負けるな知的中高年◆本ときどき花のちコンピュータ

「知の崩壊」とかいって、いつの間にか世の中すっかり溶けてしまった。
「知」の復権に知的中高年よ、立ち上がれ!

①世の中連休だから、その間くらい幕の内弁当で行こう

2005年04月30日 | 詞花日暦
もう一昔半も前のことから
7つ道具のデジタル愚行記
――その1 携帯電話とPDA

 もうはるか昔のことになった。当時、なんと愚かな人間だったろうと、中年の自分を振り返ることがあった。まずいつも上着のポケットに入っていた携帯電話。月7千円程度の料金を払いながら、使用頻度が少ないのに持ち歩いていた。
 よせばいいのだが、仕事で少しは必要だし、固定電話からの開放感が際立っていた。一通話いくらになるか、きっと大そうな料金になっていただろう。
 携帯電話のメールは、送信も受信もきわめて少なかった。中高年の人からのメールは、皆無に等しい。それにあの小さなボタンを押して文章を書くのも面倒。i-modeの情報もダウンロードできる音楽も、中年にはこれはという魅力がなかった。
 無用の長物めいているが、世間の人にはまるで不可欠な道具になっていた。持っているのが当たり前と思われ、「えっ、携帯、ないんですか」と蔑むように嘆息されてしまう。ビジネスからパーソナルまで、最大限に活用されていた携帯電話だが、八面六臂の社会生活にもまれていない私には、それほど緊急を要する情報のやり取りがなかった。
 別のポケットには、PDA(個人情報端末)が収まっていた。アメリカ製PALM(パーム)OSの純正機で、電子手帳みたいなものだ。毎日のスケジュール、住所録、メモなどが入っていた。むろんパソコンと連動して、赤外線でデータのやり取りをした。紙の手帳でいいのに、なぜかポケットに忍ばせていた。
 最初期の頃、携帯電話とつないで、メールやインターネットの利用を試みたが、まったく役立たずだった。有用な用途は電子手帳だけである。外出先でスケジュールやメモなどを確認したり、書き込んだりするのにずいぶん便利だった。英語の辞書、ゲーム、地下鉄の案内図などが入っていたが、たまに役に立つだけだった。(つづく)

科学者と一般人の対立はSFではよく語られることがおおい

2005年04月29日 | 詞花日暦
SFを子供の時読んだのがコンピュータ
科学を目指すきっかけになった
――坂村健(東大教授)

 坂村健は純国産OS「トロン」の創始者で、日本が世界に誇るコンピュータ科学の第一人者である。彼は子供の頃にSFを愛読していた。SFを読んだから科学者になったのか、理系志向の感性がSFを読ませたのか。が、科学者や技術者のおおくがSFを愛読している。なによりサイエンスがテーマだから当然だろう。
 そのSFに科学者・技術者と一般人の対立を描いた作品がある。ハインラインの作品では、「ニューマン」と呼ばれる科学者が世界を制覇し、遺伝子理論もシステム工学も理解できない一般人を哀れみの目で見下している。グレッグ・ベアの作品では、反自然的なエネルギーを警戒する人々が科学者を支配し、地球が技術過剰になるのを防いでいる。
 科学が一般人の理解を超えた領域に拡大する現代、科学者や技術者とそうでない人間の溝は深い。科学技術に冥い一般人は、原発から送られてくる電気を浪費し、AI搭載のエアコンで居眠りしている。科学の成果がもたらす影響に注意を払い、少なくとも異を唱えるSF作家の声に耳目を立てていたい。科学や技術を語る文学は、なにしろこの分野にしかないからである。

技術者は事故が起きても責任を取る必要はない

2005年04月28日 | 詞花日暦
現代国家の市民は……いくつもの階段の
上部機関によって操作されている
――W・ベンヤミン(評論家)

 箱根の釣り橋が落ちて死傷者が出た事故について、寺田寅彦は「事後にとがめ立てするほどやさしいことはない」と書いている。また飛行船の事故に触れ、その責任からツェッペリンは「決して切腹もしなければ隠居もしなかった」とも。一見、奇妙な意見に思える。技術者は自分の仕事が事故につながっても、「引責辞職」で責めをふさがず、原因を追究し、事故が起きないようにするのが大切だというのだ。
 いわれてみれば、科学者や技術者がその責任をきびしく追及される光景を一般人は見る機会がない。たとえばあの国産ロケットのいく度にもわたる失敗も三菱自動車やJALの度重なる失態もJR福知山線の折れ曲がった車体も、設計や実装の技術者がTVカメラにさらされることがない。いつも頭を下げているのは、組織などの人為的システムのトップである。技術者は引責よりも自分が残って、問題改善に挺身すればいい……。
 行政や政府や企業といった人間的なシステムは、機械や建造物といった技術とちがって、人の欲望や判断という数値で計測できない要素が入り込んでいる。理詰めの技術とは異なるのだ。時とともに、複雑なねじれ現象と硬直化を起こし、問題を解きほぐすのさえむずかしい。技術が世界を変える時代に、旧態依然の人為的システムでは対応できない状況に至っている。とすれば、科学者や技術者が自らシステムをつくればいいが、彼らはまだそこまで手を伸ばそうとはしない。

こんなにうらやましい娘と父の生活があるだろうか

2005年04月27日 | 詞花日暦
今日なお私にも娘にも役に立っているのは、
親子隠さず話しあうことである
――幸田文(作家)

 幸田文の実父・幸田露伴は、女学校一年生だった娘に「掃除の稽古」をつけた。いまでは電気掃除機で稽古もなにもないが、ハタキをつくるところから箒の洗い方まで、手取り足取りで教えてくれた。掃除ばかりではない、おしろいのつけ方、豆腐の切り方、障子の張り方、借金の挨拶、みな父親から教わった。
 幸田露伴は、博識の文豪であったから、そういうこともあろうと思われるが、露伴にいわせると、自分が物知りではなく、あまりに物知らずの人が世間におおいという。なるほど、私たちは世事万端、知らずにすませておくことが多い。豆腐の切り方など、今でも知っておきたいことだ。
 教わったことの中に「恋の出入」もあった。庭の真中に立って天を仰いでいた父は、同じく天を見上げた娘に、男と女のあのことは知ってるだろうと訊いた。どれだけ知ってるかいともたずねた。恥かしさに娘は「知らない!」とごまかしのことばで逃げた。ばかをいえ、菜の花の男と女を習ったじゃないかと、さらに追い討ちをかける。
 鳥や犬のことは知っているし、小耳に挟むが、実際問題となると、この目で見るような「恐ろしい経験」はなかった。父親の最後のことばはこうだった。「正直な気もちでしっかり見るんだ。これんばかりもうそや間違いがあっちゃあいけない……きょうからおまえに云いつけておく。おしゃべりがろくな仕事をしたためしはない。黙ってひとりでそこいら中を気をつけて見ろ」。
 街を歩くと工夫たちにからかわれる。むやみに受け答えすると、ことばが汚くなるといって、父は『古事記』を教科書にくれた。次の機会、工夫にからかわれると、娘は「みとのまぐわい」くらいおっしゃいよと開き直る。古事記も知らずにそんなこといっているのと身をひるがえした。幸田文が『古事記』から覚えたのはこれっきりだったという。ふたりが隠さずに話し合ううらやましい父娘であった。

寂しき宰相と女王を日本人の大部分が非難できない

2005年04月26日 | 詞花日暦
自民党という政治団体は、まず身中に
敵を抱く巨大なアメーバだった
――児玉隆也(ルポライター)

 老獪な政治手法で政権の座に居座り、権力に固執してきた自民党の実態はいまさら語ることもない。腐敗した牙城がいっこうに崩れないのは、日本人に沁みこんだ思考法に原因がある。思考法とは、日本中に根を張って脈々とつづくおおくの国民の生き方である。
 児玉のルポルタージュ「淋しき越山会の女王」が指摘したのは、他でもないその一点、貧しさとそれゆえの貪欲さである。田中は「山国の馬喰」の父と「ツギハギだらけのモンペ」の母、女王の佐藤昭は「葬式と病人のたえ間ない」家に育つ。学歴はなく、仕事は身体を張るしかない。窮状から逃れる手段はカネだけである。日本人の誰が彼らを非難できよう。
 不幸にも、カネが武器になる風土は政治の村にも蔓延していた。だから金銭欲に裏打ちされた権力志向は、田中角栄とともにみごとに花開く。もし人々の生き方にカネとは一線を画し、別の思考体系を持つ世界観や文化が甦らないかぎり、自民党はこれからもずっと生きつづけるにちがいない。

コンピュータの省略語は独裁政治と共通している

2005年04月25日 | 詞花日暦
新語法の目的は、イングソック
以外の思考方法を不可能にする
――G・オーウェル(作家)

 カタカナ語はもちろん、最近やたらとローマ字のイニシアル表示がおおいいと思わないだろうか。コンピュータ関連にかぎっても、IT、ADSL、OS、CPUなどきりがない。ローマ字表記の名称が長くなる場合、省略する慣例は以前からあった。UNESCO、APECなど。
 近年おおく感じるのは情報技術の隆盛による。デジタル技術の基本になるコンピュータ・プログラムが、略語で文字数をすくなくし、容量を抑えた記述を必要とする背景がある。もうひとつ、時代のスピード化も。短い簡略語で情報が伝わる便利さがある。
 オーウェルが書いた『一九八四年』に「新語法」が登場する。三超大国に分かれた未来の地球で、その一国オセアニアが採用する公用語のことである。その目的は「熱狂的な支持者に固有の世界観」を持たせ、他の「あらゆる思考方法を不可能にする」こと。オセアニアは独裁政治国家である。略語の多用は、時代を支配する政治・経済やハイテク固有の世界観を押し付けている。

有名な歌人・国文学者折口信夫は幻想的な奇病を好んだ

2005年04月24日 | 詞花日暦
時々間近な草の中で、
何かふつと人声がする
――折口信夫(国文学者・歌人)

 折口信夫にとって、いつも気になることがあった。あり過ぎて困った癖だとも書いた。「歩き睡り」である。眠りで夢を見るように、歩きながら幻に捉われる。夜ふけて帰宅する途中、「膝ががつくりと来た」と思うと、自分の膝が顔になり、脛や足首が胴体や脚になり、股から下が小人のように勝手に動いている。上半身には靄がかかり、無意識状態が襲う。
「歩き睡り」以外にも、折口は自らの幻視や幻聴のことを書いている。草むらのなかを歩いていると、「時々間近な草の中で、何かふつと人声がする。とつさに誰か、草でも刈りに這入つてゐるのだなと、ふつと思ふ。しかしさう思つた瞬間、ああ虻だつたと知る」。
 草むらのなかの人声は明らかに幻聴であろう。「歩き睡り」にも病理学の説明がつくのだろう。しかし折口は、「此れがなかつたらどんなに寂しいだらう」と書く。人々が頭から信じようとしないものの存在へじっと視線を注ぎ、耳を立てた折口らしい話である。合理主義の文明が消し去った世界である。

ふしぎな子供の遊戯には魔の世界への入り口があった

2005年04月23日 | 詞花日暦
子守唄、鞠歌など、幼児の唄ふうた、また
遊戯の仕方に、何ぞ悲哀なること多き
――泉鏡花(作家)

 泉鏡花が金沢で送った幼少時代、黄昏時に数人の子供が手をつなぎ、輪の中にひとりの仲間を囲んで、歌いながら回る遊びがあった。『日本遊戯集』(大田才次郎)が集成した「でんでんむし」「中の小坊様」「弘法大師」「かごめかごめ」と同類である。
 こうした子供の遊びはいまではすっかり姿を消したが、鏡花にとっても、往年の繊細な少年少女にとっても、ふしぎな秘儀に満ちた遊びだった。人の輪が伸び縮みし、回るにつれ、輪の中の子供は次第に奇妙な感興に襲われる。目をつぶった暗闇で、唄う声がどこか遠くから聞えるようになり、見知らぬ世界に引き込まれるように思えてくる。
 鏡花は「心細くなるにつれ、うつとりした気持ちになるや、段々我ながら身のいま那辺にあるやを怪む如き心地する」と書き、この世からどことも知れぬ別の世界へ誘われた。鏡花の幻想文学を育む発端のひとつがここにあった。「無常か、悲哀か、魔の趣味のなきにはあらず」。昨今の子供たちは、TVゲームやアニメで人工の魔の世界に誘われている。

あこがれる魂の蝶を死に際に描いた画家がいる

2005年04月22日 | 詞花日暦
好太郎が死の年に好んで描いた
蝶は、はかなく美しい
――堀尾真紀子(工芸家)

 三岸好太郎の作風がおびただしく変化したといっても、絵画は一点一点の作品で鑑賞すればいい。むろん彼のどの作品にも、あらわに見える他からの影響が気を殺ぐことはある。それでも短い生涯の最晩年、彼が好んで書いた蝶の絵には注目する人がいる。
 画家の鳥海青児は「蝶と裸婦」のなかに、生涯をかけて花を追う蝶のように美を求めつづけた好太郎の象徴を見出している。堀尾真紀子は「雲の上を飛ぶ蝶」について、彼がかつて愛した女性たちか、あるいは「力のすべてを使い果して忽然と消えてしまった好太郎の魂そのもの」だろうかと書いている。
「海洋を渡る蝶」には、詩人・安西冬衛の韃靼海峡を渡る蝶のイメージが重なって見える。当の安西はこの絵を見て、「これだけの見事な仕事を惜し気もなく擲って就いたのである。死というものも悪くはないに相違ない」と書いた。蝶が人の魂であることは、古くからいわれた。死の直前に、三岸は自分の魂を見つめていたのだろうか。

生き急ぐ画家は無節操や移り気の間を往き来きする

2005年04月21日 | Weblog
芸術の上では、過去を再び繰り返す
愚かさは贅言を要さぬほど明らか
――三岸好太郎(画家)

 画家の三岸好太郎は、明治三十六年、北海道に生まれ、昭和九年に急逝した。わずか三十一年の生涯と作品は、芸術に憑かれた人間の無残さにも思われる。二十歳で春陽会に入選して以来、作風はめまぐるしく変転する。岸田劉生に影響を受けた色調、ルオーに似たフォーヴィスム、幻想的なシュルレアリスム風作品といった驚くほどの変化である。
 当然、人には無節操や移り気に見え、評判はよくなかった。放埓な生活態度も悪評をあと押しする。十年間の結婚生活を送った妻の画家・三岸節子は、「不羈奔放な彼に私はついてゆけなかった」と書いている。なぜこれほどの変貌が必要だったのか。
 芸術のデーモンに憑かれた、生活の資に作品を売るためなどというのはやさしい。おそらく死を予感した生き急ぎが彼を駆り立て、類似した絵を描かなせなかったのではないか。のちに節子は、「底をつらぬく感性の美しさや、独特の強烈な孤影は一貫して」いると語っている。短い時間を疾走する哀れさが、ひしひしと伝わってくる。

物質の力を受けて己の心の傷を癒し、己の心を慰めるな

2005年04月20日 | 詞花日暦
深山がくれの花と消えても、
自分の務めと思うことをつくし、
名誉を得んがために働くまい
――新渡戸稲造(思想家)

 明治十年、札幌農学校の二期生として入学した新渡戸稲造は、前年に教頭として赴任していたクラーク博士の薫陶を受けることになる。「少年よ、大志を抱け」と語りかけたあの有名な博士である。
 大志といえば、多くの人が社会的な地位や名誉や富への意欲と考える。まして社会が変革期にあった明治時代はなおさらであろう。事実、新渡戸は、自分は凡人だから、人並み以上に名誉欲があったとのちに書いている。「正直に告白すると、名誉をむさぼる心は、二十歳から三十歳の間で」強かったという。
 だが、新渡戸稲造を単なる地位や名誉や富に固執させかったのは、クラーク博士の教えたイエスへの帰依と、南部藩の武士の出自であったことに由来している。つまりキリスト教と武士道の「大志」が、新渡戸を凡庸で名誉欲に駆られた大学教授、官僚、議員などで終わらせなかった。

 イエスと武士の取り合わせに奇異を抱く人もいよう。キリスト教では、たとえば、逆境を切り抜けるヨブの生き方、「落伍者」の苦しみに慰めを与える『ヨブ記』に共鳴し、武士道では、明治維新で朝敵となった無名の武家が落ちぶれながら人を慰め、最後の蓄えを費やして人を助ける行為を賞賛している。
 聖書に「建築者の捨てた石こそ、家の礎石となった」とある。無名でありながら、人々の苦境を明るくし、心を和らげる人になることこそ、新渡戸稲造、ひいてはクラーク博士の「大志」であった。深い山中に人知れず消えていく花であってもいい、自分のやるべきことを尽くし、ただ名誉や地位や富を得るためだけに働くなというのである。
 それにしても稲造の時代も、多くの人々は「徹頭徹尾、物質本位であって、人生悉く金銭のみにて解決できるように」思っていた。「何かの物質の力を受けて己の心の傷を癒し、己の心を慰めんとする」人が多かった。

枝垂れ桜の角館には菅江真澄終焉の碑が建っている

2005年04月19日 | 詞花日暦
秋田県外の人で菅江真澄を
知る人ははなはだ稀であった
――柳田國男(民俗学者)

 秋田県角館は、美人の産地と町全体に咲き誇る枝垂れ桜で有名。いまも残る武家屋敷は秋田佐竹藩の支藩・佐竹北家の名残りで、京都から入籍した公卿や嫁たちが都への思いを託して桜を植えた。以来、春になると、雪に耐えた町全体の空気を繚乱と紅に染め上げる。
 菅江真澄終焉の地と書かれた碑が町外れにある。生まれは愛知県渥美半島。生涯の大半を信州から東北一帯に旅し、地誌や民俗の精細な記録を残した。いまは『菅江真澄遊覧記』として読めるが、むろん彼が生きた江戸時代には本人の書いた稿本しかない。真澄は写本による複製をつくっては知己の家に残し、佐竹家にも献上した。現在、活字本で読めるのは、写本として書き伝えられたおかげである。明治末から柳田國男たちによる地道な踏査と発掘作業も大きい。
 真澄が秋田の久保田城下に入ったのは、天明五年、百花繚乱の暮春の頃である。支藩とはいえ、枝垂れ桜の美しい角館が終焉の地と語られるのは、本人の望みもあったような気がしてならない。

歴史作家は鳴き砂に「西方の浪の音」を聞くことはなかった

2005年04月18日 | 詞花日暦
この橋立めいた長洲を往来して、もし
瞬時でも沙の音を聴くことができれば
――司馬遼太郎(作家)

 司馬遼太郎が『街道をゆく』で島原半島から天草を巡ったとき、富岡城址の長洲で渚の砂が鳴ることについて書いている。月の夜、その音を聴くことができればいいと思ったが、実際に試して見ることはなかった。彼の興味は長洲にある頼山陽の詩碑にだけ向けられた。
「詩人が旅人であれば……鳴き砂のなかにはるかな西方の浪の音まで聞きわけ」ただろうと、詩人ではない自分の無頓着ぶりを見せている。ところがこの記述が、当時、鳴き砂の踏査を行っていた三輪茂雄博士に思わぬ影響を与えた。司馬のことばを頼りに、博士は天草行きを決行する。
 結果はむざんだった。砂州にはぎっしり住宅が並び、ほこりっぽい自動車道が走り、浜は護岸中で「黒い砂利まじりの汚れた砂がわずかに残っているのみ」。有名作家は忙しいから、現地へ出かけて書くとは限らないと慰める編集者もあったという。そんなことはあるまいが、歴史小説家は鳴き砂にその手で触れるより、頼山陽の詩碑に注目してよしとした。

音を奏でる鳴き砂から日本人は歌を奪ってしまった

2005年04月17日 | 詞花日暦
ミュージカル・サンドが
存在したことは確からしい
――三輪茂雄(工学博士)

 砂のなかでも、三輪博士が興味を持ったのは石英砂である。「無色透明の石英粒こそ……白砂の極地である」。日本の美しい海岸線を白砂青松と呼び習わしたあの白砂である。しかも、妙なる音楽を奏でる「鳴き砂」でもあった。
 鳴き砂の浜は、博士の踏査によると、日本列島の日本海側を北上し、東北の太平洋側へ至る直線上にある。筆者は能登半島の「泣き浜」で一度だけ実見した。九州では、福岡県の玄界灘海岸線で記録されている。昭和四年の古い雑誌に「雀が歩く、砂が鳴く」を手がかりに博士は踏査した。だが、北九州のおおくは、多量の黒い石炭粒子が混ざり、砂は鳴かない。
 宮城県男鹿半島の鳴浜では、皮肉にも女川原発の敷地内に感度のいい鳴き砂が大量にあった。すこしのち、鳴浜には東北電力による巨大な防波堤の計画が判明。砂を残せという博士の声に同社も環境庁も耳を貸さなかった。美しい砂は博士の実験室に生き延びる。土地の人は、せいぜい汚れた浜に石碑を建てるだけですませている。

幸田露伴の時代には野釣りという釣りがあった

2005年04月16日 | 詞花日暦
一寸暖かになってくると、いわゆる
野釣りというのがはじまります
――幸田露伴(作家)

 イギリスの田舎は、低い丘陵のうねる低地に小さな川が蛇行する。その川べりをたどりながら、釣りをする人をときおり見かけた。声をかけると、パイクを釣っていると答えが返えった。釣り好きの幸田露伴がいう「野釣り」に近いのではないかと、いまにして思う。
「田圃中や野中を流れている細い川へ針を下し、一寸釣っては又歩き出し……縦横に漁り廻るから」野釣りという。ねらいはフナ。春先、産卵で大きい川から小川へ上がってくる。麦の穂がまだ青い畑のそばを通り、遠くに菜の花畑を眺め、藪椿の落ちた小道を抜け、ふだんの忙しさを忘れさせるのどかな釣りである。
 もっとも水田が区画整理され、用水路が護岸され、農薬が散布されるいまは望めない風雅かもしれない。工業優先の産業革命がもたらした弊害に苦しんだイギリスは、一転して自然の保護と復旧に立ち向かった。日本でも露伴の「野釣り」の時代をけっしていまから呼び戻せないわけではないが……。