた。「夢にも考えなかった事態」であると生田は書いた。
 昭和四十年代半ば、全共闘運動の終焉に呼応して、幻想作文学へ若者が傾斜した。闘いのはてに彼らが見たのは、安田講堂の廃墟に浮かび上がる幻影だったかもしれない。「お蔦ちからの新派的世界」は彼らに無用の存在である。ひとりの作家の作品は、時代に応じてさまざまに読み替えられていく。

幼少に母を失った作家は美しい女性の幻想を編み上げる

2005年03月12日 | 詞花日暦
美しく清らかな母の懐にある
幼児の身にあこがれた
――泉鏡花(作家)

 金沢に生まれ育った泉鏡花は、九歳のとき、まだ二十八歳の母・鈴を失った。加賀藩江戸詰めの能役者に生まれた娘だった。母への憧れと母のいない鏡花少年の寂しさは、女性を美しい幻想に育み、神格化する方向をたどった。
 ただ亡き母への思慕の情をつづるのではない。最初期の傑作「龍潭譚」で、母が身まかって三年、山に迷う少年が見る幻の母は、筧の水をめに「うつくしく髪結うたる女の、身に一糸もかけぬ」後ろ姿だった。眉は鮮やか、瞳すずしく、かつて少年が思いつめた雛の面影を宿す。
 鏡花にとって天上にいる母に代わる女性は、天上でもこの世でもない、両者の狭間にある幻の世界の住人である。そこではすべてが美しいけれどはかなく、恋も望みも成就しない。鏡花は現し世の裂け目の奥に出現する幽かな世界に入り、ありとあることばの魔術を駆使して、幻想を編み上げる。鏡花ならではの名作『高野聖』は、ここからほんの数歩である。明治以降に幻想文学の金字塔を打ち建てた鏡花の独壇場である。

日本のアニメは日本文化の代表と語られている

2005年03月11日 | 詞花日暦
日本人の感覚で描いた漫画だと、
あちらさんではお手上げになる
――手塚治虫(漫画家)

 国産初のTVアニメ『鉄腕アトム』から四十年、平成十五年にCGを駆使した新作アトムが復活した。米国のソニー・ピクチャーズ製作で、世界中に配給された。国産アニメのアトムが登場した昭和三十八年、これもアメリカでリメイク版が放映された。タイトルは『アストロボーイ』。アトムはアメリカの隠語で行儀の悪い生理現象をいう。NBCフィルムの社長宅に招待された夜、その家の子供が指摘し、新しい名付け親になった。
 タイトルだけではない。アメリカ版は原作とかなりちがっていた。改作のポイントは残酷さ。アトムが敵のロボットを叩き壊すシーン、天馬博士がアトムをサーカスに売る人身売買など、家庭で観るTVだけに規制はきびしかった。
 いまや海外では、日本製アニメが日本文化の代表選手。四十年まえにアトムが受けた仕打ちは、遠い夢のようだ。かつて手塚は、お先真っ暗の現代生活でうっ積したものを伝えるのがマンガだと書いた。あれから世界は、うっ積したものがおおくなったのだろうか。カウンター・カルチャーとして世界の若い世代が受け入れつつある。

敗戦から立ち直る原動力は地に足をつけた母親だった

2005年03月10日 | 詞花日暦
母はその馬鹿正直さで、
真向から取り組んだ
――児玉隆也(ルポライター)

 金権政治の田中角栄を追い落とした児玉隆也のルポ「淋しき越山会の女王」は、一九七○年代初期のノンフィクション神話として、立花隆の本とともに語り継がれてきた。書き手側に密着した児玉の視線は、立花とちがう魅力を持っていた。
 その特質は、すでに最初期の母について書いた文章からうかがえる。敗戦の年、栄養失調で逝った父のあとに、九歳の児玉少年、姉、母が残される。貧しいなかで小さな家族の闘いが始まった。母は神戸・芦屋で行商し、町工場の雑役婦として働いた。
 彼女の支えは「戦争はいややったなあ」のひとことだった。このひとことを基点にそれまで「夫にかしずき、家の内にひっそくしていた母」の生き方が一転する。虚脱や不安を語らず、婦人解放や社会主義運動とも無縁の場で、真正面から敗戦後の時代に立ち向かった。この母を思うと、不安や希望をことあげした当時の政治家や知識人がいかに無力か。だから児玉は、いつも地に足をつけた自分から書くことを選んだ。

ハチローは母の日に必ず遺品を出して男泣きした

2005年03月09日 | 詞花日暦
ちいさい ちいさい人でした
ほんとに ちいさい母でした
――サトウハチロー(詩人)

 サトウハチローといえば、彼が二十歳のときに亡くなった母親を詠んだ詩集『おかあさん』が有名。いまでもおおくの人々に愛唱されている。十一人の兄弟姉妹でひとりだけ生き残った男子のハチローは、四歳のときに大やけどをして、母に苦労をかけた。
 元気になると、今度は悪童としていたずらのかぎりをつくす。転校八回、落第三回、勘当十七回という不良少年に育った。十五歳のとき、両親はついに小笠原・父島の感化院送りを決意し、島流しにした。
「親不孝の見本」として、人一倍、母に迷惑をかけたせいもあった。だからハチローは、母が使っていたものや買ってくれたものをいつまでも手放さなかった。なかに母が嫁入り時に持参した古い手文庫があった。ふたを開けると、母の匂いがし、母がよく唄った歌が聞こえてくる。五分も開けておくと、涙があふれる。それでも五月の母の日になると、ハチローはそんな遺品を取り出して並べる。色紙には「母を想う日のわがこころ/すなおなり」と書いたりする。

梶井基次郎の『檸檬』には別に実在したレモンがあった

2005年03月08日 | 詞花日暦
檸檬を仕掛けられたのは
丸善の棚だったのだろうか
――中谷孝雄(作家)

 珠玉のような短編を残し、早世した梶井基次郎の代表作は、やはり『檸檬』だうか。青春時代の不安が、みごとに黄色いレモンに凝縮している。小説の主人公が、京都の書店・丸善でアングルなどの画集を「奇怪な幻想の城」のように積み重ね、上にレモンを乗せる。
 書籍の雑多な色が紡錘形のレモンに吸収され、書店の空気が冴え返る。そのまま店をあとにし、黄金色に輝く恐ろしい爆弾が炸裂する光景を想像する。この有名な場面は、実は小説のなかだけではない。京都三高(現京都大学)時代、同窓生だった中谷孝雄の家にもレモンを置いていった。「これを食ったらあかんで」とだけいい残した。
 後年、『檸檬』が発表されたとき、中谷はそれを思い起こして驚愕する。彼は普段から梶井を「妥協家」「理想主義者」と辛辣に批評していた。青春の心にのしかかる「えたいの知れない不吉な塊」は、梶井のような若者たちにレモンの爆弾をしかけさせる。いつの時代も青春の不安と破壊への意志は変らない。

美術品の値段はなまえで買う人の愚かさによって決まる

2005年03月07日 | 詞花日暦
ゴッホなら、大金を出してでもほしい
と狂乱するのは、卑しいことだ
――辰巳渚(文筆業)

 平成十三年、わずか数万円で競売される予定の絵画「農婦」が、ゴッホの真作とお墨付きをえた途端、一挙に六六○○万円に跳ね上がって落札された。美術作品を巡る日本人の愚かな狂騒を久し振りに再現する光景だった。愚かというのは絵を見抜く鑑識眼のなさ、狂騒というのはバブル時代以降、依然としてつづく悪癖。
 辰巳渚の慧眼は、「絵画のもたらす力を買うのではなく、名前を買うのだ。絵画の美しさを見定めるのではなく、絵画の資産価値を見定めるのだ」と書きとめた。二年前、『「捨てる!」技術』で注目を集めた辰巳だけに、こうした現象をふしぎに思わないいまの日本人のふしぎさがやり切れないのだろう。
 同じ絵をゴッホでないなら不要、ゴッホなら大金を積むといった「その卑しさを見慣れてしまっては、いけない」という。自らを「なんてあさましいんだ」と感じる心を失ってはいけないと書く。美術品をカネだけで計る日本人は、バブル崩壊後も消えてはいない。

閑話休題――意味もなく

2005年03月06日 | 詞花日暦
地域限定の和菓子屋情報だが、
ちょっとおもしろいので書いておこう

 黒門町といえば、捕り物の親分や落語家がいたのを思い出す人もいるだろう。地名の変更でいまは消えたが、黒門小学校などがまだ残っている。この地に古くからあるのが和菓子の「うさぎや」。御徒町の上野松坂屋が近い日光街道(中央通)に面している。
 昔からしもたやの古い建物で通していたが、バブル期にビルになり、写真のように1階が店になった。乾いた薄皮の最中を最初に商品化したのが、このうさぎやだと聞いているし、どら焼きも評判だった。
 暖簾や看板の文字は、俳句の河東碧梧桐の文字であるという。明治から大正の文人墨客と縁があったのは、当主谷口家の文人気質によったのだろう。先代の谷口喜作当主もやはり文人趣味を持ち、芥川龍之介の葬儀委員長を務めた。
 しもたや時代にときどき訪ねては、厳選された北海道の小豆、砂糖のあくを丁寧に抜いた和菓子をいただき、先代夫人の歯切れのいい江戸ことばに聞きほれた。九州育ちの若者は、江戸下町の話しことばがこんなに美しいものだというのをはじめて知った。
 で、このブログに最近出した『四畳半襖の下張り』の記事にある平井呈一翁は、先代当主と双子で生まれ、二男だったために養子先の平井を名乗っていた。翁の書く文字が若い頃師事した碧梧桐の手にそっくりだったのも思い出される。

七十歳で画業を高めて八十歳でも衰えを見せない画家がいた

2005年03月05日 | 詞花日暦
日本美術史は……明治・大正の間には
唯一人鉄斎の名を止めるものとなる
――梅原龍三郎(画家)

 天保七年(一八三七)に富岡鉄斎が生まれた京都の家は、福井県にある永平寺ご用達の法衣商だった。読書家の父が商いに身を入れず、裕福ではなかった。父の血を受け、さらに難聴がくわわり、商いを免れた鉄斎は古今の書籍を耽読、ありとある先学の絵を模写し、全国を行脚して写生した。
 自らも学門を好み、画家と見られるのをきらった。「万巻の書を読み、万里の道を徂き、以て画祖をなす」姿勢を貫き、師も弟子もなかった。まさに文人画といわれるゆえんである。当然、画家としての足取りは遅い。
 だからこそ、七十歳で画業を高め、八十歳になっても衰えを見せない。明治三十七年、六十九歳で描いた「武陵桃源仙境図」は鉄斎の傑作である。杉本秀太郎に「桃の花を描いた最も美しい絵……桃源郷へ脱け出る洞窟の透きとおった穴に魂魄を吸い取られ」といわせる。桃の花の咲く頃、彼が好んで描いた桃の実や桃源郷を思い出す。

あの中津江村にはサッカー以外に有名なものがある

2005年03月04日 | 詞花日暦
旺盛な山の文化の存在したことを
私たちは忘れがちである
――富山和子(評論家)

 平成十二年、サッカーで全国に一躍なまえが知れわたった大分県中津江村。しかしこの地の津江神社境内に三十本の杉の巨木が残り、日田杉の元祖であるのを誰も語らなかった。享保年間に宮崎の椎葉から挿し木の技術がもたらされ、造林が始まった。日田から筑後川を下った河口、大川の木工業や明治の西南戦争で焼けた熊本復興が、杉の造林を盛んにした。
 吉野、天竜と並ぶこの美林が育んだのは、同時に筑後川の豊かな水である。だが、昭和四十八年に完成した下筌・松原ダムで、中津江村の一部は水没した。二十数軒あった製材工場はゼロになり、子供の教育を考えた教育離村で村人のおおくは去っていった。村の九○%を占める山林は約半数が村外者の所有である。山は「上流砂漠」に、川は「野ネズミの走る枯れ川」になった。
 平成十二年、やっと国による樹林帯整備計画が承認された。「国土全体の資源を大赤字に追い込むことになぜ気がつなぬのだろう」、そう富山和子ははるか以前に警告していた。

自然に息づくアニマ(精霊)はいまの時代も生き残っている

2005年03月03日 | 詞花日暦
読んだ人が魂のいやしを感じる、
詠み人しらずのような歌を歌ってゆきたい
――前登志夫(歌人)

 近代文明の利器やビルに囲まれた都市生活に疲れると、決まって前登志夫の歌集を取り出す。大正十五年に生まれ、詩人として出発するが、歌人・前川佐美雄との出会いから歌作に入る。以来、林業に生きた父祖伝来の奈良県吉野郡の山中に住み、歌をつくりつづける。
 周知のように、吉野は重畳とした山々と長い歴史に育まれた土地。深い森や谷や川には、南北朝以来の伝承が息づく。神や鬼や死者といった異形のものが跋扈し、木や花や水や風が騒ぐ。「わが額に嵌むべき星かみんなみの森の異形は暁に見つ」「かぎりなく蛍の湧けるわが谷に眠れるものぞ白馬ならむ」といった歌を読めば、よくわかるだろう。
 日本人が古来、自然のなかに感じていたのは、のちに鳥獣虫魚や花鳥風月といわれる自然そのものなかに生きつづけ、息づくアニマ(精霊)であった。その姿を歌のなかに読み取るとき、おおくの日本人は近代合理主義が追放したものを見出し、魂が癒されるのを感じる。

山頭火は母の自殺を背負ってその生涯を放浪に費やした

2005年03月02日 | 詞花日暦
うどん供えて母へ
わたくしもいただきまする
――種田山頭火(俳人)

 四十代半ばの大正十四年に得度した山頭火は、熊本県鹿本郡植木町にある瑞泉寺味取観音の堂守になった。休止していた句作を始め、「けふも托鉢ここもかしこもはなざかり」の明るい句ができた。しかし一年余、「山林独居に堪えかねて、あてもない行脚に上る」。
 後年、自分の過去を振り返り、不幸のいくつかを数え上げた。日記に「最初の不幸は母の自殺」と書いた。山口県防府の造り酒屋だった生家、十一歳の時に井戸に入水した母の姿を忘れない。放浪へ駆り立てられる彼の心には、いつもその姿がうずくまる。
 防府は地下水が豊かで、蛍が多い。水も行乞の山頭火をとらえる。「しづけさは死ぬるばかりの水がながれて」。蛍は亡き母の魂だったともいわれる。自選句集は母の霊前に捧げられている。一方、入水に追いやった父について、「父によう似た声が出てくる旅はかなしい」。父もまた自分の中に生きつづけ、逃れることができない。否応なしに過去を背負う男の漂泊の旅はいつまでもつづく。